第5話 友の資格
月明かりの照らす夜の下、赤々とした焚火の炎が揺らめいていた。
炎が映し出す影は二つ。
細身で貧弱そうな体型をしている、腰に剣を下げた青年、そしてその青年よりも遥かに身長の低い、少年の影だ。
少年の影は、何か棒切れのようなものをまるで憎いものが目の前にいるかのように何度も振っていた。
少年の手を見れば、その掌に沢山の血豆があり、それを幾度となく潰しては、棒切れを取り落している。
何がここまで少年を奮い立たせるのか、それは分からない。
けれど、少年はいくら血豆を潰そうとも、いくら棒切れを取り落そうとも、客観的に見れば愚かとも思えるその行為を決してやめようとはしない。
それどころか、潰した血豆の数だけ、棒切れを振った数だけ、自分の目的に一歩ずつ近づいている――そう言わんばかりに目を爛々と輝かせては暗くにやりと笑うのだ。
その年齢の少年には滅多に見ることの出来ない、暗く淀んだ笑みだ。
相当な過去を、少年は抱えているらしかった。
そしてその過去は、少年を歪ませてしまったのだろう。
――出来ることなら、こんな笑い方をする少年を、これ以上増やしたくない……。
そう思って、そんな少年の様子をいつまでも飽きずに眺め続けていた青年――珊瑚は、焚火に薪を投げ込んで、その火力を調節した。
焚火の周りには、いくつかの魚が即席の木の串に刺されて並べられており、塩も振ってあるようで、丁度よく焼けたその表面には白く焼き締められた塩が付着している。
手の込んだ料理、とはとても言えない簡単なものだが、それでも野宿においては十分と言えるだけの御馳走である。
抗うには多大なる精神力を要するだろう、その空腹を刺激する匂いに、棒を振り続けていた少年は不意に珊瑚の方を見つめた。
珊瑚はそれに気づくと、不意に笑って、
「……いいよ、食べなよ」
軽くそう言って、串を抜いてまず自分が食べて見せた。
まずそうしなければ、少年は決して自ら手を出すことはないだろうと、そう思っての行動だった。
ほっこりとした川魚の白身が暖かな湯気と共にさらに旨そうな匂いを辺りに広げると、流石に我慢しきれなくなったのか、少年も棒切れを投げ捨てて焚火の前まで来て、良く焼けている魚を吟味し、最も大きなそれを取ってもぐもぐとその身を咀嚼した。
「おいしい!」
素直に焼き魚の美味しさを賞賛するその少年の表情は、先ほどと異なり、その年齢に似合った新鮮な喜びに満ちている。
子供の笑顔はこうでなくてはならない――。
けれど、その笑顔を失わせたのは、自分でもあるのだ。
少年の明るい表情を見ながら苦笑しつつ、そんなことを思った珊瑚は、改めて少年の目を見つめると、この少年と出会った経緯を脳裏に思い浮かべた。
◆◇◆◇◆
そこは紛れもなく、地獄だった。
轟々と燃え盛る火炎が辺りを赤く照らしていた。
鼻を嗅げば、戦場では常に漂っている生物の死臭が、生き物の死骸が焼け焦げていく匂いが鼻の奥を刺激する。
子供を抱きしめながら絶命した婦人、粗末な武具に身を包み、勇ましく戦っただろうにその胸元を一撃で貫かれて絶命している壮年の男性、神に祈りながらも何の祝福も与えられることなく火に焼き尽くされた神官。
足元には、いくつもの血溜まりがあり、そこら中に武器が転がっていて、ここで何か戦いが行われたのだという事を教えていた。
山奥にひっそりと隠れる様に住む者たちの村落が、かつて、ここにはあった。
明るく優しい村人が、森の恵みに感謝しながら、静かに暮らしていた平和な村が。
けれど辺りの景色を見るに、もう、その村は永遠になくなってしまったらしい。
ここにあるのは、火炎の勢いをただ強めるためだけにくべられる、燃料としての建造物と死骸だけだ。
村に住んでいた者たちは、今やもう一人たりとも息をしておらず、その身を横たえて永遠の縁へと旅立ってしまった。
珊瑚はもはやいない者たちのために、炎に巻かれながらも、ゆっくりと跪き、その冥福を祈る。
ここで命を失った者たちが、神々に冒涜されることなく、静かに闇の縁に辿り着けるようにと。
珊瑚がこの村を訪れたのは、随分と久しぶりのことだった。
どれくらいか覚えてもいないほど昔に、この集落を訪れた珊瑚は、この村の住人達に随分と世話になった。
それなのに、村がこんな風になる前にここに来れなかった自分のタイミングの悪さに、悔しさを感じる。
せめて、どこかに生き残りがいないかと、珊瑚は村を隅々まで探したが、どこにもそんなものは見当たらず、村の中に満ちている死臭を嗅いで回る事しか珊瑚には出来なかった。
何か、できることは。
村の入口まで戻り、そんなことを考えるも、もはや滅びてしまった村に対して出来ることなど、珊瑚には何もなかった。
村の住人達を弔おうにも、火炎が全てを燃やし尽くし、いずれその場所は全てが灰と化すだろうことを珊瑚の目の前の真っ赤な景色が語っている。
瞬間、記憶が強く刺激された。
かつて見た、同じような景色。
弱き人々が、蹂躙され、殺戮される光景。
そして、そんな中、何一つ出来なかった自分の事を思い出す。
あの頃から、長い年月が過ぎた。
けれど、自分はどれほど変わったと言うのか。
何一つ出来ることもなく、ただ燃えて灰となっていく村落を見ているだけ。
吐き気がするほど何も変わっていない自分に嘲りしか浮かんでこない。
「……それでも、僕は」
珊瑚は炎をその瞳に映しながら、何かを言いかける。
けれど、
――ガサリ。
村の入口に立つ珊瑚、その背後に広がる森の中から、何か物音がしたことに気づく。
「誰か、いるのか……?」
あるいは、それはこの村を滅ぼした何者かもしれない。
そう思った珊瑚は、ゆっくりと物音のした草むらへと近づいて行った。
そして見えてきたのは、
「……子供?」
怯えたような瞳で珊瑚を見つめる、一人の男の子どもがそこにはいた。
珊瑚と、燃える村を交互に見ては、呆然とした表情で体を震わせている。
その様子に、何か勘違いをしているらしいことに気づき、珊瑚は言った。
「この村をやったのは、僕じゃないよ……誰か、別のひとだ」
その言葉を少年が信じたのかどうか。
けれど珊瑚は続けた。
それは自己弁護のためと言うより、ただ、少年に興味を覚えたからに他ならない。
生き残りが、ここにいた。
少年は、おそらく、村の住人の生き残りだ。
たった一人、生き残った男の子。
何もできないと、自分を嘲るしかなかった珊瑚にとって、その少年は救いのように思えた。
それだけの話だ。
「君がどんな理由で村の外にいたのかは分からない。けれど、君は生き残った……実はね、昔の事だけど、僕はこの村に随分お世話になったんだ。だから、その村を、こんな風にした者を許すことは決してできないだろう。だから、いずれ探すつもりだ。そして……」
どうする、とまでは言わなかった。
いや、言う必要を感じなかったと言う方が近いだろう。
珊瑚の前にいる少年には、これから生きる未来がある。
珊瑚の個人的感情のために行われる何かに、少年を巻き込むわけにはいかない。
だから、少年には、珊瑚が何をしようとしているのかを、はっきりと言葉にしたくないと思った。
珊瑚は続ける。
「けれど、僕は君を見つけた。村の生き残りの君だ。君はこの村の住人だよね?」
柔らかく、恐怖を与えないようにそう尋ねると、少年は先ほどよりも震えが収まってきたようで、ゆっくりと、しかし確かに首を縦に振り、言ったのだ。
「うん……そうだ。おいら、この村の……子供だ」
「そっか。分かった……。ありがとう。さっきも言ったけど、僕はこの村にお世話になった。だけど、この村に、僕は何一つ返せてないんだ。こんな風になる前に来れればよかったんだけど、僕は間に合わなかったみたいだ……だから、ね。僕は君を助けることで、村に報いたいと思うんだ。どうかな。……それとも、何か君には当てがあったかい?」
そう、珊瑚は尋ねた。
もうやることは決まっていた。
村の生き残りのこの子供を育て、一人前にすること。
それが、珊瑚が村に返せる唯一の恩返しだと、そう確信してしまったがゆえに。
少年はしばらく、珊瑚の顔を見つめて、少し考えると、
「ううん……おいら、当てなんかない。今日、朝早くに、森に木の実を取りに行ったんだ。一杯とれて、良い気分だった。湖でも少し泳いで……それ帰ってきたら、なんか焦げ臭くて。そしたら、村が……燃えてて、それで、どうすればいいかって、ずっと隠れてた。しばらくしたら、村から“奴ら”が出てきて……」
「“奴ら”?」
出来ることなら、そのときのことを少年にあまり詳しく聞くべきではないと、珊瑚は思っていた。
けれど、同時に、村をこんな風にした犯人を、少年から聞き出せたら、とも思っていた。
思いもよらず、少年はその犯人らしき何かを目撃していたらしいことが分かった。
だから、つい聞いてしまったのだ。
少年は答える。
「“奴ら”は……“奴ら”だよ。“鬼”だ。おいらたちを襲う、“悪鬼”。この森の集落は、いくつも奴らに滅ぼされた。だから、村が燃えているのを見て、あぁ、やっぱりって思ったんだ。おいらの村も、鬼が……奴らが、やってきて、焼いたんだって。そしたらやっぱり、そうだった……鬼は楽しそうに笑って村を出て……そのまま、どこかに行ってしまった……」
「そうか……その鬼は、どっちに向かったんだい?」
「あっちの方だ」
少年にそれだけ聞いて、珊瑚は話を切り上げることにする。
あまりにも、少年が辛そうだったから。
それに、それだけ分かれば珊瑚には、追いかけることなど容易い。
村の燃える様からして、その鬼が村を出て行ってから、まだそれほどの時間は経過していないと推測できるからだ。
珊瑚はポケットから一枚の紙を取り出し、鶴を折ると、呪文を唱えて魔力を込めた。
すると鶴はふわりと浮き、形を徐々に変えていく。
気づいた時には、そこに鶴の羽を生やした小さな女の子が浮いていた。
この世界に伝わる東方の秘術、使い魔がそこにいた。
珊瑚は使い魔に一言、言った。
「追え」
それだけで全てが伝わったらしい使い魔は、言われるが否や何の疑問も挟まずに、恐ろしいスピードで飛び去っていく。
使い魔の質は込められた魔力の量と質で決まる。
あれほどの速度を出せるのは、珊瑚が相応の使い手であるからに他ならない。
少しの間、使い魔の飛んでいく方角を睨んでいた珊瑚は、瞬間、ふっと視線を緩めると、不思議そうな顔で珊瑚を見つめていた少年の方に向き直り、言う。
「お腹、空いてない?」
「……あ」
突然聞かれて、少年は詰まる。
けれども、腹は正直だ。
ぐぅ、と音を立てた少年のお腹に、珊瑚は少し微笑んで、
「何をするにも、まずは腹ごしらえだ。川がある場所は、分かるかい?」
と聞く。
少年は頷き、
「……こっちだ」
と言って歩き出した。
珊瑚も後に続く。
少しだけ歩いて、二人は村の方を振り返った。
今や、あれだけ燃え盛っていた火炎も、ほとんど消えかかっていた。
黒々とした地面や、木造りの小屋の成れの果てがいくつもあるだけで、今日の昼ごろまではそこに村落があったなどとは信じられないほど、無機質な空間へと変貌してしまっている。
少しだけ涙を流した少年の肩に珊瑚は手を当てて、
「……行こう」
そう言って促した。
少年も、分かっていたのだろう。
このまま立ち止まっていても、どこへも行くことは出来ないのだということを。
だから少年は歩き出した。
どこでもいい、ここでただ立ち止まっているのではなく、どこかへと向かうべく足を動かそうと決心して。
◇◆◇◆◇
少年と歩きながら、珊瑚はこれからどうするか考えた。
どこで生活するべきか、少年をどのように育てていくべきか。
それは難しい選択だ。
かつて子供を持ったことは無かったから、そもそもどう接していけばいいのかもわからない。
けれど、それは少年の方も同じだっただろう。
突然、住んでいた村が滅び、かと思えばその村を訪ねようとしていたらしい旅人に拾われて。
一体どれほど不安だったことか。
会話の続かない数時間は長く、やっとお互いに固さが抜けてきたころには、少年の方は色々心に決めてしまっていた。
その表情には、明らかに強い感情が宿っていた。
それも、あまりいい感情とは言えない、おそらくは、復讐心、と呼ぶべきそれが。
ある意味で、当然の流れではあっただろうが、その顔を見たときに、珊瑚はもはや彼を止めることが出来ないことを知った。
いや、無理やり止めることは、出来る。珊瑚の力なら、そんなことはいくらでも可能だ。
けれど、それは果たして正しいのか。
復讐は何も生まないからと少年を静止して……それこそ、一体何が生まれるのか。
普通なら、少年の未来には何か輝かしいものが待っていると言って、止めるのかもしれない。
けれど、珊瑚にはその選択は出来そうもなかった。
直観的に思ってしまったのだ。
少年の復讐は、正しいものであると。
だから歩きながら珊瑚は少年に聞く。
「……これから、君はどうしたい?」
その質問に、少年は静かに、けれど迷いなくはっきりと答えた。
「奴らを……鬼を、滅ぼしたい。その大切な者、全てを」
それは、ある意味でどこまでも純粋で美しいもののように珊瑚には思えた。
年端もいかない少年のする、復讐の決意は、邪なものは何もなく、ただ自分の大切な者を破壊しつくした運命を許してはおけないのだとする純粋な義侠心の発露のように思えたのだ。
だから、珊瑚は提案する。
「僕は、こう見えて戦士なんだ。それも、自分で言うのもなんだが、相当に強い……ね。もし、もし君が望むなら……君に戦い方を教えよう。それこそ、君のその望みが叶うくらいに強くなれる様に」
少年はそれから、じっと珊瑚を見つめた。
まるで、珊瑚の方が値踏みされているようなそんな熱の入った視線だった。
けれどもそれは一瞬の事だった。
少年はふっと目線を緩くし、頷いて言ったのだ。
「お願いします……おいらに、戦い方を、教えてください」
と。
珊瑚はその少年の決意に、ゆっくりと頷いて答えた。
それから珊瑚は、少年に戦い方を教え始めた。
とは言っても、初めに教えたのは簡単な内容だ。
ただひたすら、珊瑚の手本に従って、素振りを繰り返すこと。
それだけだ。
珊瑚は他に教え方を知らなかった。
ただかつて、自分が教えられたように、少年に教える。
そのつもりで珊瑚は少年に自らの技術を吸収させようとしたのだ。
少年は、まだ幼く、その体力、筋力も十分ではなく、ただ素振りを繰り返すだけでも相当な重労働だったはずだ。
けれど、少年は泣き言を一言も言わずに、珊瑚の教えに従い、木刀代わりに珊瑚が与えた太い木の棒を、腕が動かなくなるまで延々と振り続けた。
珊瑚は、少年にそれ以外に何もしないでいいと言った。
食事も、住むところも、全て珊瑚が与えるからと。
結果として、珊瑚はほとんど食事係として少年の面倒を見ることになったが、いくらでも時間のある珊瑚にとって、それは何の問題もないことだった。
そんな風な生活を続けていくうち、少年の実力は徐々に上がっていった。
その素振りには、初めの頃には聞こえなかった風を切る鋭い音が宿るようになり、次第に少年の体も戦士のものとして理想的な体形へと変わっていく。
訓練は素振りだけではなく、珊瑚との実戦を交えた者も増えていき、魔法の授業まで始まった。
それは少年にとってあまりにも辛い激務と言っても過言ではなく、非常に厳しい修行の日々だったはずだ。
それなのに、少年はやはり、何も文句も言わずに珊瑚の指示に従い、ひたすらに修行を繰り返した。
それは、少年の目的が復讐だけに塗りつぶされているからで、それを乗り越えなければ少年がもはやどこにも行けないことを珊瑚は理解していた。
もしかしたら、自分がそうさせたのかもしれないと、珊瑚は思う。
けれど、たとえそうであったとしても、少年には自分の生き方への悔いがあるようには感じられなかった。
だから、これでいいのだろう。
珊瑚はそう思って、少年の修行内容を増やしていく。
一度聞いたことがある。
「復讐なんてやめてもいいんだよ?」
と。
けれど少年は笑って言った。
「これを終えなければ、おいらは一歩も進めない。だから珊瑚、別に気を遣わないでくれ」
と。
少年の方が珊瑚よりよほど分かっていたという事だろう。
珊瑚はそう、少年に言われた日から、少年を子ども扱いするのをやめた。
すると、少年は、
「だったら、おいら、珊瑚の友達にしてほしいな。おいらをここまで強くしてくれて、生かしてくれたのは、珊瑚だ。だから、おいら、珊瑚と友達になりたいんだ……」
そう言った。
その言葉に、珊瑚は一瞬呆気にとられたが、すぐに頷いて笑った。
「もちろん、いいよ。……友か。良い響きだ」
どこか少年に負い目のようなものを感じていた珊瑚にとって、その言葉は救いとなった。
少年はそれを理解して言ったのかは分からなかったが、ただ、珊瑚に持たないものを、少年は持っていたと言えるだろう。
珊瑚と少年は、そんな風にして友人となり、それからしばらくの間、また修行の日々を続けた。
◆◇◆◇◆
少年は、強くなった。
もう珊瑚には少年に教えることは何もなかった。
教えたとしても、これ以上は強くはなれないだろう。
だから珊瑚は少年に、友人に、話すことにした。
少年の敵の住む場所について。
今、どんな風にして、生きているのかについて。
少年はその話を黙って聞き、それから何度も頷いて、最後に珊瑚にお礼を言い、旅立っていった。
少年には、徐々に修行に余裕が出るにしたがって、旅の仕方――疲れの出にくい歩き方、森での食料の確保の方法、便利な生活魔法の使い方、それに方角をどうやって見るのかについてなど――を詳しく享受していたから、その旅路に心配などなかった。
途中まで一緒に行こう、と言う珊瑚に、少年は首を振った。
「これはおいらの復讐だ。珊瑚は、村に十分な恩返しをしてくれたと思う。おいらをこんなに強くしてくれた。それだけで十分だ。だから珊瑚は……ただ、見届けてくれるだけでいいんだ」
そう言って。
だから、珊瑚はその言葉に頷き、彼の出発を見送ったのだった。
ただ、ここで彼の帰りを待つ気はなった。
珊瑚には、珊瑚の義務があると、感じていたからだ。
全てのお膳立てを図らずも彼にしてしまった人間として、彼の復讐の全てを見届ける責任が、自分にはあると、そう思っていたからだ。
だから、珊瑚は少年が旅立つと、それに先回りして、少年の目的地である敵の住処に向かい、そこで少年の到着を待ったのだった。
それは長いようにも短いようにも感じられた。
実際は、それほど長くは無かっただろう。
少年を鍛え続けた年月に比べれば、それは瞬く間に過ぎたと言ってもいい。
けれど、色々なことを思い出しながら待つというのは思いの外、堪えるものだった。
少年がこれから行うのは、復讐なのだ。
しかも、その芽は珊瑚が萌芽させたものだ
図らずも、などと言うことなど、本当ならば言うことは許されない。
むしろ珊瑚は、そうなることが分かっていて、少年を焚き付けたのだから。
復讐は正しく行われるべきだと、珊瑚は心のどこかで思っていたからだ。
たとえそれが、誰を傷つけるものなのだとしても、だ。
そうして、その時はやってきた――
◆◇◆◇◆
少年は特に気負わずに、いつも通りの雰囲気でゆっくりと歩いてきた。
その様子に、珊瑚は安心を覚える。
きっと彼はやり遂げることだろう。
そう、確信を感じたからだ。
実際、彼は鬼達の住処において、その能力をいかんなく発揮したのだから。
腰に下げた珊瑚が調達した長剣をしっかりと握り、持って生まれたその身体のバネを限界まで酷使して走り出した彼を止められる者など、そこには存在しなかった。
珊瑚が彼に教えた剣術と魔術は、確かに彼の血肉となり、彼に敵対するもの全てを蹂躙した。
その様は、まるであの時の再現のようだ。
一人残らず滅ぼされていく鬼達。
その中には、珊瑚が突き止めたあの村を破壊した存在もいたし、当然、その連れ合いや子供と思しき者もいた。
しかし少年は一切の躊躇なく、全員を平等に切り倒し、燃やし尽くし、破壊しつくしたのだ。
残酷な所業だと、言う者もあるだろう。
いかに相手が復讐の相手だとは言え、限界があるだろうと。
けれど、先に手を出したのは向こうである。
復讐に限界など存在しないのだという事を分からせなければ、少年の復讐は終わらない。
少年の失っただけのものを、相手から奪いつくさなければ、少年の心が癒される日はいつになっても来ることなど無いのだ。
少年の目は今や爛々と輝いていた。
復讐を果たせる歓喜に、燃え上がる憤怒に、そしていつしか宿り始めた狂気も。
少年は踊った。
燃え盛る火炎の中で、ただ敵を倒すべく動く復讐者として。
それからどれくらいの時が経っただろう。
そのころには、少年はその場に住む、ほとんどすべての鬼を殺しつくしていた。
そのとき、やっと少年はずっとその悲劇を見つめていた一対の視線に気づいた。
振り返って、少年は珊瑚を見つめて虚しく笑った。
「……なんだ、珊瑚。見てたのか……」
珊瑚は答える。
「あぁ、見ていたよ。君の復讐が終わっていく様を。君の手にかけられて死んでいく鬼の絶望を」
その答えに、少年は苦笑して言う。
「そうか……なぁ、珊瑚」
「ん?」
「復讐ってのは……こんなものなのかな?」
「何がだい?」
珊瑚の疑問に、少年は全くの無表情で言った。
「何も感じない……嬉しくもない、かなしくもない、楽しくもない、腹も立たないし、満たされもしない……なぁ、珊瑚。おいら、こんなことのために、生きてきたのかな……?」
「さぁ、分からないよ。復讐は、君が望んだことじゃないか」
珊瑚は、平坦にそう答えた。
そして、そう答えた珊瑚を見たとき、まるで少年は初めて珊瑚を見たような顔になって、言った。
「……なんだ。珊瑚。あんたもしかして……」
「なにかな?」
「おいらに、復讐をさせたかったのか?」
なぜ、少年がそんな結論にたどり着いたのかは分からない。
けれど、珊瑚は少年のその言葉に、優しげな微笑みを浮かべて、なんでもないことのように答えた。
「だったらどうだって言うんだい?」
珊瑚の言葉に、少年は一瞬目を見開き、けれど、何も言わずに、首を振ると、
「いや……いや。それでも、おいらは、あんたに会えてよかったよ。だってさ……」
少年は何か言いかける。
けれど、その言葉は最後まで紡がれることは無かった。
――ぐさり。
少年の背中から、銀色の何かが刺し込まれているのが見えた。
少年は自分の胸元を見て、それに気づくと、振り返って、その剣の持ち主に向かい、落ち着いて袈裟切りにした。
それから、少年はゆっくりと倒れ込む。
少年の胸元からは際限なく血が流れていて、珊瑚の目には、もはやその命は長くないように感じられた。
珊瑚の知覚は、たった今、少年が倒した者で、ここに存在する生物の反応がゼロになったことを捉えている。
もはやここですべきことは何もないと、珊瑚は全てを達成した少年のもとへと歩み寄った。
荒い息を吐く少年を見下ろしながら、珊瑚はゆったりと微笑む。
「……満足、したかな?」
珊瑚の疑問に、少年は答える。
その声は意外にも冷静で、何の憎しみも感じられない、むしろ柔らかな声だった。
「あぁ……おいらは、おいらの人生に満足したよ」
「それは……どうして?」
「おいらには……いい友達が出来たからさ。珊瑚……あんたっていう、いい友達が」
その言葉に虚を突かれたように一瞬よろめく珊瑚に、少年は続けた。
「そんなに驚かなくてもいいじゃないか……復讐は、結局どうでもよかったみたいだ……やらなければわからなかったけど、珊瑚。あんたと過ごしたこの数年は、すごく楽しかったよ……おいらみたいなのと友達になってくれて、本当に、ありがとう……」
珊瑚はその感謝の言葉に、動揺して、それから能面のようだった微笑みを外して顔を歪ませた。
「何を……君は何を言っているんだ。僕は! 僕は君に復讐をさせて……」
「いいよ珊瑚。悪ぶらなくてもさ。おいら、分かってる……おいらが、一番最初に、勝手に選んだんだ。それを珊瑚は気に病んで……いつしか自分がおいらを復讐に放り込んだって、そう思い始めたんだろう? だんだん、修行を続けていくうちに、珊瑚が辛そうになっていくの、おいら分かってたよ……だから、いいんだ」
「君は……」
珊瑚はもはや、何も言えなかった。
全部、伝わっていたのだ。
「珊瑚、最後に、お願いがあるんだ……」
「なんだい……?」
「おいらの村でさ……実は昔から伝わってる風習があるんだよ。今まで、言わなかったけど……」
聞いたことのない話だった。
珊瑚があの村を訪ねたのはかなり前だったし、それほど長い間滞在していた訳じゃないから、知らないのも無理はない。
「それはどういう風習かな……?」
涙に滲む視界を感じながら、珊瑚は尋ねる。
「おいらたちは、お墓に骨を埋めない。そうじゃなくて、生まれたときにもらった帽子を、生まれ育った森の中のある場所に、埋めるんだよ……」
「帽子……」
珊瑚は少年の被っている帽子に目をやった。
そう言えば、大して気にしたことは無かったが、確かに少年はその帽子を後生大事にしていた。
汚れてきたから変えたらいいのにと冗談で言った時も、絶対にダメだと言って譲らなかったその帽子。
そんな理由があるのなら、確かに大事にして当然だろう。
そして、そんな話題を今話すのは、珊瑚にその帽子を、あの少年の故郷の森に埋めてほしいからだということが分かった。
「分かった。君の帽子は、僕が預かるよ……」
そう言うと、少年は明らかにほっとした様子で、それから急激にその身体から力が抜けていった。
もう、喋る力もほとんど残っていなかったのだろう。
最後に一言。
「……ありがとう、珊瑚……おいらの、ともだち……」
そう言って、少年は力尽きた。
そうして少年の復讐劇は悲しげに終わりを迎えたのだった。
◆◇◆◇◆
珊瑚の足元には、今しがた息を引き取った少年と、少年を殺した者が並んで横たわっている。
一人は麻で出来た布に身を包んだ、若々しい人間の少年。
もう片方は、端切れを申し訳程度に身に纏った、緑小鬼。
珊瑚はしゃがみ込んで、少年に言われた通り、その被っていた帽子をゆっくりと拾おうとした。
そうして珊瑚が手に取った帽子。
それは、緑小鬼のものだった。
珊瑚は改めて周りを見渡した。
少年の魔術と剣術によって滅ぼされた街の様子を。
辺りには死に絶えた人間たちがその身体を焦がしてそこら中に転がっている。
胸に乳飲み子を抱いたまま倒れ伏している婦人、鉄鎧を身に纏って勇ましく戦った壮年の男、聖典を手に持ち、跪いたままの状態で刺し貫かれている神官の男。
この光景を、珊瑚はいつかどこかで見たような気がした。
どこででも繰り返される景色。
いつまでもなくならない復讐の渦。
珊瑚は手にした帽子をゆっくりと被り、燃え盛る人間の街を歩いて出ていく。
復讐に手を貸したことは、果たして正しかったのかと、自分に何度も問いかけながら。