五話 吸血鬼少女と約束
朝。
カーテンの隙間から陽光が家の中を薄く照らし、小鳥の鳴き声が小さく聞こえてくる。
そんな中、ベッドの中で、目が覚めた。
見慣れない部屋の様子に、一瞬戸惑った後、昨日は結局起きなかったシルヴィにベッドを譲り、自分は二階にある来客用の部屋で眠ったことを思い出す。
そして壁に掛かっている時計を見て、頭が一気に熱くなるのを感じた。
「――遅刻ッ! ……しないのか」
いつもならばとっくに起きている時間帯に自分が目覚めたことを認識して、慌てて身を起こす。
そして上半身が完全に起き上がったところで、ようやく気がつく。
そうだ。俺はもう、帝国騎士団に所属していないんだ。
身体の疲れがどっと消えたような、朝にまとわりつく気分の悪さが消え去ったような、そんな感覚。
ただ、奇妙な喪失感だけは、無視することができなかった。
昨日は疲れていたから気づかなかったものの、長年の習慣というのは思ったよりも深く俺の体に染みついているようだ。
「……とはいえ、今日はどっちにしろ休みだったのか」
壁に掛けられたカレンダーが目に入った。
今日の日付に書かれていたのは大きな丸のマーク。
騎士団にいた頃の名残、一ヶ月に一度の非番の日が、今日のはずだったらしい。
帝国騎士団は給料こそ良いものの、その勤務態勢は決してホワイトとは言えない。世間一体では休日とされている日も、訓練やら講習やらで、完全に休みになるのは月に一回なのだった。
ただ、待ち遠しいはずの休みの日も、あの騎士団から与えられたのだと思うと、少し忌々しくも感じる。
だからといってなにをする、というわけでもないのだが……
「……ん? なんだこの匂い?」
まぁ、せっかくだし二度寝でもするか、と。
そう思いながらベッドに倒れ込んで、そして気がついた。
部屋の外から、なにやら美味そうな香りが漂ってきていることに。
◇◆◇
「おはようございます、ルネスさん。もう少しでできますから、待っていてください」
慌てて下の階に降りてみると、シルヴィが、キッチンからそう声をかけてくる。
「……ああ、おはよう」
戸惑いながらも俺は挨拶を返し、リビングの椅子に座った。
どうやら先ほどからの匂いの発生源は、ここだったらしい。
呼吸をするだけで、腹の虫が鳴くような、涎が垂れてきそうな、魔力的な香り。
トントンと包丁がまな板を叩く音が、妙に心地よかった。
「昨日、少し考えてみたんです」
何か作業をしながら話しているのか、独り言のようにシルヴィはそう言う。
あれからずっと眠ったままだと思っていたが、そうではなかったらしい。
「私はどうやったら、この恩をルネスさんに返すことができるのか」
「それは……」
「『シルヴィは俺の復讐につきあわされているだけなんだから、別に気にしなくて良い』とか、ルネスさんは言うと思いますが、それでは私の気持ちが収まりません」
言いたいことを完全に先回りされてしまった。
盛り付けでもしているのか、食器同士の擦れる音が小さく聞こえた。
だから…… と彼女は言葉を続ける。
「少なくともルネスさんが次の職を見つけるまでの間は、私はここで家事でもしようと思います。私、これでも料理には、結構自信がありますから」
そう言いながら差し出してきた二つの皿に、俺は目を奪われた。
色鮮やか、としか表現できないほどの色彩豊かな料理が、一つのプレートに綺麗にまとめられている。朝食だからか、全体的に量は小さいが、野菜、主食、そしてタンパク質。
一通りの栄養素が、料理としての調和を持って、皿一つに乗っていた。
「ほんとは味噌汁でも、と思ったんですが、まず味噌がなかったので、今日は洋食っぽくしてみました」
ゴクリ、と喉が鳴る。
自分が腹を空かしていることを、否応もなく自覚させられる。
そんな、暴力的なまでに食欲をそそる何かが、そこにはあった。
早く食べたいと、シルヴィから皿を受け取ろうとする。だが……
「まだ、だめです」
「な、なんで!?」
「……このままだとルネスさん、食べた後にはまた『復讐が~』とか『安静に~』とか言い出すに決まってます。だから…… 私と一つ、約束をしてください」
「約束?」
「そうです。『少なくとも自分に新しい職が見つかるまでは、私に家事をして貰う』約束です」
約束…… なるほど、それは確かに、悪い提案ではなかった。
昨日今日こそ休日を満喫したものの、いつまでも無職でいるわけにもいかない。
食事を作ってくれる人の存在はありがたいし、何よりもこの朝食を早く食べたいという気持ちもあった。
しかし……
「シルヴィはそれでいいのか? 俺は君を好きで助けたわけだし、恩に感じる必要は……」
「ルネスさんの言葉を借りて言うなら、『これは私が勝手に恩を感じて、勝手に恩を返そうとしているだけ、いわばルネスさんは、私に恩を返させられているだけ』なんですよ。私が好きでやっていることなんです」
どこか得意げな顔で言うシルヴィに、俺はそれ以上、何も言えなくなってしまう。
それは確かに、俺の言いそうな言葉だった。
「わかった。じゃあ、頼むよ。できるだけ負担はかけないように、俺も早く職を見つけるから」
「……ええ、頑張ってください」
では、食べましょうか。
シルヴィはそう言って、今度こそ皿をこちらに手渡してきた。
待ちきれず、俺は両手を合わせて……
「いただきます!」
◇◆◇
見た目通り、香り通り、シルヴィの朝食は、素晴らしく美味しいものだった。
量も絶妙なもので、軽すぎず、重すぎない、完璧な腹の満たされ具合だ。
「いやぁ、本当に美味かったよ、シルヴィ。ありがとう」
「いえ…… 自信があると言っても、私はまだまだですから」
食事の後に談笑するのを、習慣にできたら良い、そう思う。
まだ2回目だというのに、この穏やかな時間が、心底気に入っている自分がいる。
荒んだ心が、洗われていくように感じた。
しかし、穏やかな時間はそう長くは続かない。
嵐のように突発的に、〝それ〟はやってくる。
〝それ〟がなにかは人によって、状況によって変わるが、しかし〝それ〟は突然、何の対処もできないうちにやってくるのだ。
「……あれ? 来客ですかね?」
先に気づいたのはシルヴィだった。
二人で紅茶を啜っていると、突然、玄関の扉が叩かれる音がしたのだ。
――新聞の勧誘だろうか。
などとのんきなことを考えながら、ドアについた覗き穴から、来訪者の正体を知る。
そこには……
「なんで……? 入院してるはずじゃぁ……?」
帽子をかぶって、そわそわとしている様子の妹の姿があった。
次話はおやつ時に投稿する予定です。
お茶菓子にどうぞ。