ハローハロー・ゴールデン・エスケイプ
『恋』を深掘りしたマイルド・ブラック・ラグーン・テイストを、どうぞご賞味ください。
さっさと死んじまえ、と思っていた。
肌を焦がす太陽と、その日差しより遥かに眩しい白砂の波打ち際。しかし波の音は道路を行き交う車のクラクションと雑多な喧騒で幾分か控えめに聴こえる。それが勿体ないと思うくらい、美しい砂浜だった。
前を横切る色黒の海水浴客が揃って俺を見ては、くすくすと笑って通り過ぎる。そういう赤裸々な国民性だから、というのは置いておいて……ビーチにホワイトカラーでやってくる男なんてまずいないだろうから、当然といえば当然だ。律儀にネクタイまでしてぼうっと海を眺める奇怪な男なんてどこを見渡しても他にいない。酔狂なことをしているなと自分でも思う。
理由は簡単。死にたかったから。
正確には死に損なっている途中だ。さっさと死んじまえと願う一方で、ここで死んだら人が多いから迷惑かなとか、この場所が好きな人に悪いなとか、そういう負け犬根性がどうしても引き止めてくる。まさに死んじまえと思う所以である。
「……アホらし」
空港で買ったぬるいルートビアを開けて一口呷る。この世のものとは思えない味がした。
◇
ただひたすら呆け続けて、あんなに不味かった茶色の悪魔も底をついた頃、痩せこけた犬がさく、さく、と砂を蹴ってやってきた。気づけば日も沈みかけ、痺れるような痛みだけが肌に残っていた。
犬は今にも折れそうな細い四つ足で立って、じっとこちらを見つめている。
――こんなところに何しに来た? ここはお前みたいな、背広に死人の面をおっ被せただけの木偶が来る場所じゃねぇよ。
そう、ここはきっと俺が来るべき場所じゃない。これは逃避行だ。仕事じゃなければ心躍るバカンスでもない。たまたま手に入ったチケットの行先がこの島だったというだけ。
すべてを失ってここに来た。
あの息もできない汚泥の吐き溜めのような街にいると見えてくるものがあった。人は仮面を被る生き物であるということ。
接する人格がその人の本当の姿かどうかなど分からない。だから線を引き、仮面を被って顔色を伺う。俺も同じ。そして偽りすぎて、かつての俺はすり替わった仮面に食い潰されてしまった。故に、その仮面で得たものを失えば――例えばヤバいミスを擦りつけられた、とか――自分自身の存在意義さえ揺らいでしまう、という道理である。
「……痛てぇ」
ただ嘆息だけを繰り返していた。気を取り直して一服でもしようと、鞄から吸うのも忘れていた煙草を取り出す。
「――Bawal manigarilyo dito」
思わず振り返った。
そこにいたのは現地人らしい、ビキニにパーカーを羽織った浅黒い肌の少女。俺の手元を覗き込んで怪訝そうに眉を顰めている。どうやら煙草を注意されているらしい。
「Ah……turista ka ba? ――ここ、煙草ダメだよ」
少女は当然のように俺の隣に座り、手に持っていた銀皿を犬の前に置いた。その上にはこんもりと残飯が盛られ、血相を変えた犬がものすごい勢いでがっつく。
吃驚していると、少女が俺の手から箱ごと煙草を奪って、これまた当然のように一本火をつけた。
「え、禁煙なんじゃ……」
「これでお互いさまだね」
少女は癖のある英語でにやりと笑い、すぐにふいと海の方を向いてしまった。
深呼吸するような一服。なのに減り方はちり、ちりとスローペースだった。まるで口惜しく時間そのものを味わうように。
「――……君、地元の人?」
少女が少し目を丸くしてこちらを向いた。のっぺり顔が流暢な英語を話していれば、まあ少なからず驚くだろう。
少女は海に向き直って、背後を指差す。
そこにあったのは、白塗りのコンクリートにいくつも穴を開けたような角張った建物。給仕らしい女が外に置かれたテーブルを拭いている。どうやらレストランらしい。
「あそこで働いてるのか?」
「英語、上手いね。あたしより」
すっと立ち上がって、また深く吸う。今度は大きく燃える。そして灰を落としたそれをビーチに向かって指で弾いた。
「ちょっ」
「今日は忙しい。手伝って」
慌てて燃えかけの煙草を拾い、ルートビアの空き缶に詰めた俺を尻目に、少女は踵を返して白い建物向かっていた。
「手伝う……?」
何を?
聞き返す間もなく彼女は行ってしまった。しかしそそくさとエプロンを着けた彼女を見て、ああ、そういうことか、聞き返す必要もなくなってしまった。
とりあえずバッグと上着を持つ。訳は分からない。だが店を手伝うような縁が芽生えるほど言葉を交わしたわけでもないのに、少ない言葉の末節から彼女に引き込まれてしまうようだった。
不意に、胸が苦しくなった。夕闇に沈みかけた街に響くクラクションと波の不協和音。焼けた肌に、鼻をつく異国の匂い。すべてが今、この頭上を覆い尽くして埋めようとしている。
だから俺は、糸を掴むように慌てて彼女の後を追った。
◇
大学時代の居酒屋のバイトを思い出し、意気揚々と店の門を潜ったのであるが、そんなものは小指の甘皮ほどしか役に立たなかった。
「お疲れさま。大変だった?」
宵のじっとりとした暑さの中、バスケットボールの試合ばりに動き回ってシャツまで汗だくの俺の肩を叩く彼女は、何故か嬉しそうに笑っている。開かれた店内は営業終了後もゴールデンタイムの熱気が漂っていた。
向かいに座った彼女が手渡してきたコップの水を一気に飲み干す。「ありがとう」と返すとまた笑った。
一方で、冷たい水が喉を通って落ち着いてくると、妙に頭を抱えたくなった。何をしてるんだ俺は。なんで見ず知らずの地の見ず知らずの店の手伝いをしているんだ。ここには死にに来たはずなのに。
「大変だった、っていうか……」
「どうしてあそこにいたの?」
微妙に会話が成り立たない。
「……全部嫌になって。傷心旅行中なんだ。それだけ」
「長くいすぎたね」
訳が分からない。
彼女は静かに俺を見つめていた。何も言わずにいると、ふと後ろを振り返った。大きく開いた壁に縁取られた、真っ暗な海が広がっていた。
「海は怖いよ。全部持っていく。心だけは、持っていかれないようにするの」
「心?」
「そう。だから手伝ってもらった」
「……ああ」
彼女の瞳の奥に見える優しさにやっと気がついた。
そりゃそうだ。思い詰めた様子の人間が放心して海を何時間も眺めていれば、俺だって声をかける。自分の働いている店の前ならなおさら寝覚めの悪いことだろう。
ここで死ぬべきではない。少なくとも自分の見える範囲にいるうちは。彼女の瞳はそう言いたいのかもしれない。
「ねぇ」
彼女は少し固い笑みで俺の顔を覗き込んだ。焼けた肌をくすぐる甘い匂いが鼻の奥いっぱいに広がる。昼間の太陽よりも眩しい。
その眼差しは、俺に見返りを求めているようだった。
「シャワー浴びて、さっぱりする?」
◇
立ち寄ったカフェでたった一杯のコーヒーを飲みながら時間を潰すように、俺たちは近場のホテルで互いを慰め合った。
とはいっても、彼女はほとんど受け身だった。深い水槽の中に手を差し込む時のように、ゆっくりと、冷えた部屋でただ彼女だけが温もりを纏って俺を受け入れていた。
揃ってベッドに横たわっていると、そういえば夕飯を食べていなかった、と彼女が言った。見計らったように腹が鳴ったので、ホテルを出て近場の屋台に向かった。
肉やら野菜やらを焼いたいくつかのよく分からない惣菜をプレートに盛って、席に座る。彼女は当たり前のように俺の前に座って、俺が手を合わせたのを見て同じように手を合わせた。
「そういえば、なんで最初から英語で話しかけなかったの? 流石に現地人には見えなかったでしょ」
「びっくりしていなくなるかと思った」
苦笑いする俺を見て、また彼女は笑った。
相変わらず眩しい笑みで、俺はつい不貞腐れて食事に夢中、というフリをする。この気恥しさを直視するにはもう少し時間が必要だった。
「この島には、いろんな人がいる」
冷えたコーラを飲みながら彼女は言った。
「お金持ち。旅行の人。仕事の人。でもみんな楽しいことが好き。ここはそれができる楽園なの」
俺を諫めているような、慰めているような、自分に言い聞かせているような。何にせよ、精一杯選んだ痕跡が残る言葉だった。
「だからここにいる限りは、誰もが楽しむべきなの。あなたも、当然あたしもね。少しでも楽しければ、ハッピーは連鎖する。そうでしょ?」
ちょっとした違和感だった。
嫌な予感を振り切って、彼女への興味に従って、俺は月並みに問うてしまった。
「君はハッピーじゃなかったの? 家族とか――」
言い切る前に、彼女は背後を親指で差した。
困ったように笑って俺を見据えていた。俺は何も言えなかった。その指の先にはあの青々とした海があるはずで、それが彼女にどう見えているかというもう一歩先の問は、喉の奥で空振りして消えた。
「ね、あなたにとっていい場所になった?」
じめじめと肌に纏わりつく熱。この時間でも落ち着きを見せない外の喧騒。鼻の奥を擽る熱帯の匂い。
少女の希望に満ちた眼差し。
すべてが、俺の消えかけていた心の一部を埋めようとしていた。まるで慈悲を、居場所を与えるように。それは彼女と俺への神様からの贖罪のようにも思えた。
「……傷心旅行はやめるよ」
彼女は目を丸くした。
「君とここにいたら楽しくなるかな」
「……とりあえず、ハロハロでも食べる?」
彼女のとびきりの笑顔につられたせいで、表情筋が攣ってしまった。悪くない痛みだった。
こういう展開好きです(迫真)
こんな風に始まる恋愛もあるのかなと思ったのです。
面と向かって好きになるわけではないけど、お互いに足りない何かを埋め合わせていくうちに気づけば必要不可欠になっているような…
と、言いながら、本作の影響元はブラック・ラグーンなので、もっとこうアングラなものにしてもよかったかなとも思ったりw