三年間、妹の代わりに婚約者へ手紙を書いていた私ですが、辺境伯様が求婚したのは「手紙の人」でした
三年間、私は妹の名前で恋文を書いてきた。
宛先は、北の国境を守るラウエンシュタイン辺境伯、ギルベルト様。
署名はいつも「マリエッタ」。
私の名前は、一度も書いたことがない。
「お姉様、今月の分、ちゃんと出しておいてくださいね。あたし、そういうの本当に無理なんですもの」
朝食の席で、妹のマリエッタはパンをちぎりながら言った。
義母は当然という顔で頷き、父は新聞から目を上げもしない。
「アンネリーゼ、字だけはあなたの取り柄なのだから。しっかりおやりなさい」
「……はい、お義母様」
私の席は、食卓の一番端だ。
そこに座るのは、前の奥様の娘だから。
この家で私に求められるのは、黙って働くことと、妹の代わりに手紙を書くことだけだった。
三年前、北のラウエンシュタイン辺境伯家から、ベルクマン子爵家へ縁談が届いた。
条件はひとつ。
国境の魔獣討伐が落ち着くまでの三年間、辺境伯は領地を離れられない。その間、文通で互いを知りたい――というものだった。
父は迷わず、美しい妹を選んだ。
ところが、マリエッタは最初の一通で音を上げた。
便箋を三枚インクで汚し、ようやく書き上げたのは、ミミズがのたうったような字で「お金持ちだと聞きました。よろしくお願いします」の二行だけ。
それを見た義母が、私を呼んだ。
「あなたが書きなさい。マリエッタの名前でね」
断るという選択肢は、最初からなかった。
辺境伯様からの最初の手紙は、たった四行だった。
――ギルベルト・ラウエンシュタインです。
――北は、もう雪です。
――手紙を書くのは得意ではありません。
――それでも、返事をもらえたら嬉しく思います。
私は、その四行を何度も読み返した。
飾り気がなくて、不器用で、でも、とても誠実な字だった。
(この方は、きっと嘘のつけない人なんだわ)
だから私も、嘘だけは書かないと決めた。
名前以外は、全部本当のことを書こう、と。
北向きの屋根裏部屋の窓から見える、古い林檎の木のこと。
その年は花が遅くて、「今年の林檎は少し寝坊をしています」と書いたこと。
冬の朝、井戸の水が冷たくて指が痛むこと――は、さすがに書けなかったけれど。
代わりに、「冬の朝はインクが固まるので、手で温めてから書いています」と書いた。
返事は、少しずつ長くなっていった。
砦の窓から見える星のこと。部下が拾ってきた子狐が、執務机の下に住みついたこと。
ある冬、彼は手紙に一輪の青い花を添えてくれた。
北の雪の中にだけ咲く、氷鈴草という花だった。
私はそれを、母の形見の詩集に挟んで押し花にした。
そして、そう書いて送った。
一度だけ、届いた手紙の字が違ったことがある。
丁寧だけれど、どこか他人行儀な字。
私はすぐに返事を書いた。
――今回のお手紙は、いつもと字が違いました。どなたかに書いていただいたのですね。お怪我ではありませんか。どうか無理をなさらないでください。
一月後、懐かしい無骨な字で返事が来た。
――なぜ分かった。右腕を魔獣にやられたが、もう治った。心配させてすまない。
短い文面なのに、私は泣いてしまった。
無事でよかったと思ったのと同時に、ひどく胸が痛かった。
(私は、あの方の字の違いに気づけるのに)
(あの方は、私の字が誰のものかを知らない)
代筆を見抜いた私自身が、三年間ずっと代筆をしている。
その滑稽さが、たまらなく苦しかった。
届いた手紙は、マリエッタに渡しても読まれない。
「面倒だからお姉様が読んで、適当に返しておいて」
だから三十六通すべて、私のベッドの下の木箱にしまってある。
夜、灯りを落としたあとで一通ずつ読み返すのが、私のたったひとつの贅沢だった。
分かっている。
これは私に宛てた手紙ではない。
彼が想っているのは「マリエッタ」で、私はただのペンにすぎない。
それでも――。
(せめて、手紙の中でだけは)
(私の言葉が、あの方に届いていますように)
「いい? お姉様は今日、絶対に余計なことを言わないでね」
顔合わせの朝、マリエッタは新しい薄紅色のドレスをひるがえして言った。
この三年で、妹のドレスはずいぶん増えた。父の事業がうまくいっているのだろうと、私は思っていた。
「マリエッタ、せめて手紙の内容だけでも覚えておいたほうが……林檎の木のことや、押し花のことを、きっと聞かれるわ」
「大丈夫よ。恋文なんてどれも同じでしょ。好きです、会いたいです、って書いてあればいいのよ」
妹は鏡の前でくるりと回って、笑った。
「それに、辺境伯様だってあたしの顔を見たら、手紙のことなんてどうでもよくなるわ」
私は、それ以上何も言えなかった。
「アンネリーゼ、侍女が足りないから、お茶出しはあなたがなさい。灰色の服でね。目立たないように」
義母の言葉に頷いて、私は厨房へ向かった。
三年間焦がれた人に、使用人として会う。
それが、私に許された唯一の距離だった。
――ギルベルト・ラウエンシュタインは、応接間の扉が開いた瞬間、わずかに眉を寄せた。
「ようこそいらっしゃいました、ギルベルト様! マリエッタでございます」
薄紅色のドレスの令嬢が、花のように笑って膝を折る。
美しい娘だった。社交界なら、さぞもてはやされるだろう。
だが。
(……声が、違う)
手紙の文字から想像していた声と、まるで重ならない。
あの手紙の主は、もっと静かに話す人のはずだった。一語一語を、確かめるように。
ギルベルトは内心で首を振った。手紙と本人の印象が違うことなど、珍しくもない。自分も相当、手紙と本人が違うと言われる男だ。
「長いあいだ待たせた。ようやく国境が落ち着いた」
「いいえ、ちっとも! お会いできて本当に嬉しいですわ」
席に着き、彼はまず、ずっと聞きたかったことを口にした。
「林檎の木は、今年は寝坊せずに咲いたか」
「……林檎?」
マリエッタが、きょとんと瞬いた。
「うちの庭には、薔薇しかございませんけれど……あ、いえ! ええ、咲きましたわ。とっても綺麗に。毎年たくさん実をつけますの」
ギルベルトは黙った。
手紙では、林檎の木は「窓から見える」と書いてあった。毎年たくさん実をつける、とは一度も書かれていない。むしろ「実は小さくて酸っぱいので、鳥たちにあげています」と。
「では、氷鈴草はどうした」
「ひょうれい……?」
「去年の冬に送った、青い花だ」
「ああ、あのお花! ええ、もちろん大切にしておりますわ。お部屋の花瓶に飾って、毎日眺めておりますの」
去年の冬に摘んだ花を、今も花瓶に。
ギルベルトの記憶の中で、ひとつの文が浮かぶ。
――いただいた氷鈴草は、母の形見の詩集に挟みました。春になっても、ページを開けば北の冬がそこにあります。
膝の上で、彼の指がゆっくりと握り込まれた。
「……もうひとつ聞きたい。俺が右腕を怪我して、部下に代筆させた時のことだ」
「代筆?」
「君はすぐに、字が違うと気づいた。なぜ分かった」
マリエッタは困ったように笑い、小首を傾げた。
「まあ、そんなことありました? ギルベルト様の字なんて、どれも同じに見えますけれど」
沈黙が落ちた。
ギルベルトは三年間、その一文に救われてきた。
血と泥にまみれた天幕の中で、自分の字を見分けてくれる人がいる。たったそれだけのことが、どれほど心の支えになったか。
その人が、今、目の前で「どれも同じ」と笑っている。
(違う)
(この娘は――手紙の人じゃない)
その時、扉が控えめに叩かれた。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
灰色の服を着た娘が、盆を抱えて入ってきた。
うつむき加減で、足音をほとんど立てない。使用人にしては所作がきれいすぎる、とギルベルトは思った。
娘が茶器を並べ始めると、マリエッタが話題を変えるように声を上げた。
「ギルベルト様、熱いうちにどうぞ! あたし、紅茶は熱々じゃないと嫌なんですの」
「……手紙では、冷めかけの紅茶が一番好きだと書いていたが」
「まさか! 冷めた紅茶なんて、使用人の飲み物ですわ」
マリエッタが朗らかに笑い飛ばした、その時だった。
カップを置こうとしていた灰色の服の娘が、ほとんど吐息のような声で呟いた。
「……冷めかけの紅茶は、待っていてくれた人の味がしますから」
ギルベルトの中で、時間が止まった。
それは、二年目の冬の手紙の一節だった。
一字一句、違わずに覚えている。
「――今、何と言った」
娘がはっと顔を上げる。
灰色の瞳が、大きく見開かれていた。自分が何を口にしたのか、今さら気づいたという顔だった。
「も、申し訳ございません、独り言で……」
「その続きを言えるか」
「え……」
「その一文には、続きがあったはずだ」
娘の唇が、震えた。
逃げるように視線を落とし、それでも、消え入りそうな声で続けた。
「……だから私は、あなたのお返事を待つ時間も、嫌いではありません」
ギルベルトは、ゆっくりと立ち上がった。
ようやく、分かった。
三年間、自分が恋をしていた声は、この声だった。
どうしよう。
どうしよう、どうしよう。
(言ってしまった。よりによって、この方の前で)
あんなの、口癖のようなものだった。
冷めた紅茶しか飲ませてもらえない毎日で、自分を慰めるために書いた一文。それがいつの間にか、私の中にすっかり染みついていたのだ。
辺境伯様が、私を見下ろしている。
手紙から想像していたよりずっと背が高くて、黒い髪に、冬の湖みたいな青い瞳。頬には古い傷がある。
その瞳が、まっすぐ私だけを映していた。
「名前を聞かせてくれ」
「わ、私は、ただの使用人で……」
「使用人が、俺の手紙の一節を諳んじられるのか」
言葉に詰まった私の前に、マリエッタが割り込んできた。
「ギルベルト様、誤解ですわ! この人は姉ですけれど、昔から手癖が悪くて……きっとあたしの手紙を盗み読みしていたんです!」
(盗み読み……)
読んでいないのは、あなたでしょう。
喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。言ったところで、この家で私の言葉が信じられたことは一度もない。
騒ぎを聞きつけて、父と義母が飛び込んできた。
「辺境伯閣下、何か粗相が――アンネリーゼ! 下がっていなさいと言ったでしょう!」
義母の手が私の腕を掴もうとして――その前に、大きな手が私の肩をそっと引き寄せた。
「触れるな」
低い声だった。
怒鳴ったわけでもないのに、応接間の空気が凍りつく。
「ひとつ確かめたい。マリエッタ嬢」
「は、はい!」
「君が俺に書いた手紙の中で、一番気に入っている一文を言ってみてくれ。どれでもいい」
マリエッタの顔から、さっと血の気が引いた。
「そ、それは……ええと……あ、あなたが好きです、とか……」
「俺の手紙には、一度もそんな言葉は書かれていなかった」
辺境伯様は淡々と告げた。
「三十六通、一度もだ。手紙の主は、好きだとも会いたいとも書かなかった。いつも、林檎の木や、インクの固まる冬の朝や、何でもない一日のことだけを書いてきた」
「そ、そんな、だって……」
「ではもうひとつ。この紙に、何か一行書いてみてくれ」
彼が差し出した便箋とペンを前に、マリエッタは凍りついた。
震える手で書かれた文字は、三年前と何も変わらない、のたうつミミズのような字だった。
辺境伯様は外套の内側に手を入れ、革紐で束ねた手紙の束を取り出した。
三十六通。
何度も開かれたせいで角はすり切れ、封筒はあちこち柔らかくなっている。
(……持ち歩いて、いたの)
(三年分、全部)
彼は束の一番上の封筒を広げ、マリエッタの字の隣に並べた。
並べるまでもなかった。
誰が見ても、まったく別人の字だった。
「――君の字ではないな」
マリエッタが、わっと泣き出した。
「だって! だってお姉様が勝手に書いたのよ! あたしは頼んでなんか……」
「マリエッタ、お黙りなさい!」
義母が叫んだが、もう遅かった。
「閣下、どうかお怒りをお鎮めください」
父が額に汗を浮かべて進み出た。
「手紙のことは、娘の手習いのようなものでして……婚約はあくまで、ベルクマン家とラウエンシュタイン家の間のもの。マリエッタとの縁談に、何ら差し障りは――」
「差し障りならある」
辺境伯様は、父を見もせずに言った。
「三年前、俺は『文通を経て、互いに望むなら妻に迎えたい』と申し込んだ。俺が望むのは、この三年、俺に手紙をくれた人だ。顔も名前も知らなかったが、その人以外を望んだことは一度もない」
「し、しかし……」
「それから、もうひとつ」
彼の声が、一段低くなった。
「この三年、俺は毎月、婚約者殿の暮らしのためにと、こちらに支度金を送っていた」
私は息を呑んだ。
(……支度金?)
知らない。
一度も、聞いたことがない。
「手紙の主は、一度だってそれに礼を言わなかった。代わりに、『新しいドレスはいりませんから、どうか北の兵士の方々に毛布を』と書いてきた。俺はそれを、謙虚な人なのだと思っていた」
辺境伯様の視線が、マリエッタの薄紅色のドレスに落ちる。
「――そもそも、受け取っていなかったのだな」
誰も、何も言えなかった。
妹のドレスがこの三年で増えた理由を、私はようやく理解した。
「送った金は、全額返してもらう。そのドレスも含めてだ。手紙の主に贈ったつもりの金で、別の者が着飾っていたのだからな」
「そ、そんな額、すぐには……!」
「払えないなら、ベルクマン家の借財として正式に手続きをするだけだ」
父ががくりと膝をつき、義母は青い顔でマリエッタを睨んだ。
マリエッタはもう泣くこともできず、ただ呆然と、自分の汚い字を見つめていた。
「……アンネリーゼ」
初めて、彼が私の名前を呼んだ。
義母が叫んでいたのを、聞いていたのだろう。
それだけで、胸の奥が痛いくらいに熱くなった。
「すまない。三年もかかって、ようやく君の名前を知った」
「い、いいえ、謝らなければいけないのは私のほうです。ずっと、嘘をついていました。妹の名前で……あなたを、騙して……」
「嘘は書いていなかっただろう」
彼は少しだけ、困ったように笑った。
頬の傷が引きつれて、ひどく不器用な笑顔になる。
「名前以外は、全部本当のことだった。違うか」
(……どうして)
(どうして、そんなことまで分かるの)
涙が勝手にあふれてきた。
彼は手紙の束から、迷いなく一通を抜き出した。開くことすらしないまま、静かに諳んじる。
「『今日は特に何もない一日でした。何もない日のことを書ける相手がいるのは、少し贅沢なことですね』」
一年目の秋。
書いたあとで、つまらない手紙だと恥ずかしくなった、あの一通だ。
「『インクが滲んでいたら、それは雨のせいではありません。返事を読んで、少し笑ってしまったせいです』」
「ど、どうして、そんな一文まで……」
「三年間、毎晩読んだ。天幕の中でも、砦の見張り台でもだ。全部覚えている」
彼は束を外套の内側に戻し、私の前に片膝をついた。
灰色の使用人の服を着た私の前に。
「アンネリーゼ・ベルクマン。俺は手紙を書くのが下手で、気の利いたことは言えない。だから、一番正直な言葉で言う」
青い瞳が、まっすぐに私を見上げた。
「三年間、俺が恋をしていたのは君だ。――俺の妻になってくれ」
何か答えなければと思うのに、声が出なかった。
代わりに、何度も、何度も頷いた。
彼の大きな手が、そっと私の指を包む。
インクの染みが消えない、ペンだこのある指を、まるで宝物のように。
ベルクマン家を出たのは、その日のうちだった。
荷物は、ベッドの下の木箱ひとつだけ。
中には、彼からの三十六通の手紙と、氷鈴草を挟んだ母の詩集が入っている。
北へ向かう馬車の中で、ギルベルト様は木箱を見て、少し驚いた顔をした。
「……君も、全部取っておいたのか」
「三年間、毎晩読みました。ギルベルト様と同じです」
そう答えると、彼は窓の外へ顔を背けてしまった。
耳まで赤くなっているのが見えて、私は思わず笑ってしまう。
(手紙のとおりの人だわ)
(不器用で、誠実で、――とても優しい)
その後のことを、少しだけ書いておく。
ベルクマン家は、三年分の支度金を返すために、屋敷と父の事業の半分を手放した。
マリエッタには、いくつか縁談の話があったらしい。けれど「婚約者に宛てた恋文を一行も覚えていなかった令嬢」の噂はたちまち社交界に広まり、手紙を交わそうと言い出す家はひとつもなかったという。
手紙を一通も書こうとしなかった妹は、今、手紙ひとつで、すべての縁談を失っている。
そして、私はというと。
「アンネリーゼ。これを」
辺境伯家に来てひと月が経った朝、ギルベルト様が一通の封筒を差し出してきた。
見慣れた、無骨な字。
宛名には、初めて「アンネリーゼへ」と書かれていた。
「同じお屋敷に住んでいるのに、お手紙ですか?」
「同じ屋敷に住んでいても、だ」
彼は真面目な顔で言った。
「三年間、俺は君の名前を書けなかった。だから、これからはその分を書く。……君も、返事をくれるか」
封を切ると、中には四行だけが書かれていた。
――ギルベルト・ラウエンシュタインです。
――北は、もうすぐ雪です。
――手紙を書くのは、今も得意ではありません。
――それでも、今度は君の名前で、返事をもらえたら嬉しい。
私は便箋を胸に抱いて、笑った。
インクが滲んだのは、雨のせいではない。
「はい。……喜んで」
その日の午後、私は生まれて初めて、手紙の最後に自分の名前を書いた。
アンネリーゼ、と。
冷めかけの紅茶を傍らに置いて――待っていてくれる人のために。
(完)
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