第6話 呼ばれた少女
――ぱしっ。
宿水七香は突然投げ渡されたトマトを受け取り、それを投げた相手を見つめながら言った。
「……で、なんだって?」
七香の視線の先にいる相手は、何を考えているのかよく分からない微笑みを浮かべて、穏やかに佇んでいる。
静かな少年だった。
そのあり方、表情、全てが、凪いだ海のように穏やかで。
そして、もの凄く深いその海の底に、恐ろしげな怪物を隠していると感じさせるような、神秘的な微笑みが特徴的な少年だった。
なにも知らなかったら、向こうにいたときに見ていたら、すごく騙されやすそうと感じられたかもしれないくらいに、優しげで、どこか寂しげな少年だった。
けれど、いくつもの死と暗闇を味わってきた今の七香には、目の前の少年が見た目通りの存在ではないことがよく分かっていた。
――淀んでいる。
魂が、心が、瞳が、あの少年は淀んでいる。
邪悪に染まっているわけではない。
ただ、どこからも水を受け入れることのない池が徐々に生き物の死体と腐った植物とを取り込み、灰色に淀んで行くように、彼自身もまた、ゆっくりと浄化しきれない何かに染まってしまったのだ。
そのことが、今の七香にはよく理解できた。
なぜなら、自分もまた、彼と同じ――
けれど、それでも本質的に同じ存在なはずの自分と少年の間には、深い断裂があることも分かっていた。
少年の瞳には言葉に出来ない澱のようなものが沈殿しているようで、七香が想像するより遙かにたくさんの修羅場をくぐり抜けてきたのだろうということが理解できる。
自分も、いくつもの修羅場を乗り越えた。
今ここでこうして平穏に暮らしていけているのは、その修羅場を乗り越えるしかなかったからだ。
けれど、少年の持つ闇は、あれは、自分のような、ほんの一年や二年の期間で醸成されるようなものではない。
もっと、遙か悠久の時をたった一人で通り過ぎなければ、ああはならない。
本能的な部分でも、理屈の上でも、七香はそう思った。
それにしても、繰り返すようだが、彼は不思議な少年だった。
闇に沈んでいても、澱に魂が汚されていても、その心根は決して悪人ではないと、理屈では語れない何かが教えてくれている。
なにせ、この少年がいなければ、七香は今ここにはいなかった。
どこにも行けずに、ただ良いように使われて、そしておそらくは死んでいた。
なにも知らずに、なにも理解できずに、どんな説明も受けることの出来ないまま、無様に、愚かしく死んでいた。
だから、七香は彼に深く感謝していた。
今、七香が生きているのは、彼のお陰に他ならないのだから。
そんな少年が今、はっきりと断定するように七香に言う。
彼は、七香に対して決して嘘をつくことがない。
そのことを今までのつきあいで知っていたからこそ、彼の言葉は心の柔らかいところに深く突き刺さり、七香の息を止める。
真実、それは残酷な宣告だった。
聞きたくない言葉だったのだ。
「月見万里は死んだ、と言ったんだ。君の代わりに勇者として立った彼女は、その素質がなかったのに、分不相応にも勇者が持つべきとされる強大な力を持つ聖剣を身につけ、そして剣の魔力に飲み込まれて死んだ。そう言った」
同じ日本人が口にしたとはとてもではないが思えないほど、その言葉は……薬袋珊瑚の放ったその言葉は、凄惨な現実に満ちていて、七香は一瞬、自分の耳がおかしくなったのではないかと耳たぶを引っ張って確認してみた。
けれど、淡い期待はいつだって易々と裏切られるものであるらしい、とすぐに気がついた。
引っ張った耳は、地味に痛かった。
どうやら、彼の台詞は事実で、万里が死んだという事も、信じたくはないが、本当のことらしい。
地球にいれば、あの平和な国にいれば、絶対に起こらなかっただろう、友人の突然の訃報に、七香はしばし放心する。
どこに視線を合わせたらいいのかも分からず、珊瑚を見つめ、その暗闇を湛えた瞳に耐えられなくなり逸らし、かといって見るべきものもなく、仕方なく自分の手に視線を合わせる。
そうしてたどり着いた手元には、真っ赤なトマトが握られていた。
珊瑚が動く気配がしたので、ぼんやりと視線を再度上げてみれば、目の前で、彼は自分の分のトマトをしゃりしゃりとおいしそうに食べていた。
彼が自分で手に入れたトマトであるが、あまりにも場違い、というかデリカシーのなさげなその態度に、ふと怒りが生じる。
けれどそれはどう考えても理不尽なものだ。
珊瑚は、何一つ悪くない。
彼は、いつだってただ選択肢を差し出すだけだからだ。
君はどうしたい、と聞いて、その選択の通りに道を示してくれる。
最後の決断は、いつだって七香がした。
その結果が、万里の死だった。
だから、彼は何一つ、悪くない。
トマトを美味しそうに食べる彼。
生きている気配を感じた。
常に死に囲まれているからこそ、この世界では自分が確かに命ある存在なのだと、毎日、命を燃やしているのだと感じることができた。
彼も、私も、生きている。
万里だって、そうだったはずだった。
けれど、珊瑚の言葉を信じるなら、もはや彼女はこの世におらず、そしてトマトを食べることはできない。
この世界にトマトが存在していることも不思議だったが、そのあまりにも平和な光景に、一瞬、ここは魔王や魔物、竜やエルフのいる居世界などではなく、自分がかつて住んでいたことのある、地球の日本の東北の寒村かどこかなのではないか、と思った。
周りを見渡してみれば、文明社会である日本とは比べものにならないほどの原始的な生活感に溢れた村がある。
王都から逃げ出して一体どれくらいの月日が流れただろう。一年は過ぎた。二年は経っていないかもしれない。それくらいか。
村の生活にも慣れ、新たな勇者が選定されたと聞き、七香は安心して村暮らしをしていたのだが、どうやら運命というのはもっとも残酷な形で七香に使命を自覚させることにしたようだ。
なぜ、こんなド田舎に、日本人である七香がいるのか。
いや、それよりも、どうしてこんな異世界に日本人である七香がいるのか。
それは、実に簡単な話で、まじめに考えると頭が痛くなってくる。
つまり、日本でひっそりと目立たない女子高生をしていた宿水七香は、二年ほど前に、この世界に同意なく召還された、"勇者"であるということである。
◆◇◆◇◆
その日、宿水七香は道を歩いていた。
ぼんやりと、いつも通りに、共学の高校から自宅に帰るために電車に乗ろうと、駅に向かってゆっくりと歩いていたのだ。
――水のにおいがする。
雨が降りはじめていたからだろう。
コンクリートの上にぽたりぽたりと落ちた水滴は、辺りに湿気と湿った匂いをまき散らしながら、周囲の景色を普段とは違ったものへと変えていく。
七香は雨が好きだった。
雨の匂い、それに降雨の作り出す音、そして雨の日だけに見ることが出来る、カラフルな傘の景色。
なにもかもが優しく、穏やかに世界を包み込んでくれる。
そんな気がするから。
女子高生というのはおよそ考えられないほど面倒で、疲れるものだ。
目を覆いたくなるほどの凄惨な現実というのが、毎日展開する。
それこそメロドラマみたいに薄っぺらいくせに、ちくちくとそのコミュニティに属する者の魂を削っていき、そして耐えられなくなった者から順番に崖の下に落とすことを至上としている。
今日もまた一人、谷の底へと落ちていった。
一年目は耐えられたが、二年目はきつかったらしい。
高校二年生になってからの数ヶ月で彼女に対して行われた嫌がらせの数々は芸術的なまでに計算されていて、巧妙だった。
教師も気づくことなく、また仮に気づかれても大したことない悪戯でしかないと思われてしまうようなことを、いくつも積み重ねて精神力を削っていく、そんなものだった。
塵も積もれば山となるとはよく言ったもので、まさかこの諺を作った者も、小さな嫌がらせをいくつも積み重ねれば人を追いつめることも可能であると解釈する者がいるとは思わなかっただろう。
嫌がらせの主犯たる者の最も好むらしい、この諺通り、彼女は成績の維持も含め、全てにおいてこつこつと努力する。
その結果が、クラス内で最も目立たない少女の学校からの追放、という高校生という身分に属する者に対する最も厳格な罰に行き着いてしまったのは、何かに対する皮肉なのだろうか。
ひどいものだ、と思うと同時に、黙ってみていた自分も、同罪とまでは言わないまでも、ひどいことはひどい、とため息をつく。
本当に、どうしてそんなくだらないことを私たちは繰り返せるのだろう、と七香は空を見上げた。
ぼんやりと見上げた空は灰色に曇っていて、今の自分の心境を表しているような、そんな気がした。
心が、疲弊していた。
ゆっくりと精神を削られていく毎日に、少しだけ疲れていた。
だからだろう、一瞬、ほんの一瞬だけ、七香は、周りの物音が聞こえなくなった。
それが命取りとなった。
気づいたときには、巨大なブレーキ音と、自分のものではない、大きな叫び声が聞こえた。
一体なにが。
そう思った瞬間に七香の視界が捉えたのは、巨大なトラックのものと思しき荷台が迫ってくる様子だった。
あぁ、死ぬな。
逃げようとは思わなかった。
ただ、目の前に突然表れた自分の死の可能性というものを、七香は信じられないほどのおおらかさで受け入れることが出来てしまった。
諦めたかったわけではなかった。
けれど、やはり疲れていたのだろう。
うつくしいものと、よごれたものの混じり合った世界の中で、その時の七香はあまりにもよごれたものばかりに心を囚われていた。
自分も消極的に荷担してしまったいじめを原因とする、一人の少女の退学発表は、まだ若い七香にとって、大きな心の傷となったから。
あと一週間過ぎていれば、逃げられたかもしれない。
しかし、運命というのはままならないものだ。
迫り来る巨大な質量を持つトラックの荷台を前に、七香の足は一歩も動かずに、そして七香はゆっくりと目を瞑った。
――さようなら。
極限状況の中、主観的に引き延ばされた時間の中で、七香は静かに世界へと別れを告げる。
願わくば、来世は、誰もが仲良く生きられる世界に生まれますようにと、願いながら。
そうして、宿水七香は、トラックの横転事故により、その命を失った。
そのはずだった。
◆◇◆◇◆
自分の何十倍、何百倍という質量を持つ者に、高速度で追突された人間と言うものは、地面に投げつけられたトマトのように真っ赤に潰れてその命を散らす、というのが物理学から考えられる常識的な帰結というものであることは、疑問の余地がないはずだった。
けれど目を閉じた闇の中、いつまで待っても訪れない破局を、七香は奇妙に思い、ゆっくりと目を開いた。
驚くつもりはなかった。
ここが死後の世界であれ、もしくは病院であったとしても、特に驚くつもりはなかった。
なにせ、それこそ当然の話だからだ。
天国にいけるとまで思い上がってはいなかったが、死後の世界が平和で美しい場所だというのは納得できる話だ。
死んでからも苦しい日々が続くというのは、いくらなんでも酷だろう。
だから、死後の世界は平和であるべきだった。
病院であったとしたら、自分は痛みをまるで感じていないことから、無傷で済んだ訳があるはずのないあの状況から考えてみるに、おそらく痛覚を失うような障害を煩った可能性がある。
それか、もの凄く奇跡的な確率で、何か幸運に恵まれて無傷で済んだ、と言うことも絶対にありえないとまでは言えない。
ただ、あまりの状況に意識を失い、その結果として念のため病院に、ということも可能性としてはあり得るだろう。
つまり、天国だろうと、病院だろうと、それは大事故の後にたどり着く分かりやすい場所であるという意味では同じである、というのが七香の思考だった。
けれど。
覚悟を決めてすっきりと目を開いた七香の視界に飛び込んできたのは、天国の美しい花畑でも、真っ白い病院の天井と壁でもなく、石造りの巨大な建物と、そして地面に跪く金髪碧眼のティアラを被った真っ白なドレスを身に纏った少女だったのだ。
そこで初めて、七香は自分の置かれている状況に対して混乱を感じた。
ここは、どこだ。
この少女は、誰だ。
なぜ自分はここにいる。
理解できない……。
本来であれば、すぐに目の前の人物に尋ねるべきだっただろう、いくつかの疑問。
けれど七香はそのとき、珍しく混乱していた。
予想を外されて目の前に表れたよく分からない光景を、脳が処理しきれなかった。
だから、自分から何か行動しよう、とは数分の間、思えなかったのだ。
ただ、そのことは決して悪い選択ではなかったらしい、と次の瞬間、七香は理解することになる。
なぜなら、七香がここがどこで、今がいつで、目の前の人物が誰か、を自ら尋ねる前に、目の前の少女が伏せていた睫毛を上げて、声を発したからだ。
清冽な、透き通った湖面のような声だった。
その声は、七香の耳にまっすぐに、はっきりと響いた。
「ようこそ、精霊と祝福の国、エレンティア王国へ。そして、歓迎いたしましょう。貴方という存在を……我らを救うべく降臨された、あなたを。そう、異界より喚ばれた英霊たるあなたを」
一体何を言っている、何の話をしている。
そう、尋ねたかった。
けれど、少女は最後の一言、分かりやすい台詞を告げた。
「そうです、あなたこそが我が国を御救いになる英霊……そう、」
――ようこそ、ようこそ……勇者様。
と。
◆◇◆◇◆
それから、混乱して事態をうまく把握できない七香を、どこから表れたのか分からない侍女の群が取り囲み、手を引きつつどこかへと導いた。
その最前を歩いているのは、先ほどまで跪いていたドレス姿の少女である。
確かにそこに存在していることがはっきりと理解できるその少女。
けれど、静かに前を歩くその仕草は、何とも言えず洗練されていて、七香には非現実的な光景に感じられた。
あまりにも美しすぎるのだ。
現代日本において、いや、他の国々においても、あそこまで美しい所作を自然に身につけている人間などどれほどいるものか。
少なくとも、七香は彼女のように振る舞う人間を初めて見た。
真っ白な石材で作られている廊下を高い音を立てながら歩きつつ、あなたは一体誰なのだと、先ほどの発言について詳しく説明してくれと、叫ぼうと思わなかったわけではない。
ただ、歩き出してから一度も後ろを振り返らずに進むドレスの少女の背中は、明らかに質問を拒んでいて、七香は何も言えずに着いて行くことしかできなかった。
そうして、いつの間にかたどり着いたその場所は、感覚的に言うならその建物の中でも中心から少し離れた場所で、先導する少女が扉を開けて見せてくれた内装からも、その感覚は間違ってはいなかったことが察せられた。
おそらくは、高級なものであることが理解できる品のある調度品が嫌みにならない程度の距離感で配置されているその部屋は、一言で言うなら、客間、というべき内装をしていて、ここに七香を案内したという事は、つまりはそういうことなのだろう、と七香は思った。
実際、少女は一度も振り返らなかったその顔をついに七香の方に向け、ゆったりとほほえむと、
「……国王陛下との謁見は明日の予定になっております。それまでは、私が可能な限り、貴女様のご質問にお答えいたしますので、ご容赦くださいませ」
そう言って頭を下げた。
それから、ぞろぞろと着いてきた侍女たちは少女の指示に従い、部屋にいくつかのドレスや普段着と思われる服をいくつも運び込み、七香を着せかえ人形にして、サイズや見た目を合わせると、部屋のクローゼットにてきぱきと収納して、部屋を出ていった。
少女はそれを目で追いながら、最後の一人が部屋を出ていき、ぱたん、と扉を閉じ、こつこつと部屋から遠ざかっていく音を聞いたあとで、
「では、本題に入りましょう」
と言って、部屋の端に用意してあったポットと二客のカップを丸テーブルに置き、七香を招いた。
その表情は先ほどと変わらぬ、穏やかな微笑みを浮かべているように感じられたが、同時に、何か言葉にしにくいものをも内包しているように感じられて、七香は内心、首を傾げる。
しかし、それがどんなものなのか、考えてもわからなかったので、仕方なく、推論するのを諦め、それから少女の言葉に従い、テーブルについたのだった。
◆◇◆◇◆
「まずは、自己紹介から始めさせていただきましょう。私の名は……」
そう言って、淀みのない声で少女が告げたのは、彼女自身の名前と、そしてここがどこか、七香がなぜここに喚ばれたのかという、基本的な事実だった。
七香も名乗ったので、彼女はそれに頷き、それから七香のことをその名で呼ぶようになった。
ちなみに、金髪碧眼の彼女の名前それ自体は、それほど重要ではなかった。
ある意味で分かりやすく、ある意味で意外な名前であったが、それは七香が置かれている状況を理解するために重要とまで言えるような情報ではなかった。
それよりも大事だったのは、彼女の名前ではなく、その肩書きだった。
金髪碧眼の少女、彼女の肩書きは、この国の聖女、というものだという。
聖女というのが一体何を指すのか、七香には分からなかったが、説明を受けていく内に理解できた。
そのための前提知識として、彼女はまず今、七香がいるこの場所がどこかについて、説明した。
「もはや、説明するまでも無いことかもしれませんが、ここは七香様の世界とは異なる次元に存在する、いわゆる別世界、異世界、と呼ばれる場所になります……」
この時点でほとんど分かっていた事とは言え、改めてそう言われると、それは驚きべき話だった。
信じられない、荒唐無稽を地でいくような、いっそ目の前でまじめにそんな話をする聖女は頭が狂ったのではないかと罵りたくなるような、そんな話だった。
異世界、別世界。
それは空想のみが実現する非現実的な何かであって、本当に自らの身でたどり着けるような場所であるはずがない。
そのはずだからだ。
そう尋ねると、聖女は頷いて答えた。
「本来ならまさしくそうでしょう。しかしこの国エレンティアには、世界を越えるための技術たる、召喚魔術が存在いたします。それによって、七香様はここに喚ばれたのです……」
魔術、と言うだけでもそんなものあるはずがないと七香は文句を言いたくなったが、実際に、トラックに轢かれる直前だった七香がここにいることからそれが存在することは明らかであるとも言えた。
それに、疑わしそうに眉をしかめる七香に、聖女はふっと微笑んで、その美しい白魚のような手のひらを指しだし、よく見つめるように言ったのだ。
「……よろしいですか? ……着火」
空気が揺らいで、何か目に見えない力が動いた、そんな感覚がした。
それはその後改めて思い出して考えるみれば明確に魔力の発動、というものだったのだが、そのときの七香にそんなことが分かるはずがない。
ただ、そのときの七香でも理解できたのは、聖女が着火と発語した瞬間に、何かが揺らぎ、そしてその手のひらから少し離れた位置に赤々と燃える小さな炎が出現した、ということだけだ。
それは、手品ではないことは明らかで、彼女の起こした現象は魔法、魔術、そう呼ぶしかない奇跡的な光景であることを、七香にはもはや否定できなくなかった。
七香の驚愕に見開かれた瞳を見て、満足したのか、聖女は静かにその炎を消滅させる。
「おわかりですか。魔術は、存在するのです」
トリックだ、とは言えなかった。
どんな予備動作も、聖女の動きの中には存在しなかったからだ。
七香は、つい気になって聞いてみる。
「……けれど私にそんなものは使えない。あなたは私のことを勇者と呼んだ。けれど、魔術も使えず、他に戦う力も何も持たない私に、そんな役割は担えない」
勇者とは、七香の感覚からすれば、何かと戦うものだ。
聖女もまた、自分にそれを求めているはずだと思ってそう言った。
その予想は間違っていなかったようであり、そうだとすれば七香がその役割を担えるはずがないというのも当然の結論のはずだった。
けれど、聖女は七香の言葉に少し微笑んでから、まるで問題ないとでも言うように首を振って、断言するように言ったのだ。
「そんなもの……」
――これから覚えればいいのです。
そんな風に。
◇◆◇◆◇
実際、聖女の言ったことは正しかった。
七香は地球にいたころ、自分に何か特別な才能があるなどと感じたことは一度もなかった。
それはいくら勉強しても、いくら努力をしても、人並みの平凡な結果までしかたどり着けなかったという経験的な事実からの推論なのだが、エレンティアにおいては違った。
戦う力を身につけるため、と言われて始まった七香に対する武術や魔術の訓練。
その中で、彼女はめきめきと実力を付けていったのだ。
自分が怖くなるくらいに、すぐに強くなっていく。
教師として聖女が連れてきた者たちは、詳しく聞けばどこかの騎士団の騎士団長とか、筆頭宮廷魔術師とか、元の世界で言うところのその道の超一流どころだったのだが、そんな彼らをすら、一月も経たずに超えていく自分に才能がない、ということはとてもではないができない。
いや、これは才能なのか?
そうではない、別の何かではないのか?
そう自問するようになったのもそれほど遅いことではなく、さらにこの世界の歴史や世界情勢を教えられるにしたがって、疑問を大きくなっていった。
聞いた話をまとめるなら、この世界には魔王がいて、それに人々が苦しめられているので、勇者を召還して倒そうということになった、とつまりはそういう話だ。
様々な国が様々な方法で魔王討伐を目指す中、エレンティアは勇者召還というものに頼ることにした、と。
地球にいたころによく見た物語のような話で、はじめはそんなものか、と思っていたのだが、自分の見に起こったこととして真剣に考えていくと、勇者召還、というものに大きな違和感を持つようになっていった。
勇者召還は、七香のような、この世界において強大な力をふるうことのできるだろうものを召還する魔術である、という説明を受けたが、それが事実だとするなら、非常に危険な魔術なのではないか、と考えたのがその違和感の始まりだった。
その召還によって呼ばれた人物が国に協力しなかったらどうする。
反対に、敵対するような存在だったらどうだ。
むしろ、その可能性は全く低くなく、それを危惧するなら、勇者召還などすべきではないのではないか、と。
七香のそんな質問に対し、聖女はのらりくらりとかわし、決して答えようとはしてくれなかった。
何か隠している、と思った。
であれば、知らなければならないとも。
ただ、その方法がその時点では見つからない。
どうしたものか、と考えたとき、七香は自分の学んだ魔術というものの基礎を思い出した。
召還魔術は教えてもらえていなかったが、魔法陣を使う魔術、というのはたくさん教えられた。
その中で身についた知識に、魔法陣には意味が書き込まれており、それに魔力を通すことによって、その意味を現実化させることができる、というものがあった。
つまり、魔法陣は、それを見れば魔術の内容が分かるものなのだ。
とはいえ、一つの魔法陣に込められた意味は膨大なもので、長い年月をかけて最適化と複雑化を重ねたそれから直接意味を理解することなどできないとされている。
実際、七香も今まで学んだ魔法陣を見ても、その魔法陣がどのような効果を発揮するかは分かっても、どのように作用して魔術が発動しているのか、その意味を理解することはできていなかった。
だが、七香は勇者だった。
聖女も、エレンティアの人々も、そこまでは考えが及ばなかったようだが、学べば学んだだけ知識と技術が身につく彼女が本気になれば、魔法陣の意味や現象について事細かに分析することをも可能にしてしまえるだけの潜在能力を七香は持っていた。
密かに自分が召還された神殿の、召還の間に忍び込み、特殊な染料で描かれた魔法陣の図形を記憶する。
そして警備の衛兵に見つからないように自分の部屋に戻ると、紙に魔法陣を描き、その構成について研究し始めた。
すべてを理解するのには、およそ一月の時間がかかった。
けれどそれだけの時間をかけた意味はあり、魔法陣からはいくつかの重要な事実が明らかになった。
紙に描かれた魔法陣を見ながら、七香は物憂げな顔で言う。
「……隷属、思考低下、盲信……ふふふ。これだけ分かりやすいと何の目的で、とか聞く必要もないわね」
つまりはそういうことだった、と言うしかない魔法陣に組み込まれた思考誘導の魔術に、七香は怒りが吹き上がっていくのを感じた。
だから七香は直接聞きに行った。
聖女に。
なぜ、こんな魔術が召還の魔法陣に組み込まれているのかと。
自分をだましたのかと。
馬鹿正直に、だ。
今にして思えばそれは愚かな選択で、おそらくそんなことをした原因は魔法陣に組み込まれていた思考低下などの魔術の影響があったのだろう。
詰問された聖女はそんな七香をがっかりしたような表情で見つめ、それから何か呪文を唱えた。
すると、七香の体は電気でも走ったように動かなくなり、即座に衛兵に拘束された。
「……失敗作、ですわ」
七香の横を通り過ぎる聖女はそう言って、その場から去っていく。
衛兵たちは七香をそのまま地下牢へと投げ込んで、それからは年老いた牢番だけが七香の話し相手となった。
◇◆◇◆◇
「……ほれ、今日の飯だ」
鉄格子の隙間から差し出されたトレイの上に載っているのは、日本育ちの七香からすれば質素にもほどのある食事だ。
味もひどいことは何度もたべたから分かっているが、それでも死にたいわけではないので食べざるを得ない。
向こうで生きていることに意味を見いだせなかったくせに、今更何を思っているのかと思うが、人間、死にかけて初めて生きていることを実感するものなのかもしれなかった。
「クソを付けても足りないくらいにまずいわね……」
一口、カビの生えたパンを口にしてそんな言葉を口にした七香に、老いた牢番は笑う。
「くっく……仕方あるまい。主は罪人だからのう……」
「勇者として召還された罪ってわけ? 勝手にもほどがあるわよ」
「正確には、勇者として召還されたのに、聖女に従わなかった罪、じゃな」
牢番はおもしろそうにそう言った。
牢屋に閉じこめられて唯一良かったことと言えば、この牢番と会話の時間を持てることだ。
国に雇われた兵士であるくせに、この牢番はひどく変わっていて、国を批判するような台詞がぽんぽん飛び出てくる。
今も、勇者召還などをするこの国のやり方を明確に批判していて、むしろ七香に肩入れしているようにすら思える。
そこまで国が嫌いならここから出してくれればいいのに、と七香は思った。
自分で出ることはできない。
何十にも張られた結界と、魔力を完全に遮断する拘束具を取り付けられていては、いくら強かろうとどうしようもない。
普通なら魔力を完全に遮断などしたら死んでしまうためやらないが、七香は地球人だ。
魔力が完全になくても死なないと言うことを逆手に取られた格好である。
全く、よくご存じでと拍手でもしてやりたい気分だ。
食事を全部食べ終わり、トレイを牢番に手渡してごちそうさまと言うと、牢番は受け取り、それをどこかに片づけにいく。
脱獄するならこのタイミングだが、力を発揮できないから無理だ……。
そう思いながら今日も牢の冷たい床にごろりと寝転がったそのとき、
「……宿水七香、だね?」
そんな少年の声がその場に響いた。
驚いて振り返ると、そこには地球は日本においてならさして珍しくもない雰囲気をした少年が立っていて、七香は驚く。
地球で見るならともかく、こちらでは彼のような人間は珍しいからだ。
おっとりとして、品よく、物静かな雰囲気のタイプというのは、戦乱に満ちたこの世界では育ちにくいからかも知れない。
それに、この少年はたった今、七香の名前を正確な発音で言った。
こちらの世界の人間の中で、そのような事ができた者は今のところ一人もいない。
ということは……。
「……あなたは、誰? 地球人なの?」
そういう結論になる。
七香の言葉にその少年は頷き、言った。
「あぁ。とは言っても、この国に召還された訳じゃないけどね。僕の名前は、薬袋珊瑚。職業は、今はそう……傭兵かな?」
それが、七香と珊瑚との出会いだった。
◇◆◇◆◇
珊瑚は地球人で、同じくそうである七香にわざわざ会いに来たのだから、てっきり牢屋から出してくれるつもりなのかと思ったが、彼はいつまでもそうしてくれなかった。
それどころか、鉄格子越しに雑談をして帰って行く。
そんな日々が数週間は続いた。
そんな状況に業を煮やした七香が、
「……そろそろ牢屋から出してくれたりとかしないの?」
と尋ねると、今思い出した、とでも言いたげな顔で彼は笑い、
「出してほしいっていつまで経っても言わないものだから、てっきりそこが気に入っているのかと思ってたよ」
と言ったのだった。
言われてみれば、確かに七香は彼に出してほしい、とは一言も言っていなかった。
思えば彼がこういう性格――望まれない限りは何もしない――をしているのだと、このとき初めて知ったのだ。
改めて頼んでみれば、七香を脱獄させることは珊瑚にとって、簡単なことだったらしい。
魔術で何十にも防護されている牢を簡単に破壊し、七香に取り付けられた拘束具もただ引きちぎるだけで外してしまった。
どちらも解除には長大な儀式が必要なもののはずなのだが……召還された勇者、ということを考えればそういうことも可能なのかも知れない。
牢を出て、神殿から遙か遠ざかったところで振り返り、珊瑚は七香に聞いた。
「これからどうしたい?」
その質問に、どう答えるべきか、七香は迷った。
もう勇者としての自分の役割はない。
居場所も当然ない。
だから、この世界にいる必要も、ない。
そうだとすれば、自分は元の世界に帰りたいと言うべきなのではないか、と一瞬思った。
けれどそんな自分の考えに七香は首を振って答えた。
「……どこか山奥の村で暮らすことにするわ。誰にも見つからないところで」
すると珊瑚は頷いて、
「だったらいいところがある」
といって先導するように歩き出した。
なぜ、元の世界に帰りたくないのか、と聞かないのか不思議に感じたが、それが彼なりの気遣いなのかもしれないと思って、特に追及はしなかった。
それから、数週間の旅を経て、七香と珊瑚はある村にたどり着く。
のどかで、静かで、誰にも見つからないような……。
そんな、七香の望みをすべてかなえる村がそこにはあった。
村に受け入れられるのか、という問題があったが、その村の住人たちを見、さらにその来歴を聞けば余所者でも問題ないことはすぐに分かった。
異形のものや、特殊な才能や技術を持つ者たちが肩を寄せ合って住む村。
それがその村だったのだから。
◇◆◇◆◇
七香が村になじみ始めた、と感じたときに、珊瑚はすでにどこかに消えていた。
薄情なやつだ、と思ったと同時に、七香がなじむまでは一緒にいてくれたことを考えればいいやつなのかも知れないとも思った。
牢から出してくれたのだ。
いいやつには間違いないのだが。
七香の村での生活は、穏やかで、満たされていた。
まるで地球での空しい生活が嘘のように。
地球であった陰湿ないじめも、この村には存在しない。
村人同士が助け合い、そうしていかなければ生きては行けないという事実がただ明確に存在していた。
結局、自分が戻りたくないのは、あの閉息して息苦しい社会に戻りたくないのだと言うことだと、最近では理解していた。
いじめを覆すような勇気も何もない七香が元の場所に戻っても、またおなじ事が繰り返されるのだとわかっていたから、だから戻りたくないのだと。
つまり、自分は逃げたのだ。
そう確信していた。
けれど、今のここにはそんな卑屈な自分を思い出さずに済む、満ち足りた生活がある。
それだけで十分で、それ以上は望まない。
だから、戻らなくていい。
自分は一生ここで生きて、そして死んでいくんだと、そう思っていた。
◇◆◇◆◇
しかし、物事は思い通りにはいかない。
ある日、久しぶりに珊瑚が七香のもとを尋ねてきたとき、七香は決して自分が逃げられないのだと言うことを、心の深いところで理解してしまった。
「エレンティアで、新たな勇者が召還された。月見万里という女性らしい……おや、その表情、彼女のことを知っているのかい?」
彼はあれからもたまに村に来て、こうやって外の情報を七香に伝えてくれていた。
それは他愛もないものだったり、エレンティアの情勢だったりしたのだが、今回の情報は思いも寄らないものだった。
新たな勇者の召還。
それはいい。
しかし呼ばれた人物が問題だった。
「その子は……昔の同級生よ。いろいろあって、退学しちゃったけど」
「仲が良かった?」
「いいえ。ただのクラスメイト……だった」
そう。
七香と万里との関係はそれだけでしかなかった。
幼い頃は、とても仲良かった時期もある。
ただ、高校に入ってからは、ほとんど会話などしなかった。
だから、ただのクラスメイト。
そうだ。そう、自分に言い聞かせた。
珊瑚はそんな七香の瞳を、その中まで見通すような視線で見つめ、それから頷いて言った。
「……そうか。分かった。じゃあ、彼女の話はこれからはしないで」
おこう、まで言い掛ける前に、七香の口からは声が出ていた。
「いいえ、クラスメイトだったんだから、その情報は知りたいわ……できれば、逐一彼女の情報を教えてほしい……駄目かしら?」
珊瑚は不思議そうな目でそう言った七香を見たが、それからふっと微笑んで頷いたのだった。
「分かった。定期的に連絡するよ」
◇◆◇◆◇
村での生活の合間に聞く珊瑚からの報告。
それは徐々に万里がこちらの世界になじみ、強くなっていく姿であった。
かつての七香と同じように、あの聖女にだまされて、彼女は訓練を重ね、実力を高めていく。
いずれ魔王と戦い、その命と引き替えに僅かな平和を得るために。
けれど、万里と七香で違ったのは、万里は七香のように聖女に対し疑問を覚えることはなかった。
馬鹿正直にその指示に従い、頼まれたとおりに魔王を倒す気なのだ。
愚かな娘だと思った。
思えば、向こうにいたときから、狡猾に立ち回る、ということができない娘だった。
だからこそ、いじめの対象に選ばれ、そして退学にまで至ったのだろうが、その性質が、こちらでは利用されやすい人間として見なされたようだ。
珊瑚の伝えてくれる情報は、日に日に、万里の旅立ちに近づいていることを教えてくれていた。
魔王を倒しに。
命を捨てにいくのだ。
彼女が勝手に選んだ道だ。
好きにすればいい、と思う反面、自分はこれでいいのかとも思った。
向こうで、幼なじみでありながら、手をさしのべることもしなかった自分。
こちらでも同じように振る舞っていいのか。
そういう自分がいやだから、向こうに帰らずにここに残ったのではなかったのか。
自分は、みんなと助け合っていきる人間に生まれ変わったのではなかったのか。
毎日、そんなことを考えて悶々としていた。
そして、その日は来た。
「七香……万里が明日、魔王討伐に旅立つってさ」
それを聞きながら、七香は無表情に冷たく言った。
「……そう。死にに行くのね。馬鹿な子……」
しかし珊瑚はそんな七香の心の内などお見通しだとでも言うかのごとく、首を傾げて一言言った。
「君は、それでいいのかい?」
「……いいのよ」
「本当に? かつての友人を死地に向かわせてもいいのかい? きっと帰ってこられない。聖剣は君に対するほどの親和性を万里に見せてはいない。彼女では器の問題が大きいようだよ。そのことから考えても彼女は」
「いいの!! もうやめて!!」
万里が内包する死の可能性をいくつも上げる珊瑚に、七香はいつの間にか叫んでいた。
彼の言っていることは、七香も何度も考えたことだ。
言われなくても分かっている。
でも。
自分にはここでの暮らしがあるのだ。
平和で、穏やかで、ささやかな幸せの得られるこの暮らしが。
七香は、それを捨てたくはなかった。
だから。
「……もう、いいの……」
泣き出しそうな顔でそう言った七香に、珊瑚は仕方ない、と言った様子で頷き、しかし一枚の紙を手渡して言った。
「万里が通ると思われるルートだ。気が向いたら会いに行くくらいはいいんじゃないかな」
そう言って、珊瑚はその場を去った。
それから、七香は長い間、珊瑚と会うことはなかった。
◇◆◇◆◇
そして、久々に会った珊瑚が告げたのは、万里の死だった。
そのとき、自分は選択を間違ったことに気づいた。
あのとき、私は万里について行くべきだった。
何が何でも、たとえ、彼女が断ったにしても、だ。
そう、七香は、一度万里に同道を断られていた。
珊瑚にあの紙をもらったあと、七香は万里に一度、会いに行っているのだ。
そのとき、万里は久しぶりに会った七香を懐かしそうに見つめ、ゆっくりと抱きしめてくれた。
そして柔らかな声で、言ったのだ。
「久しぶりだね、七香ちゃん! 元気だった?」
と。
それはこちらの台詞だと。
突然なにも言わずに退学しておいて、その表情は何なんだとなじりたくなった。
けれど、何も言えなかったのは当然だし、退学するような事態になるまで黙って見ていたのは自分なのだ。
七香に彼女を責める資格などなく、彼女にこそ七香を責める資格があった。
なのに万里はそんなことをする気配などなく、ただ笑顔で七香を見つめ、懐かしみ、たまに会おうと言ってくれた。
嬉しかった。
彼女の中で、未だ七香は友人らしいと分かって。
だから七香は万里に深く謝った。
「……万里。なんて言ったらいいかわからないけど……ごめんなさい。向こうで私はあなたに何もできなかった……助けなきゃ行けなかったのに、なにも……」
許してもらおう、とは思わなかった。
ただ、人として、そうしなければならないと、彼女に謝り、罪を認めて、いかなる罰をも受けなければならないと思っただけだ。
だから、どんなことを言われようとも、七香は黙って受け入れるつもりだったのだ。
なのに、万里は静かに微笑んで言ったのだ。
「逆の立場だったら」
「え?」
「逆の立場だったら、どうだったかなって考えるの。私と、七香ちゃん。そうしたらね、きっと私も何もしないで見てたと思うよ……だから、別にいいよ。はじめから、気にしてない。だって、仕方のないことだった……今はね、そう思えるの」
それは完全なる許しだった。
フリでも何でもなく、真実、七香を許そうという気持ちがその表情や言葉から伝わってきた。
七香は信じられなかった。
ふつうなら、なじるはずだ。
そして恨み言を述べ、殴りつけてもおかしくない。
地球なら罪になるが、この世界ではたとえ人殺しをしても捕まらない可能性も高い。
それを考えると、今この場で、殺されてもおかしくないとすら考えてもいた。
しかし、万里は許してくれた。
七香はその言葉に目頭が熱くなり、そして、そんなことをしても許されるかどうかも分からなかったが、ただ、強く万里を抱きしめて泣いたのだった。
そして、万里は、それを許してくれたのだった。
◇◆◇◆◇
それから、七香は言った。
「万里、私もこの世界に召還された……勇者なの。だからあなたの旅について行きたい。一緒に魔王を倒しましょう」
と。
けれど万里は首を振った。
「七香ちゃん。それは、駄目だよ」
「え?」
「駄目。七香ちゃんは、エレンティアの聖女の企みに、気づいていたんでしょう? だから逃げた……今更かかわり合いになることなんて、ないよ。私だけで十分……」
その言葉を聞いて驚く。
万里はだまされていたのではなく、すべて知った上で、勇者としての役割を選んでいることが分かったからだ。
「どうして……そんな、万里こそ、それなら今すぐ旅をやめるべきよ!」
けれど万里は七香の言葉に首を振った。
「駄目だよ。確かに、エレンティアは少しゆがんでる。けれどね、魔王がこの世界に大きな害悪をもたらしているのも事実なの。北の王国を私は見た……」
そこは、数十年前に魔王の手によって滅ぼされた国家であった。
かつて魔王討伐者を輩出したほどの強国だったそうだが、それでも魔王の猛威に耐えられず、滅びを迎えてしまったのだ。
今は荒野と毒沼の支配する人の住めない地域になっている。
そんな土地を彼女は見て、何を思ったのだろう。
万里は続けた。
「ああいう土地を、増やしてはいけない。この世界にも、私たちの世界と同じように人がいっぱい生きてる。私はそれを、守りたい……だから、私は戦うの」
「だったら、私も……!」
「七香ちゃんも、私は守りたいの。ねぇ、七香ちゃん。私は知ってるよ。確かに七香ちゃんは、面と向かって向こうのひどい子たちを止めたりはしてくれなかったけど、それでも……危なくなったときに突然人が来たり、警察がやってきたりしたことはあった。あれって、七香ちゃんが呼んでくれてたんだよね?」
「……それは」
そうだが、その程度のことがなんだというのだ。
それしか怖くてできなかった。
それだけの話なのだから。
けれど、万里から見れば違ったらしい。
「たぶんだけど、七香ちゃんがいなければ、私、今頃死んでたと思う。殺されそうになったことも、少なくないから……ふふ。この世界で言うとそんなにおかしな感じはしない台詞だけど、向こうでこんなこといったら驚かれちゃうね」
などと、冗談めいた感じで言って笑うが、それこそ冗談ではない。
大きな傷を負わせるわけにはいかないから、自分から屋上から飛び降りさせようとしたり、軽くぶつかって駅から突き落とそうとされるなど、彼女にとっては日常茶飯事だったのだ。
それを、七香がどうにか人を呼んだり、事前に服を引っ張って押しとどめたりしながらして防いでいた。
それを考えると、確かに七香がいなければ死んでいたのかも知れない。
けれど、それは結果論だ。
七香がしたのはその程度だ。
いじめの根本原因をどうにかしようとはしなかったのだ。
それはつまり、彼女たちと同罪だと言うことである。
そう思っていた。
けれど万里は首を振って、決然とした顔で言うのだ。
「あのころ、私はたぶん、七香ちゃんに守られていた。私の見えないところで、七香ちゃんは戦っていたんだ。それを私は気づかなかった……でも、だから私はここにいる。私も、七香ちゃんみたいになりたい……だから、戦う。魔王を倒すんだよ……」
そんな風に、夢見るような瞳で。
七香はしかし、万里に言う。
「馬鹿なこと言わないで! 私は何もしてない。私みたいになりたいって言うなら、何もしないで村で一緒に暮らそうよ! それでいいじゃない……魔王なんて、無視して……」
「ううん。これは私の夢だから。七香ちゃんを巻き込みたくないし、七香ちゃんも守りたいの。だから、七香ちゃんは村でゆっくりしてて。私が、魔王を倒してくるから。そして……そうしたら、今度お茶でも飲もうね。……あ、そろそろ行かないと。またね、七香ちゃん」
そう言って、万里は足早にその場から去っていった。
それが、最後だとは思わなかった。
私は彼女について行く理由を失って、とぼとぼと村に帰った。
◇◆◇◆◇
「あの子は、結局魔王は倒せなかったのね……」
目の前の珊瑚にそう言った。
その手には聖剣エゴスティラが握られている。
かつて七香がもたされ、万里も腰に下げていたエレンティアの秘宝。
魔族に対し絶大な力を持つと言われる武器。
「そうだね。いいところまで言ったんだけど、最後の最後でやられてしまった。……これで、万里についての報告は最後だ」
そう言って、珊瑚はその場を去ろうとする。
何を言うべきか分からず、その後ろ姿を見送っていると、珊瑚は一度振り返っていった。
「あぁ、そうだ。七香。これからどうするんだい?」
言われて、空っぽになりかけた心の中で、七香は考えてみた。
自分がこれからどうすべきか。
何をしたいか。
どのくらい考えていたかは分からない。
けれど珊瑚はその場を立ち去らずに、待っていてくれた。
聞いたからには答えを聞かなければならない、と単純に思ったのかも知れないし、ただの気分だったのかもしれない。
けれど、そんな珊瑚の行動は七香の運命を決定づけた。
考える七香の目に、珊瑚の持った聖剣が見えた。
そのとき、心が決まった。
七香は答える。
「私は――」
珊瑚はその答えに微笑んで、聖剣と、万里の形見だという、彼女の髪の毛で作ったアクセサリーを手渡して、その場を去っていく。
そうして、私は旅支度を調えて、村を出た。
目的は、ただ一つだ。
万里の目指した私であろう。
ただ、それだけが今の私の目的だった。
◆◇◆◇◆
数年前まで“魔王城”と呼ばれていた建物の玉座に、一本の剣が突き立っている。
静かで、生き物の何も存在しないその玉座の間には、大量のがれきが真っ赤な敷物の上に転がっていて、この建物がすでに打ち捨てられたものであることを教えていた。
そんな玉座の間に、こつり、こつり、と一人の人間が歩いてくる音が響く。
一体何者なのか。
それを訪ねる者もいないこの場所に、その足音は高く反響する。
そして、その人物は玉座の前に着くと、そこに突き立った剣を抜いて改め、ふっと笑うと独り言のように呟いた。
「七香……君はやったんだね」
剣の柄には、白骨化した指がくっついている。
体の部分は既に見当たらないことから、そこらをうろつく魔物か何かが破壊したか、ゴブリンのような魔物が持っていったのだろう。
聖剣エゴスティラを手に入れたことで、彼は――珊瑚は目的を達成したらしく、周りを大して見もせずに、玉座の間を後にする。
そして、扉を開ける前に、ゆっくりと一度だけ後ろを振り返り、その真っ赤な玉座を見つめた。
「……次は、誰が座るのかな」
珊瑚は、その座が決して空位にならないことを知っていた。
もちろん、今はまだ、次の魔王が誰なのかを知らない。
ただ、それは未だ人の目にそれが触れていないだけで、確実に、あと数年もせずに現れるという事は、珊瑚にとって明確な事実だった。
珊瑚は、ここにいた魔王の性質を思い出す。
確か――新たな魔王は、倒した者の魂を素材に作られるものだったような、と。
「ま、でも、あと4、5年は平和だろうね……その間は、そうだな。南の島にバカンスにでも行ってこようかな……」
そう呟いて、珊瑚はとうとうその城を後にした。
聖剣を失った人類が、次の魔王を倒せるのかどうかは分からない。
ただ、そんなことは、珊瑚にはどうでもいいことだ。
ただ、一人の友人の最後を記憶しておこう。
そう思って、ここに来ただけなのだから。
数年後、エレンティアと呼ばれる小国が大量の魔物の襲撃に遭い、滅びた。
その中には、聖剣を持つ魔物がいたと言われ、これを天罰であると恐れる者もいたという。
神殿にいた者は特にむごい殺され方をしていたことから、余計にそう言われた。
しかし、一人の老いた牢番だけはなぜか生き残った。
伝えられたところによると、彼は罪人にも情のある扱いをすることで有名な男だったらしく、それが故、神は彼に罰を認めなかったのだと言われる。
しかし、そんな噂話の数々は歴史の波間に消えていき、千年の月日も乗り越えられずに完全に消滅した。