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第1話 奴隷の少女

・全話一話完結の短編連作小説になります。

・全話共通しているのは、主人公が薬袋珊瑚みないさんごという少年であるということだけです。

・珊瑚は元勇者で、不老不死です。

・職業は傭兵のときが多いですが、そうじゃないときもあります。

・更新は不定期です。

・これだけ覚えておいていただければ、第何話から読んでもらっても特に問題はありません。

・というわけで、よろしくお願いします。

 突然目の前に出現した魔方陣の中に飛び込んだのは、一体いつのことだったろう。

 目の前に広がるとてつもなく巨大で壮麗な神殿の中で、跪きながら目を見開いている美しい少女との邂逅は、遥か記憶の彼方だった。


 “勇者”


 かつて、そう呼ばれたこともあった。

 多くの仲間を連れ、いくつもの街や村を、魔族と呼ばれる敵の手から救い、そして最後にはその王たる“魔王”を討ち滅ぼして、王都に凱旋した。


 雲一つない、真っ青に晴れ渡る空を、勇者の凱旋を祝う人々の投げた紙吹雪が舞い、魔法によって放たれた花火が白亜の城の上空を華やかに彩っていた。


 懐かしい、記憶だ。

 どこまでも、どこまでも懐かしい――


 ◆◇◆◇◆


 そこまで考えて、薬袋みない珊瑚さんごは、腰に下げた長剣を引き抜き、正面に屹立する巨大な生き物と相対した。

 珊瑚は、どこからどう見ても普通の少年のようにしか見えない容姿の男性であり、黒い髪に切れ長の目、そして着古した旅装に身を包んだどこにでもいるような旅人だった。

 鞘から引き抜かれ、今はその左手に握られた剣も、決して名刀の類ではなく、そこらの鍛冶屋が作った数打ちに過ぎない。そんな武器で、そんな少年が立ち向かうには、今彼の目の前に存在する魔物は、分が悪いように思える。

 実際、低いうなり声を上げながら、珊瑚と相対するその生き物は、この世界に存在する魔物の中でも比較的上位に属するもので、≪地這竜エダフォスフィディ≫と呼ばれる亜竜族の一匹だった。羽は無く、竜族特有の魔法も使用することのできない、下位竜族である亜竜族ではあるが、それでもその巨体だけでも通常の人間にとっては脅威としか言いようがなかった。

 実際、魔法の素養のある上位狩猟者ハンターでも、十人はいなければ対峙することは敵わないと言われる大物である。一般人が出会った場合、いかにそれが成功率の低い賭けであったとしても、とにかく逃走を図ること以外に生き残る道はないはずだった。


 実際、先ほどまでその場にいたはずの商人たちは、今や遥か遠くの方へと走り去ってしまっていた。全員が別々の方向に逃げたのは、≪地這竜エダフォスフィディ≫が仮に誰か一人を追いかけたとしても、他の者が逃走できる確率が上がるからだ。そこまでして逃げなければ生存は難しい。それほどの相手だった。


 けれど、珊瑚はそんな存在を目の前にして、少しの緊張をしている様子もない。むしろ、余裕があり、赤く目の血走った≪地這竜エダフォスフィディ≫を見つめながら冷静な視線でその動きを観察している。


「……君は逃げないのかな?」


 珊瑚は、そんな状況の中で僅かに後ろを振り返ると、横倒しになった馬車の横に無気力に座り込んで、奇妙にも鼻歌を歌っている少女に話しかけた。

 みずぼらしい少女だった。着ているものは布の端切れを継ぎはぎして作られた粗末なもので、その顔は泥と砂で汚れて黒くなっている。髪もまた同様に汚らしく、櫛を通せば間違いなくぶちぶちとした音と共にすべての髪がその根元から抜けることだろう。

 つまり、その少女は端的に言って、奴隷、と呼ばれる存在だった。

 珊瑚はそんな少女に、話しかけているのだ。


「……逃げても、何も変わらない。この首輪を見ろ」


 そう言って少女は自分の首についた黒色の皮の首輪を引っ張った。


「隷属の首輪?」


 珊瑚はすぐにその存在に思い至り、言う。

 少女は無気力な顔を、まるで感情の抜け落ちたような奇妙な笑みで塗りたくり、そして諦めたかのような声でつぶやいた。


「そうだ……どこへ行っても、わたしは奴隷だ。このまま街へ逃げても、そこで私の首輪の持ち主が誰かはすぐに分かる。そいつが生きていれば私は即座にそいつの下へと還され、そいつが死んでいればそいつの親族に相続され引き渡されることになる。そいつに一人の縁者もいなければ、国に帰属する労働奴隷として、どこかの鉱山かこの国の辺境で家畜同然の暮らしを余儀なくされ、そのまま死んでいくことだろう」


 そんな私が、どうしてここから逃げる必要がある?


 少女はそうして泣き笑いのような表情を浮かべた。

 きっと、どうしようもない話なのだろう。少女のような人間は、この世界のどこにでもいる。そして誰も助けには来ないのだ。当然、夢も抱かない。出来るだけ早く死ねるのならその方がいいと、そう思うのも無理はない話だった。


 珊瑚はそれから、ついに辛抱が限界に達したらしい≪地這竜エダフォスフィディ≫が向かってきた瞬間、その首を一撃で刎ねた。

 血の雨が辺りに降り注ぐ。珊瑚の服に染み込み、赤黒い水玉模様を作り出したそれは、徐々に小降りとなっていき、そして珊瑚と少女の足元の地面にどす黒い水たまりを作った。


 死ぬチャンスを珊瑚に不意にされた少女は、珊瑚を見ながら絶望の表情を浮かべる。

 それから、


「……また、私は酷い暮らしに戻るんだな」


 ぽつりとつぶやいた。

 逃亡奴隷や、今回のように突発的に行方不明になった奴隷を街に届けると、その価値の何割かが奴隷を届けた者に支払われるのは周知の事実だ。

 少女は、珊瑚が必ずそのような行動に出るだろうと確信して、そう呟いたのだ。

 珊瑚の身なりは、見るからに旅人だった。武器を持っているところからして、魔物を獲物として狩りながら生計を立てる専門職、≪狩猟者ハンター≫なのだろうと思われた。

 ≪狩猟者ハンター≫は変わった者が多く、その見た目とは裏腹に恐ろしく強いと言われる。特殊な技能や能力を持った者の集合体で、国家すら一目を置いていると言うのだからその実力の程が分かる。そして、そんな彼らは、金儲けの為なら何でもするという話だった。だから、少女に未来はない。彼女を届ければ、それだけで大金が手に入るのだから……。


 ――ぷつり。


 けれど、少女には予想外だったが、珊瑚は少女を街に届けようとはしなかった。

 それどころか、その剣でもって少女の隷属の首輪を切り落としてしまう。

 そんなことをすれば、重犯罪者として指名手配をされてしまうことは、少し知恵のついたものであれば子供でも知っていることだ。

 特に≪狩猟者ハンター≫はその気になれば街や村を一人で壊滅されることの可能な程の実力者が多数加盟しているという性質上、その人材の管理には非常に厳しく、犯罪を犯したか否か、極めて細かく監視されているという事情がある。個人個人にカードと呼ばれる高機能の個人情報管理装置が配布され、それにどんな魔物を討伐したか、どんな依頼をこなしたか、その能力や年齢性別氏名など、ありとあらゆる個人情報が蓄積され、それは≪狩猟者ハンター≫を管理する≪狩猟者管理組合ギルド≫へと集積され続けている。だから、≪狩猟者ハンター≫がこんなことをするなどありえないことのはずだった。


 なのに、少女の足元の血だまりには、もはや壊れてその用をなさなくなった隷属の首輪が落ちて浮かんでいる。

 唖然としていた少女は、気を取り直して、珊瑚に話しかけた。


「……どうしてこんなことを」


 すると珊瑚は嬉しそうでも悲しそうでも楽しそうでもない、苦笑するような表情で、ぼんやりと言った。


「これから、君が何をするのか、見たくなったんだ。君は、なにかしたいことがあるように見えた。だから、奴隷なんて言う自分の身分に、絶望を感じていた」


 ――違うかな?


 首を傾げる珊瑚のその眼は、少女の心の奥底を静かに見つめる優しさに満ちていた。

 同情でも正義感でもない、珊瑚の中に見えるその感情は、少女に何か温かいものを運んでくる。


「……わたしのやりたいこと。わたしは、好きなことをして、いいのか……」

「あぁ、もちろん。僕は君のこれからに、期待しているよ」


 唐突に与えられた自由に、少女は戸惑いつつも希望を見出したらしい。

 しばらく開かれた自分の掌を見つめていた少女は、ぐっとそれを握り、珊瑚に言った。


「じゃあ、見ててくれ。私はきっと、この世界を変える。変えてみせる」


 珊瑚は、少女の力強い台詞に笑って、その肩を叩いた――


 ◆◇◆◇◆


 少女にとって、珊瑚は不思議な男だった。

 いくら隷属の首輪がなくなったとはいえ、これから生きていくために必要なものは沢山ある。それをどうするかが少女にとって当面の課題だったはずだが、珊瑚はぽん、と少女に皮袋を渡して言った。


「これくらいあれば、君は新しい人生を歩めるかな」


 慌てて皮袋を開いてみると、目もくらむような数の金貨が詰まっていた。

 これだけあれば、家を買ってもおつりがくる。これからの生活は安泰だ。

 でも、だからこそ、少女はその金を、珊瑚から貰う訳にはいかないと思った。

 命を救われたのだ。そして奴隷の身分からも救ってもらった。その上、資金の援助までされるのは、気が引けたのだ。

 しかし、珊瑚はそんな少女に言った。


「気にすることはないよ。僕はお金だけなら沢山持っている。それだけ出してもぜんぜん懐は痛まない。でも、それでも気になるっていうのなら……それは貸している、ってことにしてもいい。いつか、君がそれを返せるときに返してくれれば、それで構わない」


 それでどうかな、そう言って、珊瑚は少女がつき返した金貨の袋を手に取り、改めて少女の手に渡した。


 借りる、それなら、悪くないかもしれない。


 瞬間的にそう思ってしまった少女は、その金貨を受け取り、それを元手に生活をしていくことにした。もちろん、珊瑚には何度もお礼を言った。それだけでは申し訳ないと、何か自分の力が必要になったら言ってくれ、なんどもするとも言った。

 珊瑚はそんな風に頭を下げ続ける少女に笑いかけ、それからしばらくの間出かけると言って街から出ていくと、長い間、少女の前に姿を現さなかった。


 ◆◇◆◇◆


「総裁、こちら、今年の北部における奴隷販売の実績になります。決済を」


 あれから三十年の月日が経っていた。

 少女は少女ではなく、もはや一人前の女となっていた。

 珊瑚から借りた金を元手に商業ギルドでギルド株を買い、小さな商店を始めた少女は、いくつかの失敗と成功を繰り返し、今や国でも知らぬ者のいない大店を持つ女主人となっていた。少女は成功したのだ。

 その主な商品は、奴隷。

 かつて自分が商品として扱われる側だった少女は、商売をするに当たってどうしても奴隷を扱わずにはいられなかった。

 思い入れがあったのかもしれない。少女は、しかし、かつての自分のような存在を減らすべく、一風変わった奴隷販売を始めた。

 それまで、奴隷の販売と言えば、食い詰めた家庭から売りに出された娘や、借金に追われた男などがそのまま売りに出され、用途に応じた教育は店側ではなく買った側が行うのが普通だった。

 それを少女は、店側である程度の教育を行い、身なりを整えたうえで、高価な値段で販売すると言う手法でもって奴隷販売を行うことにした。コストがかかり、また買い手がつく前に用途を限定してしまうその手法は、当初かなりの笑いものになったものだが、試しにと道楽で購入を決めた一人の貴族が、その後、少女の店を贔屓にし始めたことから一気に人気店へと駆け上がった。

 それから、他の店も続々と真似し始めたその手法は、しかし、少女の店ほどの成功を収めることはなかった。なぜなのか、それは他店の人間が考えても全く分からなかった。けれど少女には分かっていた。かつて自分が奴隷だった経験が、生きているのだと。

 少女には、店に奴隷としてやって来る者の気持ちが、そして右へ左へと売られていく者の気持ちがよく分かった。不安な気持ち、未来がないと絶望するその心、そして毎日の、ただ生きていくだけで精一杯の量しか与えられることのない食事、汚らしい身なりに身を包み、売られれば死ぬまで苦しみが続くと分かりきっているその人生。

 それは、人の心を折るのに十分なものだ。心が折られた人間に、輝きは宿らない。

 人は、良いものを手に入れたいと願う物だ。なのに、そんな、絶望に彩られた奴隷など、持ちたいとは思わないはずだ。世の中の奴隷が、すべてそんなものだからこそ仕方なく買っているのであって、輝きを放つ、正しく命の燃えている奴隷がいるなら、多少高くてもそちらを買うのが人間であると少女には確信があった。そして、そのような奴隷にするためには、希望がなければならない。奴隷であることに絶望するのではなく、奴隷であっても悪くないと思わせることが大事なのだ。そうすればきっと……。


 少女はそう考えて、奴隷の待遇改善を図り、教育を与え、そして販売する相手も選別した。普通ならそんなことをしては即座に赤字になり、そして潰れてしまうだろう。けれど、少女には珊瑚に与えられた膨大な資金があった。多少の赤字くらい問題なく耐えられる体力があった。


 根気よく、そんなことを続けた少女に、一人の貴族が興味を持った。それからは成功の連続だ。その貴族は、少女の店の奴隷を褒め称えた。屋敷のメイドとして奴隷を買ったその貴族は、彼女が来てから屋敷が明るくなったと言って満足していた。彼は自分の同輩に少女の店を勧めた。少女がたとえ貴族であっても、奴隷に対して酷い扱いをする者には決して販売をしないという姿勢をとっていることにも理解があったから、彼が紹介するのは彼と同様に、奴隷に対しても人間として接する人格者ばかりだった。よき奴隷を購入することのできた貴族は満足し、それが実績となって少女の店は大きくなる。少女の店の奴隷は決してもののように扱われることはなく、売られても即座に絶望が待っている訳ではない。事実、売られた奴隷たちの情報は、販売先にも許可を取ってこれから売られる奴隷たちへと伝えられた。実際、奴隷にも関わらず満足そうに働く奴隷が移る映像水晶を眺めながら、少女の店で売られるのを待つ奴隷たちは、希望を失わずに生きることが出来ていた。

確かに、奴隷であるかもしれない。けれど、死にたくなるほど辛い訳ではない。むしろ、毎日の生活にあくせくしていた頃の日々を思えば、衣食住が保障されているだけ、幸せなのではないか……。

 そんなことを言うものまでいた。そしてそれは事実だった。


 少女の店は日を追うごとに巨大化し、国を跨ぐ大店へと成長していく。それに伴い、忙しさが増し、昔のことも少しずつ忘れていった。

 ただ、仕事の合間に歌うその鼻歌だけは、あの頃と全く変わってはいなかった。


 ◆◇◆◇◆


 現役を退こうと決めたのは、ほんの数か月前だった。

 もう年が年だ。後進も育っているし、これ以上自分が老骨に鞭を打って働く必要はなくなった。

 それに――


「……こっちに来て、一緒にお茶を飲まないか?」


 僅かに光の差し込む窓際の丸テーブルに腰かけた男が、少女にそう言った。

 彼は、少女から始めて奴隷を買った、あの貴族だった。

 彼が少女にプロポーズをしたのはいつのことだったか。

 かつては奴隷だった自分が、今や公爵夫人とは出世したものだと少女は笑った。


「おや、何か面白いことが?」


 少女の商会が取引をした、東方で作られた真っ白のカップを傾けて、公爵は少女に笑いかけた。


「いえ……不思議なものだと思ったのです。かつて、私は奴隷でした。それなのに、どうして今、こんなところで、あなたのような方の妻となっているのだろうか、と」

「人生と言うのはどうなるのかわからない、という事ではないかな。それにしても、君の人生程波瀾万丈なのは、かつての英雄譚に出てくる勇者コーラルくらいのものだが」

「あら……」


 そんなものと比べられてしまっては自分などかすむ、と少女は夫に笑いかけた。

 そして、ふと、思い出す。


「そう言えば……あれから会ってないですわね……」

「ん? 誰か想い人でも?」


 洒落を言ったつもりなのか、それとも少し妬いてなのか、少女の独り言じみたその台詞に公爵は尋ねてみた。

 それは少女の顔が、懐かしさだけではない、どこか不思議な憧れのようなものに彩られている、と感じたからかもしれなかった。


「あなたには、お話してなかったですわね……と、言いますか、私も久しく忘れていたことなのですけど……」


 そう言って、少女はかつて≪地這竜エダフォスフィディ≫に襲われたこと、そして助けられたこと、隷属の首輪を外してもらい、さらに援助までしてもらったことを、夫に語った。

 夫はそれを黙って聞いていたが、最後まで少女が話し終えると同時に、息を吐いて言った。


「君の恩人じゃないか! これは僕からもお礼をしなければ……」

「とおっしゃいましても……あれから何度も探したのですが、一向に見つからないのです。商会の力を使っても、ですよ? 本当に不思議な方でした……もしかしたら、もう亡くなっているかもしれませんが、それでも、その墓前にごあいさつに行きたいとも思っているのですが……やはり見つからずに。あのときお借りしたお金は、いつでも返せるようにと余裕が出来てからはいつも金庫に入れておりました。今も……」

「商会の力を使っても? それは……」


 公爵は驚いて目を見開く。少女の商会は、今や国家権力とも戦えるほど巨大なものとなっている。その捜索をたった一人の人間に向けても見つけることが出来ないとは、尋常なことではなかった。

 けれど少女はあまり驚いてはいないようで、


「……本当に、不思議な方でした。華奢で、とてもではないですが≪地這竜エダフォスティディ≫を倒せるような体型ではなかったのですよ。それなのに、一撃でその首を切り落として……」

「それが本当なら、その名は英雄として語られているべきだ。でもサンゴ、なんて名はついぞ聞いたことがない……」

「ですから、不思議な方だと言うのです。もしかしたら、もう会えないのかもしれませんが……出来ることならもう一度、会いたいものです」


 そう言って、少女は話を締めくくった。

 鼻歌を歌いながら、少女は紅茶を飲み、笑う。

 僅かに開かれた窓の外から、花の香りがやさしかった。


 ◆◇◆◇◆


 長く生きた。

 もうこれ以上はいいだろう。少女はそう思った。


 少女は商会の総帥職を引いた後、しばらくの休養を経て、議員へと転職を果たした。

 それからは、自らの経験を生かして商法関係、及び奴隷の扱いに関して強い議員として精力的に働き、この国の奴隷制度の改善へと尽力した。その努力が実を結んだのは、彼女の夫が公爵であるという事も少なくない影響を与えたのは言うまでもない。

 しかしそんな彼女の仕事も、ほとんど終わりかけている。

 少女が始めた奴隷の待遇改善は、今や、この国のみではなく、他の国へも広がりを見せており、少女の手を離れてしまった。

 もう、少女にすることは、またできることは、残ってはいなかった。


 体力の限界も、感じていた。

 少女の年齢は、もはや隠居をすべきほどの高齢だった。数年前に、80を過ぎている。人族としては、十分生きたと言える年齢だった。


 ただ、それでも一つだけ、心残りがあった。

 夫を見送り、自らの子供たちが公爵として、また商会の総帥として発っていくのを見ながら、この成功をくれた始まりの存在にもう一度だけ、会えないものかと。そう思っていた。


 あれだけのことをしてもらっておきながら、自分のもとへとやってこいと呼びつけるなど、許されることではないとは思った。

 けれど少女は、それでも会いたかった。

 そして一言、お礼を言いたかった。


 少女はその日、きぃきぃと揺れるロッキングチェアに腰かけ、鼻歌を歌いながら、最近始めた趣味のレース編みをしていた。

 柔らかに降り注ぐ冬の日差しは、夏のぎらぎらとしたものとは異なり、白く弱い。

 空はどことなくくすんだ色の蒼をしており、一つ二つの雲がゆっくりとその汚れた海を泳いでいた。


 気づいたのは、ふと、レースから顔を上げた瞬間だった。

 そこに、一人の男が立っていた。

 風に揺らぐ薄いカーテンの向こう側に立つ、その人。


 はじめは、気のせいかと思った。

 年老いた自分の精神の見せる幻の類ではないかと、そう思った。


 何せ、その男は、かつてと全く変わらない姿でそこにおり、笑顔も、また体型も、何一つとして変化したところが見つけられないからだ。


「……サンゴ?」


 昔と比べて、幾分か音程が下がった、そして掠れた声で、少女は懐かしきその男の名を呼んだ。


「久しぶりだね、元気そうで何よりだ」


 珊瑚は少女の声に頷き、そう返したのだった。


 ◆◇◆◇◆


「驚いたわ。あのころと全く変わらないのですもの。あなたは、一体どういう人なのかしら。どう見ても、人族……よね。エルフや魔族ではないわ」

「君は随分と変わったよ。穏やかで、おしとやかになった……」


 珊瑚は遠くを見つめるような目で、そう語った。

 少女は赤くなる。過去の自分と比べられては、違いなどいくらでも見つかるに決まっているからだ。言葉遣い一つにしたって、全く違ってしまっている。

 けれど、そんな少女に、珊瑚は言った。


「それでも、中身は全く変わってないみたいだ。……世界は、変えられたかな?」


 それがかつての自分の発した言葉であったことに、少女はすぐに気がついた。

 世界を、変える。

 自分は、そう言ってこの男に決意を示したのだ。


 翻って、少女は、今の自分のことを客観的に見てみた。

 かつて少女は奴隷だった。今は貴婦人である。

 その自分が、世界を変えたと、言えるのかと。


 そして、少し黙考した後、少女は珊瑚に言う。


「世界は、変わった。でも、それは私が変えたわけじゃない……。たぶん、私が変わったから、世界も変わったように見えるのよ」


 それが、少女の辿り着いた考えだった。

 奴隷制度は、あの頃と比べ、かなりの改善を見ている。

 その改善に、少女がかなりの寄与をしていることは間違いのない事実だった。

 けれど、それが世界を変えたとまで言いうるものなのか。少女には頷けなかった。

 ただそれでも、あの頃見えていた景色と、今見ている景色と、比べてみれば、何かが変わっている。

 その何か。それはきっと明るさなのだと少女は思った。


 光に満ちた世界が、今の自分には見えている。

 この景色を、他の人にも見てほしい。


 たぶん、その思いの実現のために、少女は奴隷制度を改善しようと考えたのだ。


 だから……。

 世界が変わったとするなら、それは自分が変わったと言うことに他ならない。

 少女は確信をもって、そう言った。


 自分のこの答えに、満足してくれるだろうか。

 そう思って目を上げた少女に、珊瑚はゆっくりと笑いかけた。


「……そうか。なら、よかった。君を助けたことは、どうやら無駄ではなかったみたいだ。……そろそろ、僕はいかないと。今日は楽しかったよ。また、いつか会おう」


 沈んでいく夕日を見つめて、珊瑚はそう言って立ち上がる。

 まだ、少女には話したいことがあるのに。それにお金だって返してない。

 少女は珊瑚を引き留めようと、声を発しようとした。


 けれど、気づいた時には、もうすでにそこに珊瑚はいなかった。

 テーブルの上には、珊瑚が飲み干したカップがあるきりで、それ以外に彼の存在を示すものは何もない。


「……やっぱり、不思議な人」


 少女はそう言って、改めてロッキングチェアに腰かけ、少し笑った。

 それからレース編みを始めて、彼の事を忘れた。


 日が落ちた頃、少女が亡くなっているのが家の使用人により見つかった。

 その使用人は急いで医者を呼び、少女の命の可能性を信じたが、その願いも虚しく、少女はもうすでに蘇生の可能な状態ではなかった。

 使用人は、声を上げて泣いた。

 屋敷の他の使用人も同様だった。


 彼らは皆、奴隷だった。


 ◆◇◆◇◆


「……この人は?」


 珊瑚が改めてその国を訪ねたとき、すでに50年の月日が流れていた。

 道を歩く街人の足を止めて、珊瑚は尋ねる。

 その人は、珊瑚が指差した方向にある銅像に気づくと、あぁ、と頷いて説明を始めた。


「それは、この国で奴隷制度の改善のために戦ったエルミステール公爵夫人だよ。本人ももとは奴隷だったらしいが、何の因果か公爵夫人まで上り詰めてしまった運のいい人でね。この国でも最大規模の商会、ミル商会も彼女の起こしたものだよ」


 そこまで説明して、自分はもうお役御免だろう、と思ったのか、街人は改めて足早にその場を去っていった。


 確かに、その銅像にはあの少女の面影がある。

 右手には引きちぎられた隷属の首輪が把持され、左手には奴隷の権利宣言書が握られていた。


 数秒の間、その銅像に視点を合わせた珊瑚は、それからふいと目を逸らすと、足早に銅像から離れていく。


 鼻歌のようなものが聞こえてくるのは、気のせいではないだろう。

 彼とすれ違う人は一瞬、驚いて彼を見つめるも、その鼻歌に聞き覚えがあることに気づき、そのまま通り過ぎていく。


 その歌は、少女が歌っていたもの。

 この国の国歌ともなっている、歌だった。


 その歌の題名は――≪希望を捨てないで≫


 少女の何よりもの願いは、そうやっていつまでも続いていくのだろう。


 珊瑚はそうして、雑踏の中へと消えていく。


 街の中に見えるいくつもの看板。


 奴隷売買を行っている店は、未だになくなっていない。


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