第3話 王女と司書と迷宮と
「では、僕はこれで」
そう言ってその場を去ろうとする珊瑚の背に、声がかかった。
「あの……すみません。ご迷惑をかけて。ありがとうございます」
それは丁寧な謝罪だった。
珊瑚はその言葉に絶句し、目を見開く。
そんな様子を見て、珊瑚の目の前の男はこんな状況なのにもかかわらず、ゆっくりと微笑む。
「ふふ、そんなに驚かないで下さいよ……。分かってます。そんなこと言っている場合じゃないってことくらいは」
「……だったら」
「いえ、でも。結局僕のせいであなたが大変な目に遭っているのは事実ですから。別におかしくなっている訳ではないですよ? 当たり前の、礼儀です。それに――」
珊瑚は改めて、その男の精神力に驚嘆した。
そして、だからこそあんなことをしでかすことが出来たのかと妙に納得もした。
いま、珊瑚の目の前で余裕綽々の笑みを浮かべている男。
本当はそんな余裕などあるはずのない状況なのに、そのような様子など微塵も見せない、胆力に溢れたその男。
男は、反逆者だった――
◆◇◆◇◆
事の発端は、この国の王の娘、つまりは王女の妊娠が明らかになったことから始まる。
清楚で美しく可憐――誰もがそう評する人格と容姿を生まれ持ったその王女の唐突な醜聞に、誰よりも驚いたのはその父親たる国王だった。
すぐさま王女に詰問し、父親が誰かを問い糺したのは言うまでも無いことだ。
けれど、王女は決してその名を口にはしなかった。
しっかりと引き結ばれたその口に、国王は業を煮やし、彼女の侍女たちから聞き出そうとし始めたが、それもうまくはいかない。
王女が侍女たちをまるで自らの姉妹のように扱っていたのと同じように、侍女たちもまた、柔らかな微笑みでまるで身分の差などそこには存在しないように自分たちに接してくれる可愛らしい王女に、深い親近感を抱いていたのだ。
だから、たとえ国王からどんな脅しをかけられても彼女たちは決して王女の相手を言おうとはしなかった。
この事態に、国王は激怒した。
ただでさえ、王女の突然の妊娠は問題だった。
なぜと言って、王女は隣国の王子との結婚が既に決まっていたからだ。
王女の妊娠が明らかになる前に、そのお腹の子を排除し、さらに王女自身は気の病で婚約が出来ないようになったと告げるしかもはや穏便に収める手段は存在しない。
それが出来なければ戦争である。隣国はこの国より大きく、軍事力も強大だった。
つまりこれは王女の個人的な問題などではなく、国家存亡の危機である。
とてもではないが、王女の感情など気にしている余裕などなく、だからこそ王女には早いところその相手を吐いてもらい、そして早々にその相手には死んでもらわなければならなかった。もちろん、罪状など明らかにすることは出来ない。だから、その刑は変則的なものになるだろう。ただ、抜け道などいくらでもある。国王に与えられた権力はたとえ無実の者であっても闇に葬れるからこそ使い出があるのだ。国王は、そのことを良く知っていた。
けれどそんな国王であっても、死を覚悟して自分に逆らう人間から秘密を聞き出すことは至難の業だった。
王女も、また侍女も、国王の詰問に対して一向に応えようとはしない。
時間ばかりが過ぎていき、隣国の王子との正式な婚約を結ぶ時期が迫ってきている。
このままでは、戦争も時間の問題である。
このままでは――
◆◇◆◇◆
そしてある日、国王は覚悟を決めた。
雲一つない青い空が美しい、とても天気のいい日だった。
そんな空模様とは正反対の形相を浮かべた国王は、王女の籠っている寝室に出向くと、王女に最後の機会を与えた。
「相手を言え。今なら、まだ間に合う」
静かな声だった。どこまでも深い水底のように、どんよりと暗く、冷たい声だった。
国王は本来、もっと暖かな人格をした、むしろ周りの人間に好印象を抱かせるような、そんな人間だった。
けれど、王女のことが明らかになって以来、それも全く変わってしまった。
彼は今、部屋にいる誰よりも暗い顔をしていた。
しかし、そんな顔を見つめて震えてはいても、王女は決して口を割ろうとはしない。
それどころ、国王の表情を見て、改めて決意を固めてしまったらしく、王女は悲壮な表情を浮かべつつも気丈に国王に言い放った。
「どんなことがあろうとも、このことは申し上げることができません。お腹の子の父親を、みすみす死刑台に登らせるようなことがどうして出来るとおっしゃるのでしょう。私は、たとえこの命を絶たれようとも、この秘密を守り抜くことを絶対に心に決めております」
鮮やかな覚悟であった。
おそらく、王女はこの後、お腹の子を下されるという事にも気づいているのだろう。
そして、それならば自分もまた死ぬ、お腹の子の父親の秘密を抱えて、とそう心に決めてしまったのだ。
ここにきて、国王は完全に手詰まりになってしまったことに気づいた。
もはや、王女の口からかの父親の名を聞くことは出来ないだろう。
しかし、それはあくまで自主的にという条件が付いたうえでの話だ。
国王は首を振り、そして言った。
「残念だ。とても、残念なことだ。だが――お前はその選択をすぐに悔い、許しを請うことになる。しかし私はお前を許さないだろう。残念なことだ」
そう言って、国王は部屋の隅に控えていた侍女の手を引っ張り、足元に引き倒すと、瞬間、腰から引き抜いた短剣を振りかぶる。
そこまで見て、王女は始めて国王のしようとしていることに気がついた。
気がついて、それから大声で叫ぶ。
「おやめくださいっ!――やめて!!!!」
けれど、国王の振り上げた手は止まらない。そのままゆっくりと短剣は振り下ろされていく。
目を見開く侍女、甲高い悲鳴、肉を切り裂く音色、それから、飛び散る血しぶき。
全てが、王女の感覚ではゆっくり起こったことのように思えた。
けれど、実際それは一瞬の出来事だった。
人体の急所とも言うべき頸動脈を一撃で切断された侍女は、大量の血液を噴出させてこと切れる。
それから、国王は悲しそうな顔で他の侍女を見つめ、そして手招きした。震えながらも、他の侍女は国王の命には逆らえない。王女の秘密を話さないと言うことには大義名分があった。けれど、国王はもはやそれを求めていない。この場から逃げることもできない。侍女たちに残ったのは、目の前でこと切れている侍女と同様の運命を辿るということが分かっていても、国王の手招きに応じると言うことだった。青い顔をして、静々と侍女たちは国王の下へと寄っていく。国王はそれを満足そうな、けれどどこか氷のように冷たく感じる微笑みで迎える。
それから、国王は王女に言った。
「お前が私の質問に答えない度、お前の侍女は一人ずつ死んでいくことだろう。別に、お前は秘密を守りたいならば守ればいい。しかし、その結果失われるのはお前の命ではなく、お前が姉妹とも考えている者の命だ。彼女たち全員が死んだら――そのときは仕方がない。彼女たちの家族を殺そう。それでも足りないなら、親族も。それでも足りないときは――いや、それでもお前が話さなければ、そのときはお前の勝ちだろうな。ただ、分かっていることだが、その場合、この国は隣国に滅ぼされるだろう。国民は蹂躙されるし、王族は一族郎党が処刑される。貴族だって、うまいこと隣国に渡りをつけられる者以外はお家断絶だ。どうだ、満足か。それで、お前は満足なのかと聞いている」
国王の目は暗い。彼は、口にしたことをきっと守ることだろう。
王女はあまりの事に混乱し、考え、そして何も取る手立てがないことを悟ると、全てを諦めた。
彼女とて、国を思う気持ちがない訳ではない。むしろ、その気持ちは、普通よりもかなり多いと言っていい。王女は、国を愛していた。今回のことは、ただ、それよりも愛する相手が出来てしまったと言うだけの話だ。
そうして全てを諦めた王女は、凶行に走った国王に、ぽつぽつと自らの思い人の話を始めた――
◆◇◆◇◆
「これで、良かったのですか?」
玉座に座る国王の横に、珊瑚の姿はあった。
腰には長剣を下げているが、今、彼が手に持っているのは先端に大きな魔石の取り付けられた魔術媒体たる杖である。
魔石は彼の魔力に反応し、煌々と光り輝いている。魔法が発動している証拠だ。
その魔法の対象は、国王と珊瑚の目の前にいた。
目から光が失われ、うわ言のように自らの記憶を訥々と語る国王とよく似た面影を持つ少女――つまりは王女だ。
珊瑚は、彼女に魔法をかけていた。
彼は国王から依頼を受け、王女にその記憶を自らの口から話させるためにこうして出張してきたのである。
そのための手段として、国王が凶行に出た、というでっち上げの眩惑を王女に見せ、話す気分にさせたのだが、どうやら効果が強すぎたらしい。王女に見せている極めて残酷かつ凄惨な幻覚は、王女の精神にまで良くない影響を与えているかもしれなかった。
しかし、国王はそんな王女の様子など気にも留めない。
「別にかまわない……いや、むしろありがたいことだ。王女には、いずれ気の病で床に伏してもらわねばならない。それに……この後には、まともな精神でいても耐えられないような日々が待っているかもしれぬ……」
それは、冷静な政治家としての意見と、あくまで一人の父親として娘を慮る気持ちと、両方が含まれた意見だった。たぶん、気にも留めていないように見えているのは、その気持ちを必死に抑えているからだろうと珊瑚は思い至る。
確かに、今後も王女が通常の精神で生きていくのは酷なことかもしれない。
彼女の想い人は処刑されるだろう。
彼女のお腹の子供は、生まれる前に命を絶たれることだろう。
そして、彼女自身は一生飼い殺しである。どんな希望をも持つことは出来ず、外の世界との接触を絶たれて生きていく。
死んだ方がましなのかもしれなかった。
「さて、相手の名前も分かったことだ。捕えに行かねばなるまい。騎士団長! いるな」
大声で国王が呼びつけると、部屋の陰に控えていた大柄の男が玉座の前に出でて跪き、
「はっ」と返事をした。
そして国王からある人物の逮捕を命じられる。あくまでも秘密裏に、と告げられたその言葉に、騎士団長は一切の疑問も挟まずに頷いてすぐさまに行動を開始した。
王女の相手には気の毒だが、決して逃げることは出来ないだろう。
国家が相手なのだ。しかも、その最高戦力が直接に指揮をとって、その逮捕に全力を注ぐと言う。
兎を狩る獅子すらも真っ青の力の入れ振りであり、同情を禁じ得ないその事態。
けれど考えてみれば王女に手を出したその男自身の選択が悪いのである。
自業自得だろうと、さして気にもせずに、珊瑚は王女にかけていた魔法を解除してその場を後にした。
王女の瞳から失われた光は、それでも戻ることはない。
ぶつぶつと精神を破壊された様子でうわ言と呟き続ける王女を、国王は優しく抱きしめた。
◆◇◆◇◆
珊瑚の依頼はまだ終了していない。
国王の御前に騎士団長の手によりずるずると引き出されたその男は、珊瑚が思っていたよりも遥かに若く、また誠実そうな青年だった。
聞くところによれば、王宮外に存在する王立図書館の司書をやっているらしく、王女とはそこで出会ったらしい。なるほど確かにその顔立ちと瞳には知性のきらめきが感じられた。王女との関係についてすでに把握されていることも理解しているだろうに、驚愕とか怯えとかで顔を塗りたくられていないのは、彼に深い理性が存在するからだろう。
国王はそんな青年を見ながら頭を抱え、国王らしく、厳めしく言い放つ。
「……お前が王女の相手で、相違ないな?」
その言葉に、青年は返す。
「間違いございません。私が王女殿下のお腹の子の父親でございます」
全く淀みのない、むしろ凛とした声だった。
別の機会にこの声を聞けたなら、彼の誠実さと高潔さをその声から感じ取れたかもしれない。
けれどこの場においてはむしろ逆効果だ。彼の悪びれることのないその態度は、明らかに国王に対する謝罪の意など持ってはいないことの証に他ならない。
国王はその青年を見て、首を振り、そして諦めた。
「これは、ダメだ……追って、沙汰を伝える。下がれ」
そう言い放って、騎士団長に下がらせるように言う。
青年は入ってきた時と同様、引きずられるように謁見の間を出ていくと一瞬、国王を見て微笑んだ。
その笑みに、一体どんな意味が込められているのか。
珊瑚には分からなかった。
ただ、国王は分かっていたのかもしれない。
国王は、それからしばらく、青年の出て行った扉を見つめていた。
◆◇◆◇◆
青年にいかなる罰が科されるのか、それが決定されたのは国王が青年と会った次の日のことだった。
なぜこれほどまで急に決まったのかと言えば、早々に処刑しなければ隣国との関係が悪化する爆弾を抱える羽目になるという理由もあったが、その他に王宮の占星術師たちが揃って、青年を“禍いを呼ぶモノ”として指弾したという事情もあった。
この時代、国家の政治は政治家だけのものではなく、占いなど超自然的なものにも頼る面があり、それも魔力や魔術との関係もあって無視できない確率で当たるために、占い師の意見は重用されていた。それも、一人だけではなく何人もの占い師を独立して雇い、それぞれの意見をまとめ上げて未来を予測するということが行われており、今回はこの国の雇ったほとんどすべての占い師が、青年をよくないものと見たことから、国王は彼の存在の抹消は急務であると理解した。
しかしその方法が問題だった。占い師たちは口を合わせて、彼をこの国で害せば、この国に禍が降りかかると言った。それに、直接害するのもよろしくないと言うのだ。
国王は仕方なく、青年をどこか他の場所で処刑できないかと、珊瑚に相談した。
占星術師たちからも既に提案は受けていたようだが、珊瑚にも聞く必要を感じたらしい。
国王は、珊瑚の事を腕利きの傭兵であり、歴戦の勇士であると説明を受けて雇っていた。その技術も知識も、他に並ぶものなしと言ってよく、国王が雇うに他に人は無いとまで言われて。
だからこそ、こういう場合にどういった方法があるのか、珊瑚にも尋ねようと国王は考えた。
珊瑚はその問いに、少し考え、それから言った。
「では、彼を他国の迷宮に派遣してはいかがでしょう?」
迷宮。それは古来より存在する不可思議な現象の一つである。人工物であるとも、自然物であるとも言われるそれは、まるで誰かの手によって組み上げられたが如く、示し合わせたように人を迷わせる奇妙な構造をしている魔物の巣窟であった。
当然、本来であればそんな場所だと知っていれば人が足を踏み入れるはずもないのだが、問題はその迷宮には貴重な資源が大量に眠っていると言うことであった。物語に残るような神造武具と言われる国家的兵器が発見されるのも、迷宮の深部においてであり、だからこそあらゆる国家は迷宮の攻略に余念がなく、常に精鋭を放ってその資源を集めている。
ただ、迷宮の共通する性質として、軍のような大量の人員を送り込むとそれに比例するように魔物の数と質が増していく、ということがあった。迷宮から出てくる魔物もいるため、軍を送り込みその攻略に失敗した場合には大規模な被害が想定される。そのため、国家は軍を送り込むようなことはせず、精鋭を選別し、その攻略に当たらせるという手法を取っているのが実情であった。
その迷宮に、青年を送り込めという。それは一体どういう意味なのか。
首を傾げる国王に、珊瑚は説明した。
「要は、他国において、間接的に殺害すればいいのです。であれば、彼を迷宮の最深部にまで連れて行き、そのまま放置するのがよろしいでしょう。王女に手を出した者に対する刑としても妥当では?」
「最深部など……そんなことを誰が出来る」
「僭越ながら、この私が」
珊瑚が気障ったらしくそんなことを言うと、国王が目を見開いて驚く。
「真か」
「この上なく。許可さえいただければ、今すぐにでも連れて参りましょう。そうですね……≪竜の禍つ家≫などどうでしょう。あそこであれば明日にでも辿り着きますが」
珊瑚の提案に、国王は黙ってうなずき、それから文官に青年を迷宮へと派遣する旨の命令書をその場で作らせると、珊瑚に手渡して言った。
「任せる」
「御意」
謁見の間から珊瑚が出て行ったあと、国王はぽつりとつぶやいた。
「まさか、占い師どもと同じ提案をするとは。……偶然か? いや……」
考え込んだ国王は、しかしその疑問に答えを出すことが出来ずに諦めて首を振る。
「いずれにせよ、あの青年の命が短いことに変わりはない……」
しかし、国王は自分が選択を間違えたことには気づくことができなかった。
◆◇◆◇◆
青年と共に国を出ると、珊瑚は青年を振り返り、言った。
「……それでは、これからどうしますか?」
「……どう、とは? 迷宮に向かうのでは? たしか≪竜の禍つ家≫に」
不思議そうな顔で珊瑚を見つめる青年に、珊瑚は答える。
「あんなの方便ですよ。城の占星術師たちが、そういう刑がいいとかなんとか言っていたのを小耳に挟んだのでアイデアを拝借させてもらったのです。……それに、別にあなたは悪くないのでは? 逃げたいなら逃げて構わないと思います。僕は追いかけませんよ。なんなら、貴方を迷宮深部に置いてきたと国王に告げても構わない」
その言葉を聞き、青年は目を見開いて、か細い声を出した。
「……あなたは。しかしそれではあなたの身が危険なのでは」
「それについては気になさらなくても構いません。僕自身のことは、どうにでもできますので。それよりも、いま問題なのは、あなただ。どうしますか?」
珊瑚の問いに、青年は黙考する。
珊瑚が本当のことを言っているのかどうか考えているのかもしれない。珊瑚がただ青年を試すためにこんなことを言っているだけであって、逃げようとした途端、切りつけてくる可能性もなくはないのだ。
けれど、青年は、しばらく考えたのち、答えを出した。
「いいえ。私は沙汰に従いましょう。どんなことがあっても、私のしたことは罪に他ならない。罪は償わなければなりません」
そうでしょう?
そう言った青年の微笑みは、どこか明るさに欠けていた。珊瑚はそこに僅かに混じった憎しみの気配を感じた。けれどそれには触れずに、青年の言葉に応える。
「どんなことがあっても、ですか」
「えぇ、どんなことがあっても、です」
「であれば、貴方は迷宮に向かうべきではないと思いますが……」
それは、青年の目的を正確に理解しての言葉だった。
そのことを青年も分かったらしい。けれど青年は首を振る。
「いいえ。これでいいのです。これこそが私の目的に叶う……」
そう言って笑い続ける青年には、どこか狂気が感じられた。
ただそれを指摘して責める資格も、その気も珊瑚にはない。
彼のしようとしていることが一体何か、珊瑚には分からなかったが、頷いて先を急ぐことにした。
◆◇◆◇◆
≪竜の禍つ家≫、それは大陸でも屈指の迷宮の一つであり、その最奥部に辿り着いた者は未だいないと言われる。
その大きさは一つの階層だけで大都市に匹敵するとまで言われ、それが何階層続いているのかは誰も確認していないのが実情だ。
入口は複数あり、やはりその全てを人類は未だに把握できていない。ただ、比較的大きな入り口や、あまり強くない魔物の出現する入口の周りには歴史的に宿場町のようなものが形成され、それが徐々に巨大化していった。それこそが、≪竜の禍つ家≫の周辺を囲むような形で作られた巨大都市ドラグストラの歴史だ。
ドラグストラの入口には大きな竜の銅像が二体、旅人達を睥睨するように並んでいる。これは、≪竜の禍つ家≫の深部に住むと言われる巨大竜ナーガジャを象ったもので、歴史上その姿を目撃したものは数人しかおらず、全員が英雄と呼ばれる存在であると言われる。ナーガジャは魔物であるが、それと同時にそれに遭遇し、生きて帰ることができたものに幸運を授けると言われており、会いたくないと迷宮攻略者に思わせると同時に、憧れを抱かせると言う不思議な魔物だった。
そんな魔物の跋扈する迷宮へ、明日、珊瑚は青年と共に突入する。
ドラグストラの中を、今日の宿を探しながら歩いていると、広場で体勢を低くして地面に片耳をつけている旅人らしき服装の人間を何人も見ることができた。
それを見た青年は、
「あれは、ドラグストラの名物ですね」
と訳知り顔で呟く。
珊瑚も負けてはおらず、
「えぇ。あの音を聞いているのでしょう」
と言って答えた。
珊瑚の言葉にどことなく残念そうな顔になった青年は、けれどすぐに気を取り直して、
「では、せっかくだから私も」
と言って地面に耳をつけた。
珊瑚もそれに倣って同じことをする。すると、
――どくん、どくん……
と、鼓動のようなものが耳に聞こえてきた。明らかにそれは珊瑚自身のものではなく、地面の奥底から確かに聞こえてくるものだ。
ドラグストラの地下、それはつまり、迷宮≪竜の禍つ家≫である。
そう、その音は、その鼓動は、迷宮から聞こえてくるのだ。
迷宮の存在について、その全てを解明した者はいない。ただ、迷宮には、いくつかのバリエーションがあることは事実として知られている。どうしてそうなっているのか、という理由については不確かではあるが。
その中でも、≪竜の禍つ家≫はその特徴から極めて有名な迷宮であった。
≪竜の禍つ家≫は、生きている迷宮と言われる。
迷宮自体が生きているの、と言われているのだ。
なぜなら、≪竜の禍つ家≫の地上部分に耳を寄せれば、確かにその鼓動が聞こえてくるからである。どうしてそんな音が鳴っているかは分からない。けれど、その鼓動は、この場所にドラグストラが出来てから、数百年、ずっと休まずになり続けている。その事実は、確かに≪竜の禍つ家≫が生きている証拠のように思われた。だから、生きている迷宮と言われるのだ。
実際のところは、何の根拠もない話だ。けれど、住民たちはそれを信じている。そして、あえてそのことを否定する必要もないものだった。
立ち上がり、体についたほこりや砂を払って、青年は言う。
「いい音ですね」
「ええ、いい音です」
珊瑚も応じて頷いた。
晴れやかな顔の青年は、もうこれで心残りはないとでも言うように、そのまま歩き出す。明日の為に、宿を探さねばならない。
珊瑚も青年の後に続いた。青年に、言葉はかけない。かけるべき言葉が、見つからなかった。
◆◇◆◇◆
安宿の部屋の中で、青年はぽつりとつぶやいた。
「……明日で、最後なんですね」
それがどういう意味だったのかは分からない。
ただ、どんな意味においても、それは正しかっただろう。
珊瑚は一日で最深部まで踏破するつもりだった。それは他の人間から見れば驚異的どころかあり得ない仕業なのだが、そんなことを気にする珊瑚ではない。
次の日、人が誰も入らないような山奥の中にあるおそらくは未だ誰も発見していない≪竜の禍つ家≫の入口に青年と共に辿り着いた珊瑚は、青年を背中に抱えると、猛烈な速さで迷宮を駆けはじめた。
途中、様々な罠や魔物に遭遇するが、それらは一瞬の後にはるか後方へと置き去りにされていく。青年はそんな景色を何時間も見続け、そして気づいた時にはとうとう最深部へとたどり着いてしまったのだった。
◆◇◆◇◆
「……それに――私にはここで、したいことがあるのです」
珊瑚に対し、お礼を言った後、青年は続けてそんなことを呟いた。
見ると、先ほどまで青年が浮かべていた気弱げな笑みとは違う、どこか禍々しい、不可解な表情が、今青年の顔には浮かんでいる。
人格が、変わった?
いや、そうではない。先ほどの青年も、今の青年も、その内実に変わったところがあるようには珊瑚には感じられない。
変わったとすれば、それは表情を取り繕うのを止めた、というところだろうか。
青年の口調は変わらなかった。ただ表情だけが、先ほどとは別人のように変わったのだ。
ただ、珊瑚はそのことを指摘せずに、青年の話すに任せて、続きを促す。
すると青年は先を続けた。
「そう……したいこと、それはここでしかできないことです。城の占星術師たちには高いお金を払いました。受け取らない者もいましたが、ほとんどは私のお願いに従ってくれたようですね」
「……あのアイデアは、占星術師たちのものではなく、あなたのものだったのですね」
「そうです。まさかあなたまで国王に同じ台詞を言ってくれるとは思いませんでしたが……」
「そんなにまでして、一体こんなところで何をしようと言うのです?」
首を傾げる珊瑚に、青年は言う。
「私はただ、復讐を果たしたいだけです」
「……復讐、ですか。国王に?」
王女との中を切り裂いた人その人に、ということだろうか。
そういう意味での質問だった。
けれど青年は首を振り、そして驚くべき事実を話し始める。
「それと、王女もです。……ご存知ですか? あの王女、あんな顔をして裏ではとんでもない女でした。……実のところ、私には婚約者がいたのです。彼女は真摯に私のことを想ってくれ、私もそれに応えようと努力してきたのですが、ある日彼女は、僕のもとから永遠に去りました。通り魔に襲われて、帰らぬ人になったのです。運の悪いことだと思った。私は、恥も外聞もなく泣きわめきました。そうして、何日も幽鬼のように過ごして……もうダメだと思ったそのとき、図書館に王女がやってきたのです。その後は、あなたも知っているでしょう。王女は私を見初め、そして恋仲になった……けれど、それは違います。王女は、あの女こそが――」
――私の婚約者の殺害を図った犯人だったのです。
迷宮に、その言葉だけが木霊した。
◆◇◆◇◆
つまり、青年が言うには、王女は青年のことをずっと前から憎からず思っており、けれどそのときにはすでに彼には婚約者がいた。その婚約者の存在が不都合だった王女は、それを排除しにかかり、さらにはそれによって出来た青年の心の穴にそっくり入り込んで恋仲になったと、つまりはそういうことのようである。
随分と手の込んだ、しかも酷い所業である。
そのことを知った青年は、王女に対する復讐を考え始めたのだと言った。
「それに、あの女をあんな性格に育てた国王もね。私は考えましたよ……考えに考え抜いて、調べに調べた。その結果、私は一つの結論にたどり着きました。迷宮の可能性に。知っていますか? 迷宮において行われている蠱毒の呪法を」
蠱毒の呪法。それはつまり、迷宮最深部の魔物が最も強い理由である。迷宮は最初は小さく弱い魔物しかいない。けれど、彼らはお互いに貪りあい、殺し合い、そして徐々に強くなっていくのだ。本来、そんなことで力が上昇するはずがないのだが、迷宮がその補佐をしているらしく、迷宮で敵を倒せば倒すほど、その者の力は上昇する。それこそが、迷宮において日常的に働いている蠱毒の呪法である。
しかし、それがどうかしたのか。
それが一体何になる。
そんな表情を浮かべている珊瑚に、青年は首を振って説明し始めた。
「蠱毒の呪法、これは二匹の魔物がいたとして、どちらかがどちらかを殺し、食したときに、もう片方の力と記憶がもう片方に注がれる、というものです。つまりこの方法をうまく活用すれば……」
――私は、巨大竜ナーガジャに、なれる。
そう言って、笑った青年の顔は、意外にも晴れやかであり、夢と希望に満ち溢れていると言われても素直に頷けるほど、いい笑顔であった。
◆◇◆◇◆
つまり、彼は自分をナーガジャに食わせ、ナーガジャに自分の復讐をさせようと考えているのだろう。
そんなことが果たして可能なのか、疑問だった。
しかし、彼には勝算があるらしかった。彼は数年間の研究を経て、確実に自らの記憶を食われた相手の中に注ぎ込む方法を編み出したと言った。
だから、ナーガジャはいずれあの国を襲うだろうと。
それが本当であれば、彼の目的は達成されるのだろう。
しかし、そんなことは夢のまた夢だ。
魔物の研究の大半は失敗する。それは魔物が厳密に言うなら、そもそも生き物なのかどうかすら分からない奇妙な生態をしているからであり、いくら法則性を見つけたとか言っても外れていることがほとんどだからである。
だから、青年の挑戦も失敗に終わるだろう。
珊瑚は、そう思っていた。
けれど夢見る青年にそんなことを告げる勇気はない。
珊瑚はあいまいに笑って青年に別れを告げると、そのまま≪竜の禍つ家≫最深部を後にする。
青年は最後まで手を振って、晴れやかな笑みを浮かべ続け炊いた。
◆◇◆◇◆
それから数年の月日が経った。
それは突然のことだった。
巨大な地震が、≪竜の禍つ家≫を覆う巨大都市ドラグストラを襲ったのだ。
都市を覆う石畳は全て割れ、家々は崩れ落ちていく。人々が逃げまどい、辺りから火の手が上がる。
それは地獄だった。
そして、永遠に続くとも感じられたその地震は、けれど以外にもあっさりと引いた。
安心が、街の中に広がった。
だが、それはただのぬか喜びに過ぎなかった。
地震の次にドラグストラを襲ったのは、巨大な地割れであった。
ドラグストラの街に、ぴしりと巨大な一本線が引かれると、そこからぱりぱりと地盤が割れていき、深い闇が覗く崖が徐々に開いていった。
崖の奥からは時間が経つにつれ、魔物が湧いてくる。
ドラグストラの地下は、迷宮である。つまり、その魔物達は迷宮の魔物達に他ならない。魔物達は地上に出てきて嬉々として人間を襲った。人間たちも勿論やられっぱなしではなく応戦する。けれどそれでも地震直後の戦いは人間には分が悪かった。そもそも、その戦闘の大半を担っていたのは、ドラグストラ事態に縁のない冒険者や傭兵、他国の騎士である。敗色が濃厚となった時点で、彼らは蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
残されたドラグストラの街人はけれど諦めずに戦いを続けた。彼らは自分自身の祈る神も信じていた。いよいよとなったら、きっと助けてくれるはずと。彼らの信じる神は、巨大竜ナーガジャ。噂が本当なら、迷宮の最深部にいるはずの魔物だった。
そうして、彼らの祈りが届いたのか、吠えるような轟音と共に、地割れ全体を埋め着く様な巨体の、黒色の竜がその羽を羽ばたかせて上昇してくるのが街人の目に入った。彼らは歓喜した。我らの神が、我らをお救いに降臨したのだと。祈りを捧げ、感謝の台詞を吐いた。
けれど、そんなものは当然のことだが幻想に過ぎない。それは魔物に過ぎないのだから。
黒竜はどんどんと上昇していき、そしてドラグストラ全体を睥睨できる位置まで辿り着くと、一瞬街を見つめて、それから口元を赤く光らせた。
何が来るのか、理解したときにはもう遅かった。
黒竜はその口を大きく開き、灼熱の炎をドラグストラ全体に浴びせたのだった。
これこそが、ドラグストラを襲った悲劇、絶望の四日間と言われるが、これは実のところ歴史的には脇役に過ぎない。
たった四日でドラグストラを燃やし尽くし、完全な更地へと変えた黒竜は、そのままある国へとその羽を進めた。
それはあの国、あの国王と王女のいる、あの国であった。
◆◇◆◇◆
その一部始終を、珊瑚は見ていた。
黒竜が、あの国に戦いを挑む姿を。
あの国が、黒竜と戦う姿も。
ただ、それはほとんど一方的な戦いだったと言っていいだろう。
黒竜が上空からひたすら灼熱を吹き続けていたのに対し、あの国は魔法で対抗していたが、それは太陽の前の線香花火に過ぎない。黒竜に命中しても何の痛痒も感じさせることが出来ずに終わってしまった。
珊瑚はそんな光景を見ながら、故郷で行われた花火大会のことを思い出していた。
あの美しい光景と、黒竜とあの国が争いながら作り出す光景は似ていると、そう思った。
けれど、そんな郷愁を感じさせる時間もすぐに終わってしまう。
その日を持って、あの国は滅び、そして永遠にその名を聞くことはなかった。
あの国は、その歴史と共に、完膚無きにまで、滅ぼされたのだった。
◆◇◆◇◆
あの黒竜がドラグストラを去った後、珊瑚はドラグストラの跡地を訪ねたことがある。
なんでだったのかはもう覚えていない。おそらくだが、暇だったのだろう。
なにせ、珊瑚はそのときも、もう誰もやる者のいなくなったドラグストラの名物を実践していたのだから。
そっと地面に耳をつけて、あの音が聞こえないか耳を澄ませてみた。
けれど、何も聞こえはしなかった。
きっと、あの黒竜が去って、迷宮はその命を失ったのだ。
もしかしたら、あの黒竜こそが、迷宮の化身だったのかもしれないと、珊瑚は思った。
けれど今になってはもはや確認しようがない。
ただ、いつかまた、この場所に迷宮が復活することもあるかもしれない。
そう思って、珊瑚はたまにドラグストラ跡地を訪れ、そのたびに片耳を地面につけ、耳を澄ませた。
そんな日々が一体何年続いた頃だろうか。
ふと気づくと、荒野に一体の黒竜が寝転がっていた。
巨大で立派なその黒竜は、どう見ても、あのときの黒竜だった。
しかし、まるで死んでいるかのように動かない。
近づいてみても、反応がない。
これは……と思うが、どうしてか、触れがたい雰囲気を感じて、珊瑚はそれには近づかず、遠くから見つめることにした。
何年かに一度、その黒竜の様子を見にドラグストラ跡地を訪れる日々が始まった。
そして分かったことは、どうやらあの黒竜は死んではいないらしい、ということだ。
なぜなら何年経とうとも、その肉体が腐り落ちる様子がなかったからだ。魔物とは言え、その肉体は放置しておけば腐り落ちる。ところがその黒竜にはそんな様子がないのである。だから、確かに生きているのだと、珊瑚はそう思った。
それから何度かの冬を越えた。珊瑚にとって、それは決して長い時間ではなかった。
ふと見ると、そこにあるものが、一つではなく、二つになっていた。
黒竜と、それに、オーガと思しき魔物が一体、そこにはいた。
そのオーガは固有の個体らしく、色が黒竜と同じ漆黒で、その持つ魔力も中々のものだと珊瑚には感じさせた。
実際、荒野に寝そべる黒竜の素材を狙ってやってきたらしい狩人を一蹴しているのを何度も見かけたくらいである。あのオーガがいなければ、自分がやってもよかったが、あのオーガがいるのだから、自分は見ているだけでいいなと珊瑚は思った。
いつの間にか数十年が過ぎていた。ふと、あの黒竜はどうなっているだろうかと、珊瑚は気になった。何年かに一度、巡回しようとし続けてきたことだが、最近はその幅も広がっている。もうそろそろ止め時なのかもしれなかった。
改めてドラグストラ跡地を訪ねてみると、そこには驚くべき光景が広がっていた。
黒竜の周りにはオーガだけでなく、他にもさまざまな魔物が存在するようになっていたのだ。共通するのは、その姿が漆黒に染まっていること、そしてそのどれもが固有個体であるということだった。
実際、そのどれもが強力な力を秘めているらしく、そこらの冒険者や狩人など相手にもならないようだった。
いつか黒竜が剥ぎ取りの対象になるのではないかとなんとなく気にしていた珊瑚は、しかしもはやその心配はあるまいと、この荒野を巡回するのを止めた。
かつて、その荒野にドラグストラという巨大都市があったことなど、誰も覚えていない時代がやってきた。
珊瑚がそこに戻ってきたのは、そんな時代の、ある春の事だった。
驚くべきことに、そこには新たな街が出来ていた。かつていたはずの黒竜の姿もそこには見えなかった。
どこへ行ったのか、不思議に思って街に入ると、懐かしい雰囲気のする街並みで、珊瑚はその街がすぐに好きになった。
そして数日間そこに滞在していると、面白い光景に出合う。
「……あれは、何をしているところなんですか?」
道行く人に尋ねると、その人は答えた。
「あぁ、音を聞いているんだよ」
「……鼓動、ですか?」
そう珊瑚が告げると、なんだ知ってるじゃないかと言ってその人はその場を去っていった。
珊瑚は、ゆっくりと片耳を地面につけてみた。すると、
――どくん、どくん……。
心臓が脈打つ音が聞こえた。