とある日の朝。
1限と2限の間の10分間の休み時間──この時間帯は遅刻した学生にとっては非常に素晴らしい時間だ。
本来、授業途中に入っていけばクラスメイトから必要以上の注目を浴び、先生にも叱られてしまう。
しかし、休み時間には人の出入りがある。後ろからこっそり入っていけばまず先生にはバレないし、周囲の注目をさほど集めない。
というわけで俺──山市凛空は今日も安全に──がらっ。
「貴様、重役出勤とはいいご身分だな?」
「へ?」
──俺は確かに、教壇とは逆側のドアを開けたはず……。
ドアを開けると、麗しいご尊顔をひどく歪ませて仁王立ちする、変わり果てた女性教師の姿があった。
──その動揺は一瞬。されど対応も一瞬。
顎に手を当てて、すぅぅ、と音を立てながら息を吸い込んで思案顔を整えた俺は、何事もなかったかのように教室の扉を閉じた。
「よし……出直すか!」
俺は教室に背を向けて歩き出す。
こうして、快刀乱麻を断つ如く、ピンチを切り抜けたのだった──
「おい、どこへ行くつもりだ?」
……なぜか前に進まない。
自分の右肩を見ると女の人の華奢な手指……しかしそれに似つかない超常の力が伝わってくる。
「ふう……」
俺はどんな窮地でも勝ち筋を手繰り寄せる歴戦の軍師参謀のように、この絶望に差し込んだ僅かな光明とも言うべき最適解を、わずか数刻ではじき出す。
確かな実績と経験に裏打ちされた解答を出した俺は、最終決戦を前に心を落ち着ける。
──大丈夫。何も恐れることはない。怖いことなんて何もない。
荒ぶる呼吸を整える。
──難易度はVery Hard……だが俺ならやれる……いや、やるしかねえ!
絶望的状況。ゲームなら即ロード確定。
──一寸先は闇だ。だが二寸先に……闇夜を照らす光がある!!
俺は意を決して女性教師が待ち構える方へ振り返る。
◇
「ほう? 逃げなかったことだけは褒めてやろう」
不敵な笑みを浮かべる女性教師は、自らの力を示さんとばかりに、血管が浮き出るほど固く握りしめた拳を俺に見せつける。
やはり女性というものは、自信のある身体のパーツを他人に見てもらいたい願望があるのかもしれない。
わあ、なんてかわいい生き物なんだ!(震え声)
「せ、先生……今日も一段とご機嫌麗しく──」
「言い残すことはそれだけか?」
──畜生っ! さすがにこの古典的解決手法は有効じゃねえのか!?
より鋭くなった剣幕は、明らかに若手教師が醸し出せる範疇を逸脱しており、女性教師の背後に控える生徒たちは青ざめ、震えあがっている。
ここはアプローチを変えてプランBで対処するしかない。
「と、とりあえず鉄拳を下ろして……今日のところは見逃してくださいよ! 明日からは絶対に遅刻しないと誓います!」
真剣な眼差しで先生の瞳を見据える。
「それは「明日から本気出すから見逃してくれ」、としか聞こえないが……」
「それは断じて違うんですよ!」
「──っ!?」
先生の瞳孔がわずかに開いたような気がした。
──ここに勝ち筋がある!!
「先生は人間の脳って日常生活では数パーセントしか機能していないって知っていますか?」
「急に何だ……まあ私も聞いたことはあるな。普段はセーブしていて極限状態ではリミッターが外れるとかだったか?」
「そうです。人間とは普段は実力を隠していて、追い込まれれば本領を発揮するようにDNAに刻まれた生物なんですよ。その生命の神秘に抗うという行為の方が愚かに思えませんか?」
「……それで?」
「逆に言えば、人間とは追い込まれないと本気を出せないようにDNAレベルで設計されてるんです。つまり明日から本気出すという決意は決してその場しのぎの詭弁や自己防衛などではなく、むしろ人類の神髄に従った非常に合理的な考えで……って先生その拳は──」
「屁理屈こねんなぁぁ!」
女教師から繰り出された必殺の拳が俺の鳩尾を正確に捉えた。
◇
──私立柊木学園は柊木グループという大企業が運営母体であり、とある実験的な取り組みで注目を集めている学園である。
それはスコアという指標とポイントという学校施設内通貨の導入である。
スコアは生徒たちの各教科の成績を反映したものであり、そのスコアに応じてポイントが毎月支給される。
専用のアプリをインストールしたスマホ、もしくは学生証をかざすことで、ポイントは学校内の食堂や購買などの施設で、現金の代わりとして使うことができる。また、ポイントは部活動の成績や学校行事の順位によって臨時に支給されることもある。
これらの取り組みは学生の競争意識を促し、ひいては柊木学園が標榜する競争主義を体現するものである。
支給されるポイントはあくまで子供のお小遣い程度の金額、それも使用用途が非常に限定されている。つまるところただの図書カードの配布とほとんど似たようなものなのだが、単調になりがちな学校生活にささやかなインセンティブを設けることで、学友たちと切磋琢磨して己を磨き上げる環境を整えた柊木学園は、新たな学校運営のロールモデルとして注目されている。
そして、話は変わるが不思議なことに、柊木学園には二つの放送部がある。いや、正確には二つあったと言った方が正しい。
新校舎にある放送室を活動拠点にしている新部こと、新放送部。
そして、旧校舎の放送室を活動拠点にしている旧部こと、旧放送部。
旧校舎は現在の3年のみが使用していて、今年度終了後に旧校舎の取り壊しが決まっている。
既にすべての部活動が新校舎に拠点を移した中、新校舎に居場所のない旧部は廃部が決定。
現在学校運営として必要とされる放送部の活動はすでに新部が担っており、旧部の存在は忘れ去られていた。