表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
羽衣伝説  作者: けだま
2/6

 窓から射し込む朝日に照らされ、イサリは目を覚ました。草臥れた煎餅布団から身を起こし、伸びをする。ガシガシと頭をかくと、しばしぼんやりとした。爽やかな朝には似つかわしくない、気だるい倦怠感が身体を覆っている。晴れていようが雨が降っていようが、イサリの心身は爽快さとは無縁だった――戦で村も両親も失った、あの日からずっと。

 布団を畳むこともなく、イサリは立ち上がって棚に引っかけてあった着物を手に取った。褌一丁であった身体に衣服を纏わせれば、少しは人らしくなれるような気がする。そして水瓶に直接手を入れて水を飲み、朝食として魚の干物をくわえたまま外に出ようと草履に足をかけた。しかし小屋を出て数歩のところでプツンと鼻緒が切れてしまった。

 わずかに舌打ちし、結んで直すかと身を屈めたが、よく見れば草履はもうずいぶんと傷んでいた。そろそろ買い替えてもいい頃合いかもしれない。――あまり町には出たくなかったが、ついでに日用品も買い足そうと己に言い聞かせ、イサリは人里に出ることにした。

 イサリの小屋は浜辺にひっそりと建っている。聞こえるのはただ潮騒と海鳥の声だけだ。かつてイサリの家は村で唯一の漁師だった。筋がいいと、父はイサリのことをよく自慢していた。独り立ちが楽しみだと年中言っては、気が早いと母に笑われていた。

 戦が村を襲ったのは突然だった。騎馬武者が大挙して押し寄せ、金目のものや食糧を強奪し、男は殺し、女はかどわかされた。イサリは母の手によって燃え崩れた家の下に隠され、死体のようにじっとしていることしかできなかった。悲鳴や断末魔は耳を塞いでも消えてはくれなかった。怖かった。父と母はどこへ行ったのか、確かめることすらできなかった。

 やがて夜になると静寂が訪れた。恐る恐る這い出たイサリが目にしたのは、無残な村の残骸だけ。村であった場所は焼け野原で、哀れな死体がぽつぽつと転がっていた。父と母の姿は、なかった。

 あれから数年が過ぎた。哀しみはいつしか怒りの炎を燻らせ、怒りが燃え尽きたあとに残るのは諦観だけだった。なぜ自分だけ生き残ったのか自問することもあった。あのとき、自分だけ隠れたりせずに母と共にいれば……母を守ることができたかもしれない。村のために戦っていた父の、手助けができたかもしれない――

 いや、そんなことはなかっただろう。無力な子どもの死体がひとつ増えていただけだ。

 それでも、そうしていたほうがよかったかもしれない。村と一緒にあのとき死んでいたほうが。

 孤独な生を歩むよりも、そのほうが――いや、それでも……

 イサリはハタと立ち止まった。気が付けば町に到着していた。がやがやと賑やかしい喧噪が耳障りだ。ただ前だけを向き、イサリは市へ向かった。




 荷袋を下げ、イサリは家路を行っていた。闊達な町の空気はひどく体力を消耗させる。みなが楽しそうで、家族に囲まれ、生気に満ちている。陰気な己は場違いも甚だしい。一刻も早く海へ帰りたかった。

 小屋に辿り着き、荷物を置いて簡単な昼食を済ませると、イサリは着物を脱ぎ捨てて海へ躍り出た。少し冷たいが水温は冷たすぎるくらいがちょうどいい。己の吐いた泡がぶくぶくと舞い、日の光を弾けさせている。揺らめく青が美しい。水底のごつごつとした岩場が目視できるほど水は澄んでいる。今日の海は穏やかで最高だ。イサリは心が浮き立つのを感じた。海に潜っているときだけは解放的になれる。それに、父との繋がりを感じることができるようで嬉しくもあった。

 今日は漁をするつもりはない。ただ泳ぐだけだ。それが伝わるのか、小魚たちはイサリが海中を漂っていても逃げる気配もなく、知らんぷりを決め込んでいた。イサリは少しだけ笑みをもらす。言葉をもたぬ生き物は、人間よりもかえって雄弁で、付き合いやすい。

 どれくらい泳いだことだろう。イサリは海面に顔を出すと、眩しい夕陽に目を細めた。今にも海の向こうへ沈まんとする太陽が、朝日と見まがうばかりに赤く強い光を放っている。イサリはぼんやりと夕陽を眺めていた。やがてとぷんと太陽は沈み、芝居の早変わりのように空は橙色から紺色に変わった。

 心地よい疲労感が全身を包んでいる。そろそろ帰るかと思い、イサリは再び泳ぎだそうとした……と、そのとき。

 ふと前方に、水面から顔を出す大岩が目に留まった。目を凝らせば、どうやら岩の上には人がいるようである。

(……あんなところに、人?)

 イサリは首を傾げた。ここはそれなりに沖合だ。泳いで遊びにくるような場所ではない。そもそもこの近辺ではめったに人の姿を見かけたことがない。イサリがこの浜辺に住むことに決めた理由のひとつが、人気の無さなのだから。

 一体誰だ。気になった。場合によっては住処を替える必要もある。

 気づかれぬようにそっと大岩に近づく。座り込む人影の死角に回り、岩を見上げた。

(……女?)

 イサリは眉を上げた。そこにいたのはイサリと同じ年頃の少女だった。長い黒髪を背中に流し、白い衣服を身に着けている。どうやら裸足のようだ。

 しばし考えたのち、イサリはゆっくりと水中を泳いで彼女の正面に回った。少女は呆然と夜空を眺めているようで、イサリの気配に気が付く様子はない。

「……おい、あんた」

 低く声をかけると、少女はびくりと肩をすくませた。きょろきょろと辺りを見回しているので、イサリは「下だ、あんたの下」と彼女の視線を誘導してやる。

 少女がイサリを見つめた。薄闇で顔立ちはよくわからず、ぼんやりとしている。あちらにもこちらの顔はよく見えていないはずだが、怯えている様子はなかった。

 イサリは海水に漂いつつ、岩に手をかけて身体を支えた。

「そんなところで何やってる?」

「……」

「迷子か?」

 問いながら、海で迷子もないもんだとイサリは心中で苦笑した。こんな場所で少女がひとりで岩に座り込むなど、どう考えてもおかしい。脚は生えているから人魚ではないらしい。しかしなにかしら妖しの類には違いない。もっとも、そうだとしてもイサリには妖しを怖れる理由がなかった。そんなものよりもよほど怖ろしく理不尽なものを、もう知っているから。

「……ここ」

 イサリは淡々と告げる。

「俺の縄張りなんだけど」

 自称、だけど――そう言うと、少女は初めて反応をみせた。ハッと息を飲んだかと思うと、「ごめんなさい」とか細い声で謝罪する。

「私領だとは知らなくて……でも、もう少しだけいさせてくれないかしら?」

「別にいいけど……なんで?」

「人を……待ってるの。もう少ししたら、迎えに来てくれるはずだから……」

 語尾はか細く震えた。イサリはますます訝しく思った。やはり迷子なのか。こんなところで迎えを待つなど、妖しの迷子かなにかか?

「好きなだけいてもいい。だけど飲まず食わずでこんな海の上で待てるのか? 魚の餌になってもいいのか?」

「……大丈夫。こう見えて丈夫だから」

「……ふぅん」

 相槌を打ったあと、「あんた、妖し?」と直截に尋ねれば、少女はきょとんとした。そしてクスリと小さく笑った。

「そうかもしれない。あなたにとってみれば」

「そうか。なら心配ないな」

 妖しならばそうそう死ぬこともないだろう。イサリは勝手にそう判断すると、「じゃ」と一声かけてさっさと岩を離れていった。




 その夜、布団に寝転がりながらもイサリはあの少女のことを考えていた。この浜辺に移り住んで数年になるが、誰かに会ったのは数えるほどだ。それも陸地でのことで、海で他人に遭遇したことはない。それだけに、あの少女の存在は奇異だった。

 それに、誰かとまともな会話を交わしたのもずいぶんと久しぶりだった。小さく漏らされた笑い声が、耳から離れない。己に向けられる人の声とは、こんなにも温かいものだったろうか。

 朝がきた。イサリはもう一度、あの岩を訪れてみることにした。




 朝の海は冷たい。眩しくきらめく海面を突き進み、大岩に辿り着いた。岩の上には昨夜と同じく少女が座り込んでいる。

「……迎え、来なかったの?」

 海面から声をかけると、やはり昨夜と同じくハッとしたように少女が肩を震わせた。その過敏な反応が、どれほど待ち人から声をかけられるのを心待ちにしていたのかを如実に物語っているようだった。

 少女がイサリを見た。逆光で顔はよく見えなかったが、洟をすする音は聞こえた。

「……」

 イサリは沈黙する。しばし考えたのち、「隣、上がる」とぼそりと告げ、岩の上にあがって少女のもとまでよじ登った。

 隣に腰かけて横顔を見てみると、案の定彼女は泣いていた。滑らかな白い頬に透明な涙が流れ、はたはたと膝の上に落ちている。肩には破れた薄絹をまとい、衣服は白い簡素なものだが上質な素材に見えた。一見すると貴族の娘のようだった。

 はらはらと涙を流す少女の横顔を、イサリは黙って見つめていた。そんな視線に気が付いたのか、少女は慌てて涙を拭うとイサリに顔を向けた。

「……ごめんなさい。もう、ここからは去りますから」

 そう言って無理やりに微笑んでみせた。彼女の藍色の瞳を、イサリはじっと見つめた。どこか放っておけない顔だと思った――哀しみに満ちた表情には、経験がある。

「去るって、どこに行くつもり?」

 尋ねても、彼女は答えなかった。

「あんた、名前は? 俺はイサリ」

 唐突な質問に驚きつつも、少女は「……アルタ」とぽそりと答えた。変わった名前だと思いつつ、イサリは彼女の名前を呼ぶ。

「アルタ。あんた、行くあてないなら、うちに来いよ。女がひとりでウロウロしてるとロクなことにならない。妖しだとしても、一応見た目には女だ」

 一応どころか器量良しの部類に入るであろう外見だが、イサリは女の美醜には興味がなかった。ただ彼女が気になるのは、隠しおおせぬ哀しみに親近感を抱くから――それだけである。

 アルタは答えなかった。戸惑うようにイサリを見つめている。遠慮しているのか、警戒しているのか、心中はわからなかった。

 イサリは立ち上がる。

「泳げる?」

「あ、うん、小川でよく遊んでたから……」

「じゃあついて来なよ」

 そう言って海に飛び込むと、ゆっくりとした速度で泳ぐ。彼女が来ないのならば、それでいい。無理にでも連れて行くつもりはなかった。

 しかししばらくすると、背後でざぶんという水音が響いた。アルタが海に飛び込んだらしい。そして確かな速度でこちらに向かってくるのを確認してから、イサリは浜辺まで彼女を誘導した。




 浜辺に上がると、イサリは獣のように頭を振ってしぶきを飛ばした。暖かな太陽の光がやんわりと濡れた身体を乾かしていく。

 振り返ると、ほどなくしてアルタも浜辺に上陸した。濡れた黒髪や白い着物の裾を絞っている。しばしそうやって雫を払っていたが、乾いた海水が残していった潮がべたつくのだろう、困ったように腕や髪をこすっていた。

 イサリは浜辺から少し離れたところにそびえる崖を指差した。

「あっちに清水が湧いてる。潮水、洗い流したいだろう?」

 そう告げてさっさと歩きはじめると、アルタが慌てたように小走りで駆けてきた。イサリの隣を歩きながら不思議そうに自身の腕を撫でている。

「海に入るの、初めてだった?」

 横目で見やりつつイサリが尋ねると、彼女は小さくうなずいた。うなずいた顔はそのまま俯いて、言葉を発することはなかった。イサリもそれ以上は追求せず、黙って崖下の清水を目指す。

 やがて砂浜からごつごつとした岩場に変わり、目の前には切り立った崖が厳然とそびえたった。アルタの歩調に合わせつつ、イサリは岸壁へ向かう。岩の隙間からちょろちょろと流れ出る清水の前まで来ると、「ここ」と立ち止まった。清水の注ぎ先はちょうど窪みになっており、人が二人ほど入れる泉になっている。

「あんた先に流しなよ。俺はあっち行ってるから」

 水浴びを自分に見られたくはないだろうと思い、手短に告げて去ろうとすると、「待って」と呼び止められた。

「あの……ありがとう」

 そう言って微笑んだ顔はひどく儚げだった。まるで最後の力を振り絞って懸命につくったかのような、弱弱しい笑顔。イサリの胸に複雑な感情が去来する。彼女の言葉に答えることなく、黙って背を向けた。




 潮水を洗い流し、イサリはアルタと並んで岩場に腰かけていた。イサリは天気さえよければ水浴びしたあとは自然乾燥させている。彼女もそれを拒否しなかったので、二人でただ黙って濡れた身体を日光に当てていた。岩場はごつごつしていて座り心地がよいとは言えなかったが、日光のおかげでよく温められていた。

 穏やかな風が吹き抜けて、アルタの長い髪を、肩にまとった破れた薄絹を揺らした。ふわりと潮の香りがイサリの鼻を掠めていく。横目で見やれば、少女の顔はやはり哀しみに満ちていた。哀しげな影が、彼女の凛とした顔立ちを更に際立たせているようにも見えた。

「あんた……」

 横目で眺めつつイサリは声を発する。ゆっくりとアルタが顔を向けてきた。

「妖しのお姫様かなんか?」

 何気なくそう尋ねた。すると藍色の瞳が歪み、みるみる透明な滴が溢れて頬を流れ落ちていった。イサリは眉を寄せる。目を伏せて静かに涙する少女から、そっと視線を逸らした。

「……言いたくなければ、なにも話さなくてもいい」

 静かに告げた。詮索されて偽善ぶった同情を向けられることに、イサリは厭いていた。戦で村も親も亡くした、なんて可哀想な子――そんな憐みの目を、一体何度向けられてきたことか。物乞いをしつつ放浪していたイサリのことを、町の人々は痛ましい目で見ては気まぐれのように食べ物を与えた。けれどイサリの身体に触れることは決してなかったし、寒さに震えるイサリに家の敷居をまたがせることは一度もなかった。憐れむ視線の向こう側に、蔑み見下す侮蔑の色が、確かに透けて見えていた。

 見知らぬ他人の悲劇など、所詮はその程度のものなのだろう。イサリは初めこそ憤ったが、次第に憤ることも忘れていった。不幸な者を見下し己の境遇に安堵する心理は、当然といえば当然だ。

 だからイサリは、誰にも同情はしない。

「あんたの名前はきいた。哀しんでるのはわかる。……それだけわかれば、いい」

 アルタが顔を上げた。じっとイサリを見つめ、「優しいのね」と小さく呟いた。イサリは答えない。

「私……」

 ゆっくりと唇を開きながら、アルタが空を仰ぐ。つられてイサリも頭上を仰いだ。清々しく晴れ渡る空を背景に、海鳥が颯爽と雲の切れ間を飛んでいる。

「天上界から来たの」

「そうか」

 イサリは驚かなかった。妖しとは少し違ったか、と首を捻る。

「私の国で戦が起こって……みんな必死に戦っていた。だけど、私だけ……父様と母様に、逃がしてもらったの、ここに……下界に」

 アルタが再び顔を俯ける。涙をこらえるようにぎゅっと瞼を閉じた。

「迎えに来るから、それまで待っていなさいって……。それじゃ駄目だと、私は思った。私も天上に戻ってみんなと戦わないと……でも」

 口をつぐむと、アルタは肩に羽織った薄絹を握りしめた。

「羽衣は破れてしまった。もとに戻るまで、私は天に帰ることができない。父様たちの迎えを待つことしかできない……でも、きっと、もう……っ」

 アルタの肩が震える。イサリは「そうか……」とだけ答え、岩場の向こうに広がる海だけをぼんやりと見つめた。

 必死に嗚咽を抑える声が隣から漏れ聞こえる。イサリはしばし少女の葛藤を聞いていたが、いっこうにおさまらないのを見てとり、顔を向けた。

「我慢しないで大泣きしたほうがいい。少しは気が晴れる」

 アルタが顔を上げた。くしゃくしゃになった少女の顔を見つめ、「一応、経験則だけど」と付け足し、笑みを見せた。数年ぶりの笑顔は我ながらぎこちないものだった。

「俺も似たような境遇だよ。戦で村と親を亡くした。どこの世界も世知辛いもんなんだな」

 冗談のつもりでイサリはそう言ったが、アルタにはそうは聞こえなかったらしい。唇を噛み締めいったんは衝動をこらえていたが、ついに堰を切ったように泣きじゃくり始めた。

 膝に顔を埋めてわんわんと恥も外聞もなく大泣きする少女をイサリは少しの間眺めていたが、すぐに胸が締め付けられる感覚に襲われた。

 こういうとき、どうされるのが救いになるのか、自分は知っているはずだ――

 躊躇いがちに肩に触れ、そっと抱き寄せた。人肌の温かさに、イサリも無性に泣きたくなった。震える細い背中をあやしてやれば、アルタはイサリにしがみついて幼子のように泣いた。

 潮騒が響く中、哀しみに打ち震える少女の背中を撫でながら、イサリも静かに涙を流していた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ