第2話 神を信じる娘
「居もしない神に祈るのは、滑稽に見える?」
教会の聖堂に跪き、見えざる何かに懸命に祈りを捧げていたその少女は、その間、珊瑚が微動だにしないで彼女の後ろに立っていたことに気づき、そして尋ねた。
珊瑚はその質問に、
「いえ。そんなことは……」
珊瑚はすぐに否定の意を示し、それから自分の仕事に戻る。
少女は、教会の大司教の娘であり、自らも司教の地位を持つ信仰者である。いずれ親のように大司教へと上り詰め、最後には教皇へとなることが確約されている彼女は、教会にとって何よりも重要な財産であり、絶対になくすわけにはいかない駒でもあった。
そんな彼女の警護のために雇われたのが、珊瑚である。
「傭兵の方は、決して神を信じないと聞くわ。あなたもそうなのでしょう……?」
どこか詰問するかのような口調でそんなことを続ける少女は、どことなく頼りなく、不安で揺れているように思えた。
美しい容姿、金の髪、空のように青い瞳。
そして、他の誰にも与えられていない特殊な能力、回復魔法は、彼女の存在にカリスマ性を与えていた。
答えない珊瑚に業を煮やした少女は、しかしもはや答えなくてもいいと肩を怒らせて教会の外へと出ていく。
彼女の主な仕事は、辺境の村を回り、神の奇跡を示し、信仰者を獲得すること。
辺境を回るのは、国境付近に属する人間が他国の宗教に染まり、獅子身中の虫となる可能性を考えての国家的戦略であった。
彼女は、村々を回り、一人一人に回復魔法を唱え、そして救っていく。
彼女の力は絶大であり、死の淵に立っているものをこの世に引き戻すことが可能なほどだった。
ただ、それでも不可能なことはある。
寿命の伸長は、できない。それが回復魔法の限界だ。当然、死者を蘇らせることも。
どれほど深い傷でも癒すことができる彼女の魔法は、しかし深い傷と、重い病の浄化のみにしか力を発揮することは出来ない。
それが、神が人の身でしかない彼女の力に与えた限界であった。
ただ、それでも高い効果を発揮することは間違いない。
今回のように、政治的な事情もかかわってくれば、絶大な力を発揮する彼女の力。
だからこそ、彼女を次の教皇にと推す勢力は発言力も大きいのだ。
「……聖なる神よ、あなたを信じるこの者に、祝福を与えたまえ、治癒」
少女が、数日前に魔物に襲われて深い傷を負った大工の男の膝に手を当て、呪文を唱えると、キラキラとした白色の光が彼女の手から放たれ、そしてその男の傷を徐々に治していく。数秒が立ち、光が消え去ると、先ほどまで斜めに切り裂かれ、ぐじゅぐじゅに化膿していた男の足は、まっさらな綺麗な足へと変化していた。本当なら、すでに腐りかけていてもおかしくないはずのその足は、先ほどまでの怪我など幻だったのだとでもいうように健康なものだ。
「すげぇ……ありがとう、ありがとう! 司教様、俺、これからは、信じるぜ、神の救いって奴を……だって、これが、これこそが奇跡ってやつだろう……? 少しでも神を信じていたから、こんなことが俺に起こったんだろう? だったら、もっと信じて、そして……他の奴らも俺みたいになったとき助かるように、祈ってやりたい……なぁ、それでいいんだろう、司教様……」
男は涙ながらに少女へとお礼を言った。少女は一瞬驚いたように肩を震わせたが、すぐに落ち着いて男の手を取ると、美しい笑みを浮かべて「貴方に神のご加護がありますように……」と言って聖句を唱えたのだった。
◆◇◆◇◆
「軽蔑しているんでしょう?」
教会付属の宿泊施設に戻って直後、少女は切りつけるような口調で珊瑚にそう言い放った。少女のこんなセリフは、珊瑚にとってはもう慣れっこで、人が誰もいないときはいつもこんなことを言うのだ。珊瑚は一度も、少女の仕事を軽蔑している、などと言ったことはないと言うのに。
そう言うと、
「……分かってる。これはただの八つ当たり。ねぇ、サンゴ。私のしていることって、正しいのかしら?」
と、言って少女は首を傾げた。
口調は先ほどのものより、幾分か柔らかで、けれど責めるような雰囲気には変わりはなかった。ただ、それは珊瑚に対してのものではなく、彼女自身に対して向けられているように感じられる。
彼女は明らかに自分のしていることに疑問を持っていた。
教会に言われるがまま、その政治的意図に従って治癒を行い、偽りの笑顔を浮かべて教会への帰依を勧める自分の行動に、少女は疑問を感じているのだろう。
それは正しいと言えば正しい。
けれど間違っていると言えば、間違っている。
そのどちらの答えもありうることを、珊瑚はその長い生の中で経験的に知っていた。
だからゆっくりと首を振り、答える。
「……エリス。それは僕に聞くことじゃありません。自分で決めることです」
「自分で……? 正しさと言うのは、自分で決めるものなの? どこから見ても正しいものは正しく、間違っているものは間違っている、そういうものではないの?」
そうではないから、世界は戦乱に満ちている――
そう口から出かかった珊瑚は、けれどそんなことは言わずに別の台詞を吐いた。
「もしそうなら、貴女は悩んでいないのではありませんか?」
そう告げると、少女は黙り込み、そして何も言わなくなってしまった。
珊瑚の言葉の意味を考えているのかもしれない。
少女はその日、夜が明けるまで眠ることなく、何かを考え続けた――
◆◇◆◇◆
「長い旅、本当にご苦労だった。明日からは本部の仕事に戻るといい」
辺境から無事に帰ってきた娘に対して、その父親――レオナール=ファーランドが告げたのはその言葉だけだった。労いの言葉のつもりなのだろうが、口元はぴくりとも動かず真顔で言うものだからまるでそうだとは思えない。
「君も、ご苦労だった。依頼はこれで終了だ。これは今回の報酬だが……また何かあったときは頼むよ」
じゃらじゃらと音を立てる布袋を珊瑚に渡し、肩を叩いた大司教。
むしろ、珊瑚に対しての言葉の方が多かったくらいだ。
少女は特に不満を漏らさずに、大司教の執務室を一礼してから出た。
珊瑚も後に続く。
「笑えるでしょう?」
「え?」
執務室を出て直後、少女はそう言い放った。
あまりにもだしぬけなので、珊瑚は少し呆けてしまう。しかし、その言葉があの大司教の態度の事なのだと思い至り、何とも言えずに僅かに首を振った。
そんな珊瑚の態度を気にもかけず、少女は続ける。歌うように滑らかで止めどない言葉を。
「あの人は、いつもあぁなの。母様が逃げたのだって、きっとあの人のあぁいう性格のせいだと思う」
「貴方に対する愛情がないわけじゃないでしょう。確かに、大司教は貴女のことを労いました。そして、今は貴女を教皇の座につけようと努力している……」
そう。事実、大司教は努力をしている。
実の娘を、教会において最も高い座へとつけるために、彼の払った犠牲は決して小さくないはずだ。珊瑚を雇うことも、身綺麗な人間ではほとんど不可能に近い。彼に連絡をつけ、そして依頼が出来ると言うのはつまりそういうことに他ならない。
だからこそ、大司教の娘に対する愛情と言うのは本物なのだと理解できる。
珊瑚の賃金は決して安くはない。大司教と言う地位にあってすら、安いと言うのは難しいほどの額だ。それは珊瑚に対する彼の今属している組織の高い評価に他ならなかった。
そして、少女もまた、そんな父親の心が理解できないわけではなかったらしい。
少女は言う。
「分かってる。多分、不器用なのよ……若いころからずっと、神を信じてきて……他の者ごとにどうやって力を注いでいいのか分からないんだわ。あの人の信仰心が本物なのは、私、知っているもの。毎朝、そして毎夜、あの人は欠かさず聖堂で祈りを捧げてる」
少女が言うには、大司教は神を信仰し始めてから、それを一度も欠かしたことがないのだという。確かに、大司教となってしかるべき人物なのかもしれない。確かに、大司教からは、何とも言えない清らかさと、堂々とした雰囲気を珊瑚は感じていた。あれはもしかしたら、神を一心に信じているが故のものなのかもしれないとも思った。
けれど、珊瑚にその気持ちはよく分からない。この世界に、信ずるべき神など、珊瑚にはどこにもいないのだから。
神はいつだって珊瑚を救ってはくれない。
珊瑚はあれほど沢山の人間を救い、導いたと言うのに、珊瑚に対しては一切の手を差し伸べてくれない。
神を信じようと思ったことはないではなかった。そうしなければ耐えられない時期もあったから。
けれど、今はもう、珊瑚に神を信じることは出来ない。その在不在などとうに問題ではなく、珊瑚の人生を遥か高みから見ている存在がいるというだけで、気分が重くなるからだ。
彼らは笑っているのだろうか。楽しんでいるのだろうか。それとも、哀れに思っているのだろうか。
そのいずれであったとしても、彼らに珊瑚を救う気がないことは間違いがない。
こうやっていつまでも放浪する珊瑚を、失笑しつつ見守るのが神と言うやつなのだろう。
そんな珊瑚に、少女の純粋で素直な声が届く。
「ねぇ、サンゴ。私が、神を信じていると言っても、貴方は笑わない?」
「笑いませんよ」
笑えはしない。珊瑚にだって、神を信じようとした時期があったから。
もっと短い生を与えられていたら、珊瑚もまた、神を信じていたかもしれない。
それができないのは、ただ、珊瑚の人生を事故が襲ったからに過ぎない。
「こんなに不安定なのに?」
眉を震わせて、少女はそんなことを言う。
その姿は美しく、純粋で、確かに彼女は人を教え導く立場に立つべきなのかもしれないと思わせる。
だから珊瑚は言った。
「苦悩してこその、人生では。少なくとも、僕はそう思っています」
意外と真面目なのね、と言ってエリスは笑った。
それからお役御免となった珊瑚は、教会を出て、他の地域へと渡った。
戦乱の満ちている地域の方が仕事が多い。そう思っての事だった。
◆◇◆◇◆
珊瑚が改めてこの地方に戻ってきたとき、まさにそこは戦乱に満ちていた。
数年前に始まった革命の狼煙は、徐々に王都まで迫っていき、今やこの国の国会体制を崩壊させようとしている。
珊瑚が戻ってきたのは、つまりそんなときのことだった。
「おい、サンゴ。お前、腕利きの傭兵らしいじゃねぇか」
そう言って豪快に笑ったその男は、革命軍の副リーダーを務める男で、粗野な見た目とは異なり極めて精密な頭脳と膨大な知識を持ち合わせる稀有な男だった。この革命がほとんど成功しかけているのはこの男の参謀としての能力の高さが大きいのは間違いない。そう評される男に、珊瑚はいま、呼ばれていた。
仕事の依頼、と聞き、珊瑚がこの地方に戻ってきたのは、この男の金払いが悪くないと言う話を聞いたためだ。腐るほど金を持っていたのも今は昔。そのほとんどを使い果たした珊瑚は、今や金の為に東奔西走する傭兵でしかない。全く働かなくても生きてはいけるのだが、それは少し虚しく、別に世の中と関わらないとかそのようなポリシーを持っている訳でもなかった珊瑚は、簡単に金を稼げる道として、自分の持つ力を一番生かせる道として、傭兵を選んだ。
そんな珊瑚に、目の前の男は今、依頼をしようとしている。
腕利き、そう呼ばれる珊瑚に下される依頼だ。決して簡単なものではないだろう。しかも頭の切れるこの男から直接の依頼であるから、それが革命の成功に重要なものであることも明らかだった。
男はふと空気を変え、それから鋭い目線で珊瑚をねめつけると続けた。
「そんなお前に、仕事だ」
男はどこかから引き出した書類を珊瑚に投げ渡す。
珊瑚がそれを受け取り、ぱらぱらと見つめたのを確認してから、男は言った。
「標的は、現教皇エリス=ファーランドだ。これだけ革命の嵐が吹きすさぶ中で、風前の灯とは言え国王派閥が生き残っているのは彼女の存在が大きい。神より与えられたと言われる治癒の力――聖女とまで称されるあの女を排除できれば、そこでおしまいだ。革命は成功する。これからの時代は、神なんかじゃねぇ、人間自身が作る時代だ。神の使徒には断頭台の露と消えてもらおうじゃねぇか。なぁ、サンゴ……」
――できるよな?
そう言って笑った男がどれだけのことを知っていたのかはしらない。
けれど、珊瑚に言える言葉はただ一つだけだった。
「僕の仕事は、依頼を完遂することだ」
どんな声でその言葉を言ったのか、珊瑚には思い出せない。
ただ、革命軍の副リーダーは珊瑚の言葉に満足そうな笑みを返したのだった。
◆◇◆◇◆
煌々と輝く月のお陰で、灯りの要らない夜だった。
真夜中の大聖堂は静かで、神聖な空気に満ちている。
聖堂の床や椅子には、革命軍の手から逃れてきたのだろう大量の信者たちが雑魚寝している。
珊瑚は、そんな聖堂に気配を絶ち、音も立てずに侵入したのだった。
教皇エリス=ファーランドは、革命軍服リーダーの用意した情報によれば、聖堂の中で信者たちと共に寝起きして生活しているらしい。
人を起こさないように、きょろきょろとエリスを探しつつも、山猫のように足音を消した珊瑚の隠密は完璧であった。誰一人として、彼の存在に気づかず、すーすーと寝息を立てて起きる様子はない。
しばらくの捜索の後、聖堂の一角、パイプオルガンの鍵盤の前に、小さな子供が密集して眠っている区画を珊瑚は見つけた。
国中が戦乱に満ち、今にも目の前に革命軍が迫ってくるような状況である。子供であれば、余計に夜など眠りに落ちることができるはずもない。
けれど、そこで眠る子供たちの顔に、不安は見られない。
まるで、親鳥に抱かれる雛のようだ。
そう。親鳥が、そこにはいた。
かつての少女の面影を残しつつも、あの頃より年齢を重ね、華やかな美貌と迷わない心を身に着けた、彼女。
教皇エリス=ファーランドが。
真夜中にも関わらず、彼女はしっかりと目を開き、珊瑚を見ていた。
声は上げない。
そんなことをすれば、聖堂の人間全てを起こすことになる。
そしてそうなれば、珊瑚がその腰に下げたものをためらいなく振るう事を、少女はかつて護衛された時の記憶から知っていた。
「……お久しぶり、とでも言えばいいのかしら?」
その声は、静かで囁く様なものだった。
あの頃には決して浮かべなかった皮肉げで毒のある微笑みが、珊瑚に時の経過を感じさせた。あぁ、少女は、変わってしまったのだと、そう思わせる微笑みだった。
「ええ。お久しぶりです。随分と、落ち着いていらっしゃいますね?」
珊瑚もまた、少女に対し、皮肉を返す。
その厚顔無恥とも言うべき態度に、少女は一瞬紅潮しかけるが、言っても無駄なことと思ったのか、息を吸って諦めた。
「それで、何をしにここに来たの? ……いえ、言うまでもないことね」
「そうですね。残念ながら」
珊瑚は肩をすくめて、そう言い放った。
少女は少女で、苦笑するような微笑みで珊瑚を見つめる。皮肉はもうやめたらしい。
珊瑚と少女の間にあるのは。憎しみではなく、どこかよくわからない共感だった。
何かが、通じ合っていた。
運命というものの残酷さに直面した者同士として、思うところがあったのかもしれない。
「……信者たちはどうなるの?」
自分の身より、信者の身の安全を心配する少女。
こんな事態に至ってまで、彼女の魂は清く澄んでいるらしかった。
そんな少女に、珊瑚は告げる。
「僕のこなすべき依頼は、貴方を断頭台へ連れて行くこと、それだけです」
だから、信者をどうこうする気も義務もない、とまでは言わなかったが、それで伝わったらしい。
少女は諦めたように首を振り、それからゆっくりと膝の上に乗る子供たちの頭を床に置きなおすと、珊瑚の手をとって言った。
「では、連れて行って。断頭台へエスコートされるなんて、滅多にない経験だわ」
こんな状況で冗談を言える彼女の胆力に改めて驚き、珊瑚はそのまま少女を抱いて、来た時と同様音も立てずに聖堂を出ていく。
次の日、彼女がいないことに気づいた大聖堂は大変な騒ぎになる。
しかしそれは、教皇エリス=ファーランドの公開処刑が発表された時に比べれば大したものではなかった。
革命軍が発表したその日取りは、彼女が大聖堂から拉致されて三日後のことだった。
◆◇◆◇◆
「いい景色ね」
断頭台に首をかけられた状況にも関わらず、少女はそんなことを言って笑った。
王都の大広場の中央に、今日の為に特別に作られた断頭台が設置されていた。
広場の他の場所より、少し高い位置に設置されたそれは、広場に集まった民衆から見やすいように、目線の高さほどの位置に断頭台にかけられた者の顔が来るように出来ている。
悪趣味と言えば悪趣味なものである。
ただ、革命軍からすれば、それは良くも悪くも見せしめなのだから、誰もが見える位置でやらなければ意味がない。
教皇エリス=ファーランドの罪は、王の権威を神の、ひいては教会の権威で基礎づけ、国を二分する内乱へと突入させたこと、らしい。
いかにもこじ付けとしか思えない理由であるが、広場に集まった民衆たちは、革命軍副リーダーの読み上げたその罪状を納得した表情で聞き、そして少女に石を投げつけて自分たちに革命軍に反抗する意思がないことを示した。
その中には、あの日、聖堂の中で静かに眠っていた子供たちもいて、それを見つけた少女はまつ毛を伏せる。
「……いま、どんな気分ですか?」
珊瑚は、そんな少女の横で、断頭台の紐を切る役目を任されていた。
ここで話す分には、民衆には声は届かない。だから珊瑚はエリスと最後の会話をしていた。
「さっきも言ったわ。いい景色……」
「あんなに目をかけた子供たちに、石を投げられても?」
「仕方ないわ。人は信じたいものを信じる。あのときは、それが神だった。今は、革命軍。それだけのことよ」
「……今なら、逃げることは出来ますよ?」
そう呟いた珊瑚に、少女は驚いたように顔を上げ、そして苦笑した。
「こんな衆人環視の中、私を逃がすことが出来ると言うの?」
貴方は恐ろしい人ね。
そう言って、彼女は笑う。けれど、自分を逃がしてほしいとは言わなかった。
つまり、逃げる気はないと言うことだろう。
ただ。
「そう、そうね……でも、一つだけ、私のお願いを聞いてくれるかしら?」
「お願い、ですか?」
「ええ。依頼でもいいわ。報酬は……そうね、教会の執務室に隠し扉があるわ。その先にあるものをいくらでも好きに持って行って。教会が集め続けた宝物が、沢山転がっているから」
「そんなことを、部外者である僕に言ってもいいんですか?」
「どうせ私はここで首を刎ねられるのよ。どうでもいいわ」
「……全くその通りですね」
観衆のうるさいほどの怒号が、珊瑚とエリスには聞こえていなかった。
響いているのは、お互いの声音だけ。海の上にぽつりと浮かぶ南国の木の実のように、それだけがはっきりと聞こえていた。
「……ただ、僕はそんなものはいりませんよ。そうですね、丁度首を刎ねられるところなのです。そのネックレスは、もう要らないのでは?」
珊瑚の言葉に自分の首元を見ようとして、断頭台にかけられていることを思い出し、見えないことに気づく少女。
少女は苦笑する。
「……見えないけど、銀十字のネックレスね。こんなものでいいなら、いくらでもあげるわ……だから、耳を貸して」
そう言った少女の口元に、珊瑚は耳を寄せる。それから少女の言葉を聞き、珊瑚は離れていった。
「じゃあ、そろそろみたい」
革命軍副リーダーの罪状読み上げが、今、終わった。
副リーダーの手が上がる。
それは、処刑実行の合図だ。
群衆の視線が、副リーダーから、断頭台へと移される。
そうして、少女は、最後に泣き笑いのような声で呟いた。
「できるだけ、痛くないようによろしくね」
「はい」
それが、少女の最後の言葉だった。
珊瑚は断頭台の巨大な刃を支える太い縄を、その持つ斧で思い切って切り離した。すると、刃はするするとその位置エネルギーを運動エネルギーへと変えていき、少女の首元へと向かっていった。
美しい、光景だった。
そうして、断頭台はその与えられた使命をきっちりと果たし、歴史上最も若い教皇は、その露となって消えた。
全てが終わった後、珊瑚の手には、銀十字のネックレスが握られていたのだった。
◆◇◆◇◆
暫定新政府執政所、と名前の改められたその国の王城の奥、もともと国王の執務室だったその部屋で、その男はカリカリと書類仕事に取り掛かっていた。
その男の名は、エルダ=イミストール。
革命軍リーダーを務めた男で、この国で一番最初に政府に反旗を翻した男であった。
その男が、革命ののち、国民に推される形で暫定的に最高執政者の地位に立つことになったのは、もはや必然と言うべきだろう。
国王を失ったこの国は、国を導くべき指導力ある新たなリーダーを必要としていたのだ。
――コンコン
そんな男の執務室を、夜中にもかかわらず叩く音がした。
柔らかな音が、執務室の中に響いたのを確認したエルダは、顔を上げ、呟く。
「入ってくれ」
そうは言ったものの、次に聞こえてきた声に、エルダは自分の耳を疑った。
「では、失礼します」
そう言って入ってきた男に、エルダは見覚えがあった。
「……お前は」
「ふふ。お久しぶりですね、エルダ=イミストール。いいえ、レオナール=ファーランド、とお呼びした方がよろしいでしょうか?」
そんなことを呟いて、その男――珊瑚は、薄暗い笑みを浮かべてレオナールに話かけたのだった。
◆◇◆◇◆
「どうして、分かった?」
じっとりと冷や汗に濡れたレオナールとは対照的に涼しげな微笑みを浮かべ、珊瑚は答える。
「簡単なことです。僕の連絡先と言うのは、実はいくつもありましてね。そのどこに連絡がなされたかで、誰からの依頼か分かるようになっている。革命軍副リーダーのあの男、彼が依頼した窓口は、丁度あなたの使っているものでした。その時点で、全て分かっていましたよ」
「馬鹿な……。そんなことは一言も」
レオナールは珊瑚の連絡先を誰かに聞いたのだろう。その人間が、そのことを告げなかったことを言っているらしい。けれど、それは仕方のないことだ。その者も、そのような仕組みになっていることなど知らなかったはずだから。珊瑚の連絡先は現在、とある組織によって極めて高度に管理されている。珊瑚の力が必要な人間に、うまくその連絡先が伝わるように調整されているのだ。そのことを、レオナールは知ることが出来なかった。ただ、それだけの話だ。
それに……。
「それだけじゃないんですよ。レオナールさん。僕が今日、なんでここに来たのか、分かりますか?」
「……誰か私を邪魔に思っている人間に、私を殺すように依頼を受けたのだろう」
「ご名答、と言いたいところですが、少し違います」
「……?」
首を傾げたレオナールに、珊瑚は続ける。
「その前に、少しお話をしましょう。レオナールさん。聞きたいのですが、どうしてあなたは、神と、そして実の娘であるエリスを裏切ったのですか?」
そう。レオナールは、神を信じる敬虔な信徒だったはずだ。
それなのに、今彼は名前を変え、革命軍の先鋒として戦い、そして新政府軍の長となっている。彼に一体どのような心変わりがあったというのか。
珊瑚は、それを知りたかった。
しばらくの間、レオナールは無言だった。
しかし、覚悟を決めたのか、彼は語り出す。静かな、それでいて情熱と悲しみの籠ったような声で。
「……私は、神も、娘も裏切ったつもりはない」
「……それはどういう……?」
「私はその日、聖堂でいつも通り、神に祈りを捧げていた」
エリスも言ったように、レオナールは昔からの敬虔な信徒だ。祈りを欠かすことなく、朝晩と続け、それを決して怠ったことは無かったと言う。
その祈りの最中、ある日、彼は感じたと言うのだ。
「私は、神の声を聴いた。それは確かに神の声だった。周りには誰もいないのに、耳元で確かに声が聞こえてくる。清浄で優しく、それでいて荘厳な、それは、私に言ったのだ」
――王政を打ち倒し、教会を破壊せよ。
それが、彼の行動の理由だった。
◆◇◆◇◆
神。
珊瑚は、それを名乗る存在に、かつて出会ったことがある。
この世界に召喚されるとき、確かにそれはいた。
けれど、とてもではないが、神であると珊瑚が認められるに足る存在ではなかった。
その頭脳の愚かなこと、また力の弱いこと、人格的な下劣さ、全てがその存在を神と呼ぶことを嫌悪させた。
しかし、それでもその存在は、珊瑚を遥かに上回る存在であったのは確かだった。
珊瑚はその存在の思惑通り、この世界に落とされ、魔族や魔王と戦う羽目になり、そして勇者と、救世主と呼ばれることになった。
珊瑚は思った。
レオナールの聞いた声もまた、そんな存在の放つ、虚言だったのではないかと。
この世界には、人の身からすれば、神としか呼ぶことのできない存在が少なからず存在してる。
けれど、そのどれもが、この世界の人間を救うことを考えているというわけではない。
彼らは、人の望みなどと関わりなく、自らの欲求に従って行動することを、珊瑚は良く知っていた。
だから、レオナールの話を聞き、思った。
あぁ、彼は、騙されたのだと。
ただ、そんなことを彼に言う気にはならなかった。
彼は、確かにその神を信じてこんな行動に出たのだから。
彼の信仰を否定する気は、珊瑚には無かった。
◆◇◆◇◆
「なるほど、よく、分かりました」
レオナールの話を全て聞き終わった珊瑚は、それから立ち上がり、腰から剣を引き抜いて構える。
レオナールは腰を抜かし、言った。
「……私を殺すのか」
その眼は怯えに取りつかれていた。
敬虔な信徒だったはずの彼の中からは、かつて感じたはずの清らかさ、堂々とした心根がはっきりとなくなってしまっていた。
権力が彼を狂わせたのか。
それとも、間違った信仰を彼が持ってしまったが故なのか。
それは珊瑚には分からない。
ただ。
「どんな理由があれ、実の娘を手にかける所業は、許されるものではありません」
「……仕方なかったんだ。神のお告げが……」
「エリスから、依頼を受けました」
「……え?」
「貴方の命を絶ってくれ、と。彼女の最後の望みは、そんなものでした」
悲しいですね。
そう言い終わるか終らないか、その瞬間に、レオナールの首は床に転がっていた。
珊瑚は剣を振り、血を飛ばして、胸元から取り出した懐紙で拭いて、投げ捨てる。
神を信じることを忘れた男の胴体からは、今もまだ、血が噴出し、執務室を赤く汚していた。
ファーンランド親子は、一体どこで間違ったのだろう。
神を信じたから?
いや、そうではないだろう、と珊瑚は思った。
けれど、彼らの間違いを、珊瑚は明確にことばにすることはできないとあきらめる。
そもそも、自分にそんな資格など無いとも思った。
彼ら親子の命、両方を絶ったのは、珊瑚自身なのだから。
そして、そのことについて、何も思わない自分に、少しの虚しさを感じながら、珊瑚は執務室を出て、そのまま夜闇の中へ消えていく。
珊瑚の首元には、銀十字のネックレスが僅かに揺れていた。