危機
「リゼさん、お疲れさまです」
仕事を終えて職員通用口から出ると、当たり前のように男はいた。
「ロニさん、お疲れさまです。では」
掴まれることがないように、ストーカー男ーーロニの前を素早く通り過ぎた。実は数日前に待ち伏せしていたロニに突然腕を掴まれ、熱を出したばかりだった。
正直まだ体調はよくない。
家に向かって歩く。少し距離を置いた後ろからロニがついてくる。
どう見てもストーカー。付き纏い。この街でも一部の人の間では有名である。それでも誰もロニを止めようとはしなかった。なんならリゼに対してロニを受け入れるように説得してくる人もいた。それもまた引っ越しを決意した理由である。
ーーロニを撒いたら今夜にでも街を出よう。夜道で誰かに見つかると面倒だから、以前転移陣を張っておいたうちのどこかへ飛べばいい。
リゼの家は街から少し離れた山の中にある。
山奥にはリゼくらいしか住んでいないので、道中には道に迷う魔術を施してある。保険くらいにかけておいたものだけど、ロニが現れてからは随分と助けられた。
ロニを撒きたくて歩く速度が早くなる。リゼの速度に合わせて背後の足音も早くなる。いつもは夜ご飯の食材を買う商店街も今日は素通りだ。夜ご飯なんて食べなくていい。早くこの自分へ興味を持つ男の圏外に飛びたい。その一心だった。
商店街を抜けて、山に向かって歩く。坂を上り、だんだんと草木が増えてくる。明かりが少なくなっていく。山道へ入っていく。
もう少しで道を惑わす魔術が発動する範囲に入る、というところでロニが動いた。
「リゼさん!!!」
もうあと少しで魔術発動範囲内、というところでロニは駆け出しリゼの腕を掴んだ。掴んで引き寄せ、強引に後ろから抱き寄せる。
「!!」
リゼは驚いて声も出ない。
冷や汗が一瞬で湧き出し、心臓はバクバクといやな音を立てて猛烈な吐き気に襲われる。
「これ以上先へ進むとリゼさんを見失うのはわかっています。リゼさん、どうか僕を受け入れてください。お願いします」
お願いします、なんて言っているけれど後ろから強い力で抱き込んでいるのだ。
お願いもクソもあるもんか。
「……離していただけませんか」
「いやです。どうか、どうか僕と一緒に来てください」
「いやです」
リゼが明確に拒否すると、ロニの腕に力がこもる。リゼは顔を顰める。
気持ちが悪い。吐きそう。
むかむかとしたものが胃に溜まっていく。
ただ後ろから無理やり抱きしめられているだけなのに、リゼの頭の中には過去囚われていた頃の記憶が蘇る。
人間一人にどうにかできるはずもないということはわかっているのに。頭ではわかっていても呼吸がはくはくと浅くなる。陸にあげられた魚のように、うまく呼吸ができない。 死なない身体のくせに生きるのが下手になる。
全くもっていうことをきかない。
あ、本当に無理かも。
胃から何かがせり上がってくる感覚と同時に意識が遠くなっていく。ここで意識を失ったらダメなのに。絶対に連れて帰られちゃうのに。ダメなのに。
視界がチカチカしてくる。目の前が上手く見えない。脳に酸素が行ってないのかもしれない。
「おい。お前、何をしている」
突然背後から明らかに怒気を含んだ低い声がした。
それと同時に嗅いだことのない甘い匂いがした。
嗅いだことがないのに今までで一番良い匂いで、ずっと嗅いでいたくなるような匂い。
どうしてだかこの匂いを嗅ぐと、急に息ができるようになる。この匂いは大丈夫だって誰かが言っている気がする。なんだかそんな気がする。
「……た、たすけて」
うまく言えたかどうか自信はない。言えたとしても、本当に小さな声だと思う。けど、言った瞬間に自分を拘束していたものがふと離れた。そして心地の良い甘い匂いに全身が包まれる。
ーー誰かに抱きしめられている。
ロニではない誰か。
本当なら気持ち悪くなるはずなのに、不思議と嫌悪感がない。匂いのせいだろうか。
安心したのか限界が来たのか、リゼは意識を失った。




