二
「少しは落ち着いたか?」
イサリが尋ねてやると、破れかけた座布団に座ったままアルタはこくりとうなずいた。「ほら」と白湯の入った湯呑を手渡すと、彼女は礼を言って温かな液体をこくんと飲んだ。
岩場から小屋までやってきたあとも、アルタはなかなか泣き止まなかった。イサリはただ黙って背中を撫で、やがて彼女も泣き疲れたのか涙も涸れたのか、ようやく落ち着きを取り戻してくれた。程よい熱さの白湯が胃の腑を満たしたことで気持ちも鎮まってきたらしい、アルタは湯呑をちゃぶ台に置くと、照れくさそうに「ありがとう」とはにかんだ。
「ごめんなさい、大騒ぎしちゃって……」
「別にいい。そうしろと言ったのは俺だからな」
「おかげで、気が晴れたみたい」
アルタはそう言って再び笑った。泣いただけで哀しみが消えるはずがないと、イサリにはわかっている。事実は変えようがないのだから、気が晴れたと己に言い聞かせているだけだ……しかしそれでも、海で見せたような沈みきった表情からは少し浮上しているようにもうかがえた。
「……魚臭いだろ。狭いし」
話題を変えるべくイサリは呟いた。アルタが周囲を見渡す。壁に立てかけられた銛や釣り竿、床に転がる蛸壷を眺めると、「漁師さん?」と尋ねた。「まぁ、そう」とイサリはうなずく。
「一人前ではない。親父が漁師だった。独り立ちする前に親父が死んだから、見習いのままだけどな」
アルタの表情が曇った。触れてはいけないことをきいたと思ったのだろう。彼女が謝罪する前にすかさずイサリは「だから魚臭いだろ」と話を結んだ。
「それに狭いし汚いし……今さらだけど、あんたみたいなのを連れてこれるような家じゃなかったかもな」
絹だろうか、高級そうな彼女の衣服の裾が床に広がっているのを見て、イサリは少し後悔した。しかしアルタはすぐに首を振る。
「そんなことない。私は海に入るのは初めてだったけど……この潮の匂い、好きだよ。イサリの家は海が感じられて素敵ね」
「そうか」
イサリは短くうなずいた。彼女の言葉が世辞なのか本心なのかはわからなかったが、気立ての良さは十分に伝わった。
アルタが肩にかけていた薄絹を脱ぎ、ちゃぶ台の上に置いた。さらさらとした銀色の質感だった。光の加減によって虹色にも金色にも輝き、この世の物とも思えぬ美しさだ。しかし中央には無残にも裂け目が走り、痛ましいことこの上ない。
薄絹に指を添わせ、アルタはイサリを見つめた。
「この羽衣を直す間だけでいいから、私をここに置いてほしいの……他にはあてがなにもなくて……」
「直るのか?」
「わからない……下界にはない材質で織られているから……。でも羽衣がないと私は天に帰れない。だから必ず直す方法を見つけるわ」
先まで泣きじゃくっていた藍色の瞳に、確固たる意志の光が宿っていた。イサリはその強い光から目を逸らし、「帰らないと駄目なのか?」と尋ねた。
「戦の渦中なんだろう? わざわざ死ににいくようなもんじゃないのか。怖くないのか。せっかくあんたの親が逃がしたのに」
脳裏には、瓦礫の下にイサリを隠した母の姿が浮かんでいた。自分だけが生き残ったことをイサリは悔いた。そして同時に、命がけで守られた己の身体は、この先命がけで自分自身が守っていかねばならないのだとも思ったのだ。どんなに辛く、苦しいものだったとしても――両親の、代わりに。
アルタが俯く。しかしすぐに顔を上げ、「戻る」と言った。
「私は逃げてはいけないの。戦いに戻らなければならない、責任があるの」
そして一度言葉を切ると、小さな声で「一応、皇女だもの」と付け足した。
「そうか……」
イサリは呟く。どこか羨ましかった。アルタの状況は決して羨むようなものではないのに、確固たる意志をもって行動できる彼女の強さが、羨ましかった。
沈み込みそうになる感情を払拭するように、イサリは意識して普段どおりの声を発した。
「やっぱりお姫様だったんだな」
「どうしてそうだとわかったの? 海でもそう言ったでしょう、驚いたわ」
「美人だからな。貴族の類は美形だと相場が決まってる」
さらりと告げてやると、アルタがまたたきした。そしてわずかに顔を赤くする。
「あなたって、そういうこと言うのね。意外だわ」
「俺は別に人の外見には興味ない。ただ事実を言っただけ。あんたが不細工だったとしてもお姫様なのに不細工とは珍しいと言ってたと思うよ」
アルタが再びまたたきする。そしてぷっと吹き出した。つい漏れ出たといった風の笑みを、イサリはいい笑顔だなと思った。
「あんたの気のすむまでいていいよ。持て成しはできないけど」
そう告げてやれば、アルタは「ありがとう」と、屈託なく笑った。
破れた羽衣をちゃぶ台に置いて、二人はどうにかして繕えないものかと首を捻った。試しに針と糸で縫ってみようとするが、まるで水や空気に針を通したかのように手ごたえがなく、羽衣には小さな穴ひとつ開かなかった。
そもそもなにで出来ているのかと尋ねれば、星の光から紡いだ糸で織ってあるのだという現実離れした答えが返ってくるものだから、イサリはすっかり閉口してしまった。
繕う方法は、わからなかった。羽衣は木箱に収め、とりあえず保管しておくことをイサリは提案した。いずれなにかわかる時がくるかもしれない、それまで我慢できるか、と。
アルタは気落ちした様子だったが、それでもすぐにうなずいて声を励まし、「しばらくお世話になります」と律儀に頭を下げたのだった。
イサリは朝日の眩しさに目を覚ました。硬い土間から起き上がり、凝り固まった身体をほぐす。室内を見れば、布団に潜り込んでいるアルタはまだ起きだす気配はなかった。イサリの小屋は狭く、一間しかない。従ってイサリは土間で寝起きすることにしたのだ。潰れた布団をアルタに寄越すのはどうかとも思ったが、浜辺や土間に寝かせるよりはいくらかマシというものだろう。
寝入るアルタを起こさぬよう、イサリは小屋を出た。頭から水をかぶって軽く身体をほぐし、外に干してあった魚の干物をかじる。まばゆく照り輝く海原を眺めながら、胸の奥にわずかな爽快感が芽生えていることに不思議な思いがした。
浜辺に腰を下ろして籐籠を編んでいると、頭上に影が差した。見上げればそこにはアルタが立っていた。白い衣服が朝日を弾いて眩しく、イサリは目を細める。
「早いのね」
そう言った彼女は未だどこか寝ぼけ眼だ。
「まぁ、習慣みたいなものだ……別になにをするってわけでもないんだけど」
父について漁をしていたときは、毎日夜明けとともに海に繰り出していたものだ……そんな懐かしい思い出がふとよぎり、イサリはかき消すように俯いて籠を編むことに集中した。
アルタがしゃがみこむ。器用に籠を編むイサリの手付きを眺めていたが、時折眠そうに目をこすっていた。イサリは小さく笑う。
「お姫様は早起きなんかしたことないんだろう。気にしないで好きなだけ寝てるといい」
「そんなことないわ。私だって早起きは得意よ」
「どう見ても眠そうだ」
茶化しつつも、彼女は突然惨事に見舞われたばかりなのだから疲れていても仕方ない、とイサリは思った。むしろそういった状況のわりには気丈なほど明るくも見えた。
「……でも、よかった」
視線は籠を編む指先に注ぎつつ、イサリは呟く。
「思ったより元気そうだ。もっとふさぎ込んでるかと思ってたけど」
「……うん」
アルタが砂をいじる。「確かに哀しいのには変わりないけど……」と弱弱しく言葉を発したが、すぐに顔を上げて眉を下げた。笑っているようにも困っているようにも見えたが、瞳の光だけは凛としていた。
「メソメソしてばかりも、いられないもの。戻った時にみんなに怒られちゃうわ。それにあなたが助けてくれたから、私はひとりじゃない」
イサリは手を止めてアルタの顔を見つめた。「そうか」と答え、作業を再開する。
まばゆいなと、思った。帰る場所がある、使命がある――希望がある。待っているのは滅亡した悲劇だけかもしれないのに、彼女は飽くまで強くあろうとしている。
イサリには、もうなにもなかった。希望を抱く隙すらなく、ただ毎日を漫然と過ごしているだけ。親に守られた命を無駄遣いしているだけだ。だから、どんな形であれ縋るもののあるアルタが羨ましく、眩しかった。
(……陰気なことを考えているな)
心中で苦笑した。胸に渦巻く鬱陶しい靄は押し込めて、イサリは努めて声を弾ませた。
「案外、強いんだな、あんた。泣き虫かと思ってたのに」
アルタが赤くなる。「まだ引きずるの? その話」と困り顔だ。
「小さい頃からすぐ泣くの、私。甘やかされてきたからかな」
イサリはまじまじと彼女の顔を見つめた。艶のある黒髪や滑らかな肌をなんとはなしに観察しながら、「確かにちやほやされてそうだな」と告げた。アルタが苦笑する。
「ねぇ、それよりなにかお手伝いできることない? 籠を編んでるんでしょう?」
「寝ぼけたお姫様に頼む気はしないな……。清水で顔でも洗ってくれば」
「あなたってけっこう意地悪なのね」
口を尖らせつつも、アルタは「私、けっこう器用なのよ」と捨て台詞を吐きながら崖下の清水へ向かって駆けていった。
軽やかな後姿を見送りつつ、知らず笑みが浮かんでいたことに気づいてイサリは驚いた。そして、久方ぶりに爽やかな目覚めを得ることが出来た理由を思うのだった。
アルタがやって来てからというもの、イサリの小屋は急に華やかに明るくなったようだった。時々町に買い出しに行った際にしか口を開かなかったイサリも、毎日彼女と他愛もない会話を交わすようになり、自分にも人らしい感情が残っていたのかと妙な感心をした。
彼女は溌剌としていた。町に連れて行けば、もともと身分が高い彼女にとっては粗末でしかない食物や衣服に目を輝かせていたし、埃っぽい雑踏や市場の喧噪にも心を浮き立たせていた。そんな楽しそうに町を散策するアルタを見て、イサリはかつて両親に初めて町に連れて行ってもらったときのことを思い出していた。彼女が自分と同じようにはしゃいでいる姿が、嬉しかった。
海で泳ぐこともいたく気に入っていた。ゆったりと海中を遊泳することも、速さを競って泳ぐことも、すべてが楽しかった。
彼女の明るさは、ともすれば押し寄せてくる不安や恐れを誤魔化すためのものであるのかもしれない。それでも、楽しそうにこちらに向けられてくる笑顔に、イサリは救われるものを感じていた。
穏やかな水温に包まれている。海面から射し込む日光が海中で虹色に揺らめいていた。イサリはたゆたう波の流れに身を任せ、ゆったりと漂っていた。少しでも長く息が続くよう、空気を吐くのは最小限にとどめる。
そばを漂うアルタはイサリほど息が続かないようで、頻繁に息継ぎをしに浮上していた。そして海中に戻ってくると、ただいまと言わんばかりにイサリに手を振る。
イサリは仰向けになって浮力のままに身体を任せた。ゆらめく海面が光を弾いてひどく眩しい。瑠璃、縹、蒼、碧、様々な青の色が光の加減で多彩な揺らめきを見せる。柔らかな帯の中にいるようだ、とイサリは思った。
頭上をアルタが滑らかな動きで横切っていく。空を舞うような、体重を感じさせぬ動きだった。
(天女、か……)
自らのもとに舞い降りた輝きと、そしてやがて訪れるであろう喪失感を思いながら、イサリは静かに目を閉じた。