西の部屋(一)
長い一日を終えて、貴久が家に帰り着くと、弟の泰久も両親と共に茶の間にいた。
「二次会も終わったのか?」
「うん、純ちゃんの体調も考えて、早目にお開きになったんだ」
泰久は、普段は会社の寮に住んでいるが、今夜は家に泊まって行くという。
「あのお嬢さん、足の具合はどう?」
母の京子が貴久に熱いお茶を差し出しながら、顔を見上げた。
「医者は、軽い捻挫だって。でも、アパートまで送って行く頃には紫色になってて・・・。ちょっとひどそうだった」
「そうなの。純ちゃん、とても仲のいい先輩らしいから、あの後も何回も心配していて・・・。あ、そうだ。あの方の引き出物を預かって来ているんだけど、どうしようかしら」
京子はリビングの隅に目をやる。
そこには、それらしき紙袋が置いてあった。
「明日にでも、俺、渡して来るよ」
「そう?助かるわ」
と、京子。
「ちょっと気になることもあるし・・・」
と、貴久は思わずつぶやいてしまった。
「え?気になること?」
母親が心配顔を見せる。
「あ、いや。くじいた足、腫れて痛そうだったからさ」
あわてて誤魔化した。
美香の元夫とのいざこざのことなど話したら、大ごとになりそうだし、第一、誰にも言わない約束だ。
「あのお嬢さん、一人暮らしなの?」
京子が心配顔を重ねる。
「そうだよ」
「じゃ、大変ね。歩くだけでも不便でしょうから」
「まあね。しかも、営業職みたいだから、余計にね」
「そうなの・・・」
「とりあえず、明日、引き出物を置きに行って来るよ」
「そうしてもらえると助かるわ。純ちゃんの代わりに様子を見てきてあげてね」
「うん、それに・・・」
「え?」
「いやなんでもない」
『月曜の朝、美香を会社まで送っていくつもりだ』と、もう少しで口にしそうになって、ぐっと思いとどまった。
二次会に出た泰久は『もうお腹いっぱい』ということで、両親と三人で夕食を取った。食事しながらも、思い浮かぶのは美香のことだ。
『彼女も今頃食事をしているだろうか?足は痛んでいないだろうか?』そして何より、『元夫という男がまた彼女のアパートを訪ねて来たりしていないか・・・』
「貴久。貴久ったら・・・」
「ん?」
「ぼんやりしてどうしたの?」
京子に何度も呼ばれていたらしい。
「ああ・・・ごめん。何?」
「聞いてなかったの?」
「何を?」
「もういいわよ」
「『もういい』って何だよ?気になるじゃない」
「あなたも早く結婚しなさいって言ったのよ」
「なんだ、そんなことか。余計なお世話だよ」
貴久は、ムッとした顔を隠さない。
それまで黙っていた父の久は、
「母親に向かって『余計なお世話』は、無いだろう?」
と、あきれ顔をしている。
「ああ、いや、それはそうだけど・・・そのうち、するよ」
「え?そういう人、いるの?」
スマホをいじってリビングのソファに寝転んでいた泰久が、やや驚きの表情で顔をあげた。
「今はいないけど・・・」
「なーんだ」
そう言い放つと、泰久は再びスマホをいじり始めた。
「ごちゃごちゃうるさいな、まったく・・・。結婚する気になればすぐにだって出来るよ。その気がないだけだって」
ぶつぶつ言いながら、貴久は茶碗のご飯を掻き込んだ。
「せっかく次から次へ彼女が出来ても、どれも自分からぶっ壊しているようじゃ、結婚なんて無理無理・・・」
と、泰久はスマホから目は上げないまま、兄のことを茶化す。
「あら?そうなの?」
京子は驚いた顔を見せた。純ひとすじなのかと心配していたけれど。そこは健康な男子なのだから当たり前って言えば、当たり前なのだ。付き合った女性がいてもおかしくはない。でも、やっぱり自分から『ぶっ壊して』いるとは・・・。うっかりため息が出てしまう。
「母さん、兄貴のヤツ、ああ見えて、けっこう女にモテるんだぜ。俺ほどではないけどね。でも長続きしないんだな、これが・・・」
「なんでそんなこと・・・誰からそんな話、聞いてんだよ」
「翔さんとか、渡とか?その界隈では有名な話」
「そうなの・・・」
京子が苦笑いすると同時に、
「ごちそうさま」
と、貴久は席を立った。
「貴久。どこかケガでもしたの?」
京子が貴久を呼び止めた。
「え?」
「湿布のにおいがする・・・」
「あ・・・ああ。ちょっと・・・腕をぶつけて・・・その・・・篠田さんに湿布をもらったんだ」
「篠田さんって、今日の、あのお嬢さん?」
「うん」
「だいじょうぶなの?」
「たいしたことないよ」
「気を付けなさい」
と」、父親からも注意が飛ぶ。
「ああ。でも、全然大したことないから」
これ以上突っ込まれないように、貴久は二階の自分の部屋に逃げることにした。
荷物を持って階段をそそくさと上がり始めると、
「早目にお風呂に入ってよ」
と、母親の言葉が背後から聞こえてきた。
階段を上りきると、純が住んでいた一番西側の部屋のドアが見える。
その前を通り過ぎて三つ並んだ一番奥の東側の部屋が貴久のものだ。
着ていたスーツを綿パンとパーカーに着替えると、純の部屋の前に戻った。
ドアを開くと、ベッドと本棚だけの部屋。
本棚の前に立つ。
本棚には何も載っていないし、ベッドも本体だけで、がらんとしている。
もう、十年も空き部屋だったのに、今日も純がここへ帰って来そうな気がしてしまう自分。
そんな自分にあきれ果て、薄笑いが浮かんだ。
と、綿パンの尻のポケットに入れていたスマホが鳴った。
登録したばかりの『篠田美香』の文字。
あわててメッセージを開く。
《夜分にすみません。あの人が、戻ってきたみたいで・・・ドアの外にいるみたいなんです》
恐れていたことが現実になってしまった。
《ドア、絶対に開けないでください。絶対に開けちゃいけません》
《はい。すみません。金松さんにご相談するのは、違うって充分分かっているのですが、誰にも言えなくて・・・》
《そんなことはいいです。それより警察に通報した方がいいんじゃないでしょうか?》
しばらくの間が空いて、警察に通報したのかと思った瞬間、
《出来れば、通報はしたくないです》
と、返って来た。
それはそうかもしれない。元夫だった人を警察に通報するのは、よほどのことだ。
暴力でも振るわれたならともかく・・・。
「あ・・・」
と、声をあげてしまった。
『・・・俺には殴りかかったな。もしかして、彼女にもそんなことをしたことがあるかもしれない・・・』
貴久はいたたまれなくなって、思わず《今、そちらに向かいます》と、返信して自室に戻ると、外出の支度をして階段を下りた。
京子が茶の間を片付けているところだった。
「どうしたの?」
ジャンパーを羽織った貴久の姿を見て問いかける。
「ちょっと、出かけて来る」
茶の間のテレビ脇の小引き出しから車のカギを取り出す。
「今から?どこへ?」
それには答えないまま、家を飛びだし、玄関脇の駐車場に停めてある京子の車に乗り込んだ。