私の面目
あれから、もう小一時間は歩きどおしだ。
頭上の夜は、森の落葉樹の間の深い底にも落ちてきて、私たちは森と夜の冷気の交じり合う中をいちいち裂いて歩き、そのたびに鼻の頭が凍りつくようだった。星の夜天光のおかげで、木々の群がりの中、立ち往生だけは免れたけれど、いくら歩いてもいっこうに森の尽きる気配は見えなかった。
ともに歩き始めてしばらくは、「ついてらっしゃい」という星雪姫の案内で森を抜け、お城へ向かっていたはずだけど、「それはそうと、あなた、よく通じているのでしょ?この森に。だってこんな所をたった一人で歩いていたんですもの」と問われ、見つめられると、なんとなくこの森のことを熟知しているような気がして、そうじゃなきゃ大事な本など持ち出して、しかもこんなバカげた軽装で森に足を踏み入れるはずはないのだし、それからは私が先導を務めて足許の闇を払いながら進んでいた。
「ああ、こんなことならケンキチじいと一緒に帰るんだった」後ろで星雪姫がタメ息交じりにボソッと呟いた。
「ケンキッジーって誰?」私は振り返って訊いた。
星雪姫は着ていた真白なフーデッドコートの暖かそうなファーのついたフードを頭にかぶって、長い髪を中にしまい、透き通るような色白の顔だけをちょこんと覗かせて、キョトンと目をあげた。
私は、よもやあの猟師のことじゃないかしらと疑念がふとよぎった。
「ええ、それはだからその、この辺りの森に住む妖精のことですよ」
「森の妖精?この森にそんなものがいるのですか?」そうなら、この森に明るいはずの私の面目を失う話だ。
「そのようですね。実はわたし、さっき遭遇したんですよ。歩きながら、疲れもあって思わずウトウト眠りかけてしまい、いま思えば、森の吐き出す悪い瘴気のせいでしょう、ああ、もうダメだわ、このまま根方の冷たい下生えの間に倒れてしまう、と諦めかけたとき、おでこの上の方で淡い光が差して、見上げると羽根を優雅にはばたかせて、かわいらしい顔をした森の妖精が姿を現したのよ。そうして妖精は『さあ、こっちにおいで、私の後についておいで。森の外へ出してあげるよ』と囁いたの。わたしは言葉を失い、あなたは誰なの?と心の中で問いかけたのに、妖精は『私は森の妖精、ケンキッジーだよ』とちゃんと応えてくれたわ。わたしはもう一度心の中で、ごめんなさい、いませっかく娘騎士さんがわたしを先導して下さっていますのに、私だけ抜けがけして森を出るのは申し訳ありませんから、どうぞ私などに構わず、妖精さんの森の御用の方へお出掛け下さいませ、と言ったらね、森の妖精ケンキッジーさんは、虹色の光の尾をひいてどこかへ飛んでいってしまったの」
星雪姫の話を聞いた私は、ああ、なんて心の美しい姫様だろうと感動してしまった。私が知ったかぶって森に通じているなんて虚勢を張ったばかりに、こうしてかよわい深窓の姫の身を、こんなかぐろい森の奥に迷わせているのだ。
本当は私は、この森に来るのは初めてではなかったかと、激しい自責の念にかられた。
「ごめんなさい。私が至らないばかりに姫様を苦しい目にあわせてしまって。なのに姫様は私のことまで慮って、森の妖精の誘いを断り、私と共にこんな暗くて寒い森の中に残ってくれたなんて、本当に感激してお礼の言葉もみつかりません」
「とんでもありませんわ。わたしも一国一城の姫の身、困っている民をおいて、自分だけ助かろうなどという卑しい料簡など持ち合わせていないだけですわ」
本当にこの姫様の幸いのためなら、私はこの身を焼いても構わない。
夜は徐々に闇を深め、月も見えず、頼りにするのは星明りのみ。そしてなにより身を切るような寒さが私たちを責めさいなむ。一体私はなぜこんな田舎の茶番劇みたいな衣装を着てきたのか、つくづく思慮の足りない自分が恨めしかった。足もくたくた。立ち止まれば、ただちに凍りついてしまいそうだけど、もう私も、なにより星雪姫様ももう限界だろう。
この身を焼くにも火はいる。火の熾し方は知っているような気がした。
「もう今日はあきらめましょう」私は歩みを止めて、白い息を吐いた。「どこかそこいらで休めるのにいい敷地をみつけて、火を焚きましょう。寒くていけませんから」
「まさか、このような所で一夜を明かすとでも?」星雪姫は眉をひそめた。
「ええ、私は疲れてくたくた。おまけに寒くて鼻水まで垂れてきそう。お腹もペコペコで力も出ませんし」
「わたしは嫌です。こんな所で夜を明かすなんて。一国一城の姫のすることではありませんわ。もう少し歩きましょう」星雪姫は私の脇をすり抜けると、とっとと先を歩きはじめた。
私は本当にこの身を焼きたくなってきた。飢えと寒さと疲労をかかえながらも気丈にふるまう姫と、そんな姫君の前で軽々しく弱音を吐いた情けない自分とを比べ、恥じ入り、炎のような熱いケープでもあったなら、怖れず羽織ってこの身を焼き尽くしたいと願った。
星雪姫はずんずん先を進んでいった。暗い木の間の深奥を、何のあても手掛かりも確かめぬまま構わず突き進んでいく。細い足を力強く運んで。さすが、一国一城の姫というのはこういうものなのかと、感心しながらついて行ったら、矢庭に星雪姫の足がピタと止まった。
「ほら、あすこに何か見えるわよ、山小屋じゃないかしら」星雪姫は暗い木の間の先を指でさした。
「私には見えないけど・・・・・」
「さあ行ってみましょう」星雪姫は再び勢いよく歩きだし、私も後につき従った。
しばらく行くと、私の目にも小さな山小屋の、丸太で拵えた壁らしいものが見えてきた。
「ホントだ。でも燈りが灯ってない。誰も住んでないのかな。だったら一晩お借りしましょう」