三
「見てイサリ、釣れた!」
海面に浮上するや否や、アルタの歓声に出迎えられた。小舟に乗ったアルタは釣竿を掲げ、「今日の夕飯ね」と得意そうに小魚を披露した。
イサリは無言のまま水中から銛を出した。先にはむちむちと身がしまった一抱えほどの魚が突き刺さっている。アルタが呆然とした。
「そんな小魚じゃおやつにもならないな」
水中から小舟に上がり、イサリは魚が刺さったままの銛を船底に放った。びちびちと魚が跳ね、小舟がわずかに揺れる。
「まぁでもあんたが夕飯にしたいんなら別にいいけど。俺はこっちを食う」
「え……」
アルタが小魚と銛に刺さった魚を交互に見つめ、「ずるい」と抗議した。
「私もこれだけじゃ足りないわ。そっちも少しだけちょうだい?」
「自分でさばけた分だけ食っていい」
髪の滴を振り払いつつ、イサリは横目で見やって意地の悪い笑みを浮かべた。彼女が魚をさばくことが出来ないのは、イサリもよく知っている。
「あなたって見かけによらずほんとに意地が悪いのね!」
アルタが怒って臍を曲げた。「別に優しいふりをした覚えはない」とイサリは言い返すが、軽く睨まれただけで終わってしまった。
「じゃあ私もお腹いっぱいになれるくらい、釣ってみせる」
妙な負けん気を起こした姿に笑いつつ、イサリは彼女の分の大物も得るべくもう一度海の中に身を躍らせた。
その後、結局アルタは小魚を二匹吊り上げただけにとどまり、一方でイサリは魚三匹、貝五匹、仕掛けた蛸壷にかかった小蛸一匹という成果を挙げた。「勝負を挑んだ私が馬鹿だったわ」と消沈する少女に笑い、イサリは獲物たちを気前よくさばいて振舞った。
賑やかな食卓を囲みながら、ふとイサリは窓に目を向けた。潮風でボロボロになった窓枠の向こう側に、まるく輝く月が見える。どうも眩しいと思ったら今晩は満月かと呟くと、アルタも窓のほうを見た。
「ねぇ、食べ終わったら外に出てみない?」
早くもわくわくと胸をときめかせている様子に苦笑しつつ、イサリは快くうなずいた。
夕食を済ませ、後片付けもそこそこに二人は裸足のまま外へ出た。連れ立って浜辺を歩き、波打ち際まで向かう。さらりとした砂は夜の空気で程よく冷えており、くすぐったくて気持ちがいいとアルタは笑った。
波がかからぬぎりぎりの所まで来ると、二人は腰をおろした。型でくり抜いたように完璧にまるい満月は、昼間の太陽にもひけをとらないほど眩しかった。周囲の星明りも霞んで見えるほどだ。
「やっぱり、イサリの家は素敵ね」
しんみりとした声でアルタが言った。ざざん、と波が静かに打ち寄せる。
「浜辺も、海も、空も、月も星も、独り占めじゃない」
「そういう考え方もあるか」
イサリは月を眺めながら軽く笑った。この浜辺に小屋を構えた理由は、人気がなく海が近かったためだ。誰とも顔を合わせず漁が出来ればそれでよかった……だが、アルタの言だとずいぶんと贅沢な暮らしをしているような気分になるのだから不思議だ。
「そうよ、イサリはずるいわ。ひとりで楽しむには整いすぎた環境よ」
「ずいぶん海が気に入ったんだな」
潮の匂いが好きだと彼女は以前言っていたが、どうやらあれは本心であったらしい。そういえば海で泳ぐのも彼女は好きだ。
「天上界には、海がないから。私、空も好きなの。広々したものが好きみたい」
そう言いながら、アルタは星空を眺めている。その横顔はどことなく神妙に思われた。
イサリはしばし躊躇ったのち、「天上界って、どんなとこなの」と静かに尋ねた。アルタは一拍黙ったのち、小さな笑みを浮かべた。
「なんにもないところよ」
「そうなのか?」
イサリは拍子抜けした。金銀きらめく異国風の宮殿が立ち並んでいるのかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「雲の上の世界だから、土もないの。木や草花はあるけど、下界とは違うわ。でも、空はすごく広いの。いつも夜だけど、星や彗星の明かりがあるから全然暗くないのよ。天馬だって飛んでるわ。時々天帝が金の天馬にまたがってあちこちを視察したりもするみたいだけど、私は見たことない」
「天帝ってなんだ?」
「なにかしら……? 天上界の神様みたいな方かな」
「そうか」
イサリはうなずいたものの、天上界の具体的な光景を想像することはできなかった。珍妙な顔をしているイサリに気づき、アルタは苦笑した。
「ごめんなさい、説明、下手で」
「いや、なんとなくわかったから、いい」
とにかく星が綺麗なところなのだろうと合点し、イサリはひとりでうなずいた。
ざざん、と規則正しく波が寄せては引いていく。月明かりが波しぶきを照らし、無数の光の粒が潮風と共に散っていた。
「イサリにも見せてあげたいな。天界の星」
ぽつりとアルタが呟く。
「海が好きなあなたならきっと気に入ると思う。一緒に星空を見たいな……」
言葉は尻すぼみになり、最後は波の音にかき消された。己が今ここにいる理由を思って遣る瀬無さを噛み締めているのだろう。彼女がイサリの前に現れてから、すでに数か月が経過している。その間天から迎えが訪れることはなく、アルタが時々隠れるようにしてふと涙をためていることを、イサリは知っている……イサリは黙り込んだアルタを視線だけで見つめたが、なにも答えなかった。
(……俺は、薄情者だな)
ぽつりと胸の中でひとりごちる。このまま天からの迎えがこなければアルタはイサリと共にいるしか選択肢はないだろう。彼女が無事天上界で両親と再会できることを祈る一方、イサリは正反対の結果も望んでいた。
沈黙が流れる。気まずさを感じたのか、アルタが取り繕うように明るい声を出した。
「ねぇ、夜の海もほんとに綺麗なのね。イサリは夜に漁をすることはないの?」
「ああ……夜は、ない」
イサリはいびつな煩悶を気取られぬよう、無感情に答えた。
「……夜は危ないからな。大きな船でもあれば別だろうけど、単身で夜の海に潜るのは自殺行為だろう」
「そうなの。あんなに綺麗なのに……。星の明かりが水面に映って、まるでもうひとつの空みたいね。星に触れそうだわ」
「夢見がちだな」
イサリはようやく笑みを浮かべた。住む世界が異なるせいか、皇女という身分であるからか、それとももともとの彼女の性質なのか……イサリにはアルタが時折無邪気な子どものように思えることがあった。
しかしアルタは心外だとでも言うように片眉を上げた。
「あら、私の世界では空の星にだって触れるのよ。星が生る木だってあるし、星の光から糸だって紡げるんだから。羽衣もそれで織ってるって、前にも話したでしょう?」
イサリはきょとんとしたが、そういえばそんなことも言っていたと思い出す。まったく想像も及ばない世界だなと苦笑した。
「やっぱり、一度あなたを案内してみたいな……」
そう呟くと、アルタはほのかに口元をゆるめて哀しげな微笑を浮かべた。が、ふと顔を上げると唐突に立ち上がった。イサリは首を傾げる。
「……どうしたんだ?」
「もしかして……」
アルタがうわ言のように囁きながら海へ向かって歩みだした。衣服の裾が濡れるのも厭わずに海に入っていくものだから、イサリは怪訝に思いながら彼女のあとを追った。
「なにしてる、急に」
「イサリ、もしかしたら、羽衣が直せるかもしれない……」
「なに言って……」
腰まで完全に海に浸かったところで、アルタがやおら海水に指先を差し入れた。月光や星明かりできらめく水面が、ゆらゆらと波紋を作りながら布地のように揺れた。
アルタはしばし探るように指を擦り合わせていたが、やがて慎重な動作でゆっくりと手を引き上げた。
イサリは眉を上げた。
彼女の白い指先は、一本の細い銀糸を摘まんでいた。糸の先は海中へと続いている。むしろ海面に映り込む星明かりが糸として具現化しているようにも見えた。
「やった、できたわ……!」
銀の糸を凝視しながらアルタが感嘆の声を上げた。
「水に映る星からでももしかしたら糸が取れるんじゃないかと思ったけど……」
不思議な光景にイサリはただ目を丸くすることしか出来なかった。彼女は本当に天女で自分とは住む世界の違う人間なのだということを、初めて強く実感した。
「これで羽衣が直せる、天に戻れるわ……!」
アルタが興奮気味に言った。しかしすぐに表情を曇らせる。
「父様たちが無事な保証はないけど……それに、イサリともお別れになっちゃうわね」
イサリは目を逸らす。もとの世界に戻ることこそが彼女の有るべき姿なのだと、わかってはいる。大丈夫、きっと急げばまだ間に合うかもしれない、自分も手伝おう――彼女に告げるべき相応しい言葉がいくつか頭の中を巡ったものの、イサリはどれも口にすることが出来なかった。
ただ一言、「濡れて冷えるから戻ろう」と、そう言っただけだった。
「勘弁してくだされ、お侍さま……」
地面に額をこすりつけながら村長が懇願する。しかし「黙れ、百姓風情がっ!」と恫喝の声が響き、村長とその後ろに控えていた男衆はびくりと身をすくませた。
馬にまたがった武者が十数騎、ひれ伏す村人たちをぎろりとねめつけて怒鳴った。
「戦に傷ついた我ら武士を労わるのも百姓どもの務めであろうが! ため込んでいる食糧をすべて出せっ! 寝床も提供せよ!」
へへぇっ、と村長が土下座を深くする。身を震わせながら「で、ですが……」と小さな声で抗議した。
「それでは私どもは冬を越せませんて……もちろん食糧を献上することは出来ますが、すべてとは……」
「口答えをするか!」
突如、空気を斬り裂く鋭い音がした。丸めた村長の背中から鮮血が散る。村の男衆の間から悲鳴が上がった。
村長を斬り殺した騎馬武者は刀を振って血のりを払うと、「問答無用ぞ!」と血走った目で怒鳴った。
「不敬な百姓どもめ……食糧を探して村を焼き払え! 男と子どもは殺してしまえ! 女は好きにしろっ!」
「そ、そんな……」
「お慈悲を……」
狼狽える男衆は猛り狂った騎馬武者たちに憐れにも蹴散らされた。賊徒と化した武者たちは、逃げ惑う彼らを藁人形のように斬り伏せつつ、馬で駆けまわりながら家々に火を放った。
イサリはそんな光景を軒下で呆然としながら眺めていた。母に言いつけられ盥で洗濯をしているときだった。
「イサリっ」
悲鳴のような声がした。振り返れば母が転げるように家から飛び出していた。
「逃げるのよ、早くっ!」
「でも、父さんが……」
父は確か村長と一緒に武者たちを出迎えていたはずだ。しかし遠目に眺めていたその接待の場には、すでに死体がいくつか転がっているだけだった。
母は蒼褪めている。「早く!」と叫び、イサリの手を引いた。それと同時に家が炎に巻かれ、馬の蹄の音が聞こえた。
母子は我武者羅に駆けた。方々で村人たちが斬り殺され、馬で踏まれ、また馬上に引きずり上げられる女もいた。埃と灰と、そして血の臭いとで空気はひどく不快だった。しかしイサリは瞬きひとつ出来ず、母に手を引かれてただ走った。
やがて母は燃え崩れた民家の前で立ち止まった。瓦礫を掘って小さな隙間を作ると、そこにイサリを押し込めた。
「ここでじっとしていなさい!」
「母さん、駄目だよ!」
「いいから!」
母はイサリの上に瓦礫を被せると向こう側へ駆けていった。そのすぐあとを馬が追う。母が囮になろうとしているのだと、幼いイサリにも容易に知れた。
「戻ってきて、母さん……!」
瓦礫の隙間から垣間見える母の後姿に向かって、イサリは叫んだ。
しかし次の瞬間、
「……私も行かなくちゃ」
不意に聞こえた少女の声。イサリは驚いて振り向いた。横にはアルタがいた。
「私も戻らなくちゃ……戦わなければ、いけないの」
アルタは唇を噛み締めてそう言うと、瓦礫の下から飛び出した。
「アルタ!」
イサリも後を追うように瓦礫から出ようとする。しかし足が引っかかって抜け出すことが出来なかった。イサリの身体はいつの間にか逞しい数年後の姿になっていた。
「行っては駄目だ……!」
叫んだ刹那、横から疾走してきた騎馬がアルタを馬上に攫い上げた。抵抗するも、鍛えられた武者相手に少女は無力だった。
イサリは目の前が昏くなる。血を吐くように、アルタ、と叫んでいた。
「――!」
イサリは跳ね起きた。辺りは暗く静まり返り、潮騒の音が夜の静寂をより強調させている。
額の汗を拭う。なんという夢をみたんだろう。頬を触れば、涙が流れていた。手足がひどく冷たい。それなのに冷や汗が絶えない。イサリは頭を押さえてしばし息を整えた。
寝床のほうを向く。草臥れた煎餅布団の中では、アルタが寝息を立てていた。イサリはそっと立ち上がり、彼女のもとへ行く。
うっすらと差しこむ月光に照らされ、アルタの顔にまろやかな陰影が浮かんでいる。睫毛に縁取られた瞼は安らかに伏せられ、眠りの安寧さを物語る。
「アルタ……」
ぽつりと呟く。羽衣は着実に綻びを直しつつある。もとの姿に戻るのも時間の問題だ。そうすればアルタは天に帰るであろう。両親が生きているのかもわからぬ、戦中の天上界へと。
イサリは唇を噛んだ。拳を握る。帰してはいけない――そう、思った。この少女を戦禍に放り込んではいけない。ここにいれば少なくとも無残な目には遭わぬはずである。
足音を立てぬよう、戸棚へ向かう。木箱を取り出した。中には繕いかけの羽衣がしまってある。箱を持って、静かに小屋を出た。
小屋の裏手、小石が転がり草がまばらに生えている地面までやってくると、大きな岩がある前で立ち止まった。落ちている枝や石を使い、穴を掘る。
穴に箱を入れる瞬間、後ろめたい思いに胸が疼いた。しかし首を振る。捨てるわけではない。隠すだけだ。彼女を守るために、仕方のないことなのだ――
丁寧に土を被せ、それとわからぬように石や草を敷いて誤魔化した。月明かりだけが、まるで責めているかのように冴え冴えとイサリを照らしていた。
戸棚にあるはずの羽衣がないことに気づき、アルタは蒼褪めていた。なぜ、と狼狽える彼女に、盗まれたのかもしれないとイサリは静かに嘘をついた。共に町に出かけたことが何度かあるから、もしかしたらなにか勘付いた輩がいたのかもしれない、と。
アルタは声を出さずにさめざめと泣いた。イサリは黙って彼女から目を逸らし、唇を噛む。
アルタが顔を上げた。濡れた藍色の双眸をじっとイサリに注ぐ。イサリの鼓動が跳ねた。彼女の目を見返すことが出来なかった。
しかし少女は、眉を下げて哀しそうに微笑んだ。
「……私、でも……これで、イサリとはお別れせずにすむんだ、嬉しいって思ってしまったわ」
アルタが俯く。洟をすすり、自嘲の笑みを浮かべた。
「最低な奴ね、私って」
かけてやれる言葉など、イサリには思い浮かぶはずもなかった。