5話 谷を駆け抜けるもの
朝、蓮は自分のベッドの上で目が覚めた。嵐が去っているのに気付く。そして、自分は床の上で寝ていたはずだと思う。いつベッドに戻ったのか覚えていない。そもそも夕べのことは、夢だったのかもしれないと思ったりする。
蓮は着替えると、美恵子のいるキッチンへ行った。朝ご飯のいい匂いがする。
「母さん、夕べはどうだった?」
美恵子は振り向いた。
「修理中の壁は守れたけど、急いで終わらせた方がいいみたい。
これからまた天文台へ戻るから、蓮はこの家の周りの掃除をお願いね」
「うん」
蓮は、準備中の朝食をつまみ食いしながら答える。
「さて」と蓮は、朝食を済ませ、家の外に出ると言った。あちこちに木の枝が落ちている。
蓮はそれらを拾いながら、ゼイラはどうしているのだろうと思う。そして、ひと段落するとラボへ行ってみた。
ゼイラはアルコープで充電中だった。蓮は椅子を持ってくると、その前に座ってゼイラを見る。
充電用アルコープは、乾電池の充電機を縦にしたような形をしている。人間のように横になる必要のないアンドロイドは、立ったまま充電する。
ゼイラは目を瞑っていた。蓮はそれを見ながら、ゼイラが解体されることを思った。その体はすすけて傷もあり廃品にした方が良さそうな古さだ。梯子を上った時の傷も、応急処置のテープが張られたまま残っている。そしてゼイラが作られた時を思う。輝かしかったに違いない。瞳は高価なクリスタルガラスだし、姿には無駄のない美しさがある。おそらく質の良いもので作られているのだろう。今のアンドロイドはこんな質の良い素材で作ることはできない。蓮はそう思うと、ゼイラを馬鹿にしていたのに、その希少価値に自分は何を見ていたのだろうと自分の不甲斐なさにがっかりしてしまう。蓮はそう思いながらも、ゼイラにどう接していいのか分からなくなっていた。
突然、ゼイラは目を開ける。
「充電が終了しました」
そのアナウンスと共にロックは解除され、ゼイラは蓮の前に立つ。そして言った。
「行きましょう」
それからまもなくして、蓮はバックパックを背負い、ゼイラを連れてパーシヴァルへ向かっていた。
父親が、嵐が来て湖の水かさが増せば向こう岸につけるはずだ、と言っていたことを覚えている。
ゼイラがいて、自分一人でないのも心強い。
それは、15歳の少年が考えた冒険で、湖を自分だけで漕いで渡る無謀さなど考えもしない。
夜になった。
前に父と行った時からすると、月が満ちていて、さほど暗くはない。
山頂の辺りは、木も少なかったから、かなり遅くまで歩くことができた。
とは言え、気温は下がっている。
蓮は、テントを張っても焚き火をしなかった。
もう、両親は自分がいないことに気付いているはずだと思う。
火を起こせば遠くから見えるし、薪を集める余裕もない。
蓮は、ゼイラがいること事態、自分の居場所が明らかになっていることを忘れていた。
そこが少年のすることなのかもしれない。
その時、蓮は、両親が自分の安否をどれほど心配しているか考えもしなかった。
ただ捕まりたくなかったのだ。
両親は、蓮がいないことに気付くとすぐに行動を開始していた。
それでもゼイラが一緒なのは、いくらか安心できることだった。
ゼイラは、蓮を守るようにプログラムされている。
蓮はテントの中で、自分の冷たい体をスリーピングバックに入れる。
ゼイラは蓮の横に座り、寄り添い、体から熱を出して暖めた。
蓮は、心地よい暖かさの中で眠る。
そして蓮とゼイラは、明け方早くに出発し、午前中の早いうちにパーシヴァルへ着いた。
思った通り、水かさは増している。
蓮はカヌーを出すと、ゼイラを前に、そして自分は後ろに乗ると、湖の中へ漕ぎ出す。
ここまで来れば、もう誰にも邪魔されないと蓮は安心する。
カヌーは一つしかないのだ。
カヌーは、ゆっくりと、渓谷の奥へと進んでいく。
嵐の後なのに、そこは全く静かだった。
心に余裕ができた蓮は、漕ぎながら辺りの自然を見る。
そして、なんて美しいのだろうと思った。
自分は、物心付くころから自然の中で暮らしている。
それに、少し前にも父とここへやって来た。
それでも蓮は、このように、自然が美しいと感動したことはなかった。
渓谷は両側から迫り、その間の湖は、前に見た時とは違った色をしていた。
嵐の後なので水は濁っているが、何かの鉱物が混ざっているらしい。
それが、朝の斜めの光に乱反射して不思議な青い色を見せている。
渓谷の山に生えている木々は、嵐の雨に洗われたようにみずみずしい。
その鮮やかな緑は、夏の季節を歓ぶかのように力強く、湖の青と空の青によく似合っている。
カヌーのオールが、白い水しぶきを立て、水を蹴る音が静かに湖面を渡っていく。
それらの自然すべてが、まるで歌っているかのようだ。
そう、ここは生きている。
そんな風に蓮には思えた。
そしてカヌーの進む方を見る。
ゼイラの後ろ姿も見える。
その両手は、カヌーの両側をしっかりと掴んでいた。
ゼイラには怖いという感覚はないから、バランスを取っているらしい。
その時、蓮は、はっとした。
ゼイラは泳げない。
自分は、自然の中で対処できるよう教えられているけれど、カヌーの漕ぎ方は習ったばかりだった。
それに、今、湖は風もなく穏やで問題ないが、この先に何があるのか、父から聞いただけしか知らない。
蓮はその時、自分でさえ危ないのに、ゼイラのことを全く考えていなかったのに気が付いた。
ゼイラを守れるのは自分しかいない。
それなのに、自分が頼りなく思えて仕方がない。
そして、ゼイラが怖がっていないことが、より自分を信頼しているかのように思える。
蓮は先を急ぐ。
父の言っていた岩や木、木の朽ちたものが見えてきているから、向こう岸はもうすぐだ。
水の流れは緩やかだから大丈夫。
そう思いながら、一生懸命にオールを漕ぐ。
急に、オールが止まる。
そして、カヌーも何かにつかえたような感触がある。
水の中を見ると、湖の底が浅くなっていた。
オールで推しても引いても、カヌーは動かない。
蓮は、カヌーを降りて引っ張ることにした。
ところが、降りてみると、足は深い泥に埋まり、抜けなくなる。
もう、先に行くことも、カヌーに戻ることも出来なくなってしまった。
「どうしたのですか?」
ゼイラは蓮を見ると言った。
「泥にはまって動けないんだ」
蓮が答える。
ゼイラは、そのまま見ている。
何かを考えているようだ。
そして空を見た。
「もう、雨は降りません。
その内、誰かがあなたを捜しにここへ来るでしょう。
このまま待ちますか?」
そのゼイラの言葉に、蓮はいらついて言った。
「こんな所で立ち往生できるか!
何とか岸にたどり着くようにしないと!」
それを聞いたゼイラは、少し考えると、カヌーを降りる。
ゼイラの足も泥につかった。
「何をするんだ!?」
蓮は叫ぶ。
「あなたをカヌーに戻します」
ゼイラはそう言うと、蓮を持ち上げカヌーに乗せる。
それから自分は前へ行き、カヌーを引っ張り始めた。
ゼイラが降りて軽くなったカヌーが動き始める。
そして動けば動くほど、ゼイラは自分の重みで沈んでいく。
元々ゼイラには、こんな事も出来るはずはなかった。
「ゼイラ、もう止めろ!」
蓮が怒鳴る。
それでもゼイラは止めない。
しばらくすると、辺りに、岩や木が横たわっているものが増え始めた。
湖の終りにたどり着いたのだと分かる。
腰まで水につかったゼイラは振り向くと言った。
「私は、これ以上あなたと共に行くことはできません」
それは蓮にも分かっていた。
「お前が行かないなら、俺も行かない」
「あなたは、この先に見たいものがあったのではありませんか?」
「お前が行かないなら見たくない。
お前と一緒に見るつもりでここまで来たんだ」
蓮は子供のように言う。
ゼイラはカヌーを引き寄せ、泥で汚れた両手で蓮の両腕を掴むと言った。
「それでは、私の目を持っていけば良いでしょう」
「なんだって?」
蓮は驚いて言った。
「大丈夫です。
ゼイラ型の目は人間とは違います。
アイマスクのようです。
ほら」
と言って、蓮の右と左の手を自分の顔の両側に当てる。
すると、カチッと両目と周りの部分のロックが外れる音がした。
蓮の腕は硬直する。
ゼイラも、そのまま動くのを止めた。
蓮の両手は、ゼイラの顔を挟んだままだ。
そうしてお互いは、カヌーの中と外から見つめ合う。
周りの音は消えたようになり、浅い水の流れがカヌーに当たる音が、かすかに聞こえる。
蓮は、ゼイラの瞳は深い青色だと思った。
嵐の夜に見たゼイラの瞳は美しかったけれど、暗かったので、その色までは分からなかった。
本来、クリスタルガラスに色はない。
その透明度の高さのゆえ、人は美しいクリスタルガラスに着色するのだ。
ゼイラは目を瞑る。
そして言った。
「あなたが私の目を持っていけば良いでしょう。
この目は、体から離れても見ることが出来ます。
私は、そうして、あなたと一緒に見れるのです。
それで良いのではありませんか?」
「いやだ」
蓮が言うと、ゼイラは目を開けた。
「私は解体されるはずでした。
存在を終えるのです。
ですが、私がここに沈めば、この体は長い時間をかけて、ゆっくりと解けていきます。
そうして私の体は、あなたが見たかったものに流れていくのです」
「では、俺の見たかったものは何だ?」
「それは、あなたが知っているのではありませんか?」
蓮は、それに答えようとしない。
ゼイラは、最後に、ささやくように言った。
「私にそれを見せて下さい」
ゼイラは蓮の手を押す。
すると、蓮が押さえていたゼイラの両方の目はマスクのように外れた。
その時、一瞬、ゼイラの口元が緩む。
蓮には、感情を表さないゼイラが、微笑んだように思えた。
目を失ったゼイラは、力を込めてカヌーを先へ推す。
そうしながら、ゼイラは沈んでいき、カヌーを掴んでいた手も解けて、湖の中に消えていった。
蓮は、バックパックの下に着いていた小さなバッグを外すと中のものを出し、ゼイラの目を入れて腰に付ける。
そしてオールをカヌーの前へ投げると、その上を踏んで岩に乗る。
さらに岩や倒れた木に飛び乗りながら岸に着くと、後ろを振り返らずに走った。
その先はすぐに開け、山脈の反対側に抜けたのだと分かる。
蓮は、大きな一枚岩の上に立っていた。
川は無数に別れ、そこから下っていき、その下に広がる夏の草原に流れていく。
そのほかには何もない。
蓮は、バッグからゼイラの目を取り出した。
小さな機械が動いている。
ゼイラの体に、信号を送っているようにも思える。
それはまるで、ゼイラが、泥の中で、これを見ているのかのようだ。
蓮は、そこに立ちながら考える。
目的を遂げたような気もするし、まだ何もしていないようにも思える。
この広い草原を見ても「ああ、そうなのだ」ぐらいにしか思えない。
そして、ゼイラの目をバッグに戻し腰に付ける。
それから両手を広げた。
目を瞑り、風の音だけを聞く。
自分が鳥のようになって飛べたらいいのにと思う。
このまま飛んでしまえば、鳥になれるかもしれないとも思う。
そうして、ゼイラと共にこの広い草原を飛び、この先にあるものが、本当にそれだけの世界なのかを知りたい。
そう思うのだけれど、やはり、自分は人間だから飛べない、と空の心が答えるような気がする。
蓮は、目を開けた。
次の瞬間、誰かが蓮の背中を掴んだ。
蓮は振り向く。
そこに俊樹がいた。
「父さん」
と蓮は言って、急に、体から力が抜けていくのを感じる。
父は倒れ掛かる息子を、自分の腕の中にしっかりと抱きしめた。