待ち伏せの男
美香が診察を終えて、診察室から出て来た。
ハイヒールなのに杖をつくという、妙な恰好だ。
「どうでした?」
貴久が美香のそばに駆け寄った。
「軽い捻挫だそうです」
美香は診察室の前の長椅子に腰かけながら顔をしかめた。
「こんなに腫れているのに、軽い・・・ですか」
医者の言葉に、貴久は不満を感じる。
「こんなこと初めてだから、わからないんですけど、軽いほうみたいですよ」
美香は何かを諦めたように、落ち着いた声だ。
正装している自分たちの姿を、他の患者たちがチラチラ見ながら通り過ぎて行く。
貴久は、美香の腫れた右足首に目を落とした。
美香はそんな貴久の目を気にしたのか、そっとワンピースの裾の影へと足を引く。
女性の足をまじまじと見るなんて失礼だったかと、貴久は顔を上げた。
暫らくそのまま黙り込んで待っていると、会計が出来たとの知らせがあり、貴久も美香と共に窓口に立った。
処方箋が出ていて、痛み止めの飲み薬と湿布の名前が載っていた。
薬局は病院の隣にあるということで、病院を後にして薬局へ向かう。
杖をつきながら歩くのは辛そうで、自分が薬を取って来ましょうと、美香に病院で待っているように言ったのに、彼女は『自分のことだから』と言って、けっして『うん』と言わなかった。
薬局でもしばらく待たされ、薬を手に出来たのは四時を回ったころだった。
「本当にありがとうございました。もう大丈夫ですから、会場の方へ行ってください」
美香が頭を下げる。
「この時間だと、もう披露宴は終わっているでしょう。家まで送って行きますよ」
貴久は薬の入ったレジ袋を美香から取り上げた。
「二次会とか、まだあるかもしれないじゃないですか」
「そうかもしれないけど、ここで篠田さんを放って帰ったら、純にうんと怒られます」
貴久が真面目な顔で言ったものだから、美香がクスッと笑った。
「金松さん、純ちゃんのこと、大好きなんですね」
「え?」
貴久の表情が固まる。
そんな顔を見て、美香は不思議そうな顔をした。
美香の言う『好き』の意味と、自分の純への想いには、距離があることに気が付き、貴久は固まった表情を緩める。
「純は俺にとって従妹というより、本当の妹みたいなもので・・・。あの、送りますよ、家まで。迷惑じゃなければ」
「迷惑だなんて・・・。ほんとに迷惑をかけたのは、私の方ですから」
美香はまた、すまなそうな顔になった。
タクシーを呼び、二人で美香が住んでいるというアパートへ向かう。
冬の夕闇が落ちてきていた。
美香の住むアパートは、偶然にも貴久の家から二駅しか違わないところにあった。
「この辺、来たことがありますよ。ずっと前だけど」
「そうですか」
タクシーのお金も、美香は自分が払うと言ってきかない。
タクシーを降りて、
坂道の途中にあるアパートの前に立った。
新しそうなアパートの外観を、街灯が照らし出す。
「ここって、駅までけっこう時間かかりませんか?」
「そうね。十五分くらいかな。でも、これくらいなら、それほど遠いってわけじゃありませんよ」
月曜からの通勤に、痛む足を引いて杖をついて・・・。
『普通に歩いて坂道の十五分は、その足では厳しいのじゃないかな』
そう貴久が言おうとしたとき、アパートの外階段を荒々しく音を立てて駆け下りてくる男の黒い影。
美香の口が『あっ』と言う形に開く。恐怖を含んで見開く目。
貴久は理由も分からぬまま、咄嗟に美香をその影からかばう態勢になった。
「美香。何なんだ、その男・・・」
男の怒鳴り声の怒気に異様なものを感じる。
貴久は思わず美香の杖を持つ手に、自分の右手を伸ばし、握りしめた。
「何で貴方がここにいるの?何でここが分かったの?」
かすかに震えて掠れた美香の声。
「やっとわかったんだ、ここが・・・。やっぱり他に男がいたんだな。だから・・・」
青黒く見える男の顔が、嫉妬と怒りでいっぱいなのが分かる。
男のわめく声に、人々が遠巻きにして行き過ぎる。家の窓から覗き見ている人もいる。
「この人は何にも関係ないから、迷惑かけないで。金松さん、もうここで大丈夫ですから、帰ってください」
美香は杖を掴む手から、貴久の手を振りほどくように離すと、一歩、歩き出そうとした。
そこに、男が向かって来る。
貴久は、美香の左腕を引っ張り、自分の右胸に抱き入れた。
一瞬のことで、美香は貴久の胸に縋りつく形になっている。
「おまえ、なにするんだぁ!」
男が大声をあげ、貴久に向かって拳を振り上げた。
「やめて!」
美香が叫ぶのと同時に、ゴツッという鈍い音が響く。
貴久の左腕が、男の拳を受け止めていた。
左腕がジンジンし痺れてくる。
「警察、呼びますよ」
貴久は吹き出す怒りを抑え、冷静を装って男にささやくように言った。
「もう、誰かが呼んでいるかもしれないわ」
美香が青白い顔で、貴久に守られながら言った。
「うるさいっ!」
男は悔しさのあまり、目を真っ赤にして怒鳴る。
「なんていうことをするの?もう、帰ってよ。もう会わない約束でしょ?会わないって約束したじゃないの。帰らないと本当に警察を呼ぶ・・・」
美香は涙を流して言葉を詰まらせた。
そして、杖を捨てると、震える手でパーティバックを開ける。
スマホを取り出した。
「美香。本当に警察を呼ぶ気なのか?」
男はあとずさりしながら、意外そうな顔をする。
「ええ、本当に警察を呼ぶわよ。私は貴方に会いたくなかった。もう二度と会うつもりなんか無いんだから」
美香が泣きながら、スマホに耳を付けた。
「警察を呼んだら、お前もただでは済まないぞ・・・」
男は言い捨てると、アパートの前から駈け去って行った。
貴久は美香を抱いたまま、男が視界から消えるのを待った。
美香は、スマホを握りしめた両手の甲で顔を覆って、涙を流し続ける。
嗚咽の声が、きつく結んだ唇の隙間から漏れていた。
「もう、大丈夫ですよ」
貴久は美香を抱く腕を少し緩めた。
「ごめんなさい。こんなこと・・・なって・・・」
美香が、うなだれる。
「いいんですよ。それより、何号室?」
通りすがりの人々の視線に、彼女をいつまでも晒しておきたくなかった。
「二階の二〇三号室です」
貴久は杖を拾い、美香に手渡した。
男が先ほど駆け下りて来た階段を二人で上がった。
階段からは一番奥のドアの鍵を美香が空ける。
「どうそ・・・」
美香が招いてくれた。
「いや、僕はこれで・・・」
いろんなことがあったけれど、初対面の女性の部屋にのこのこ入るのは、冷静に考えれば相当におかしいことだ。貴久の神経はそこまで図太くはない。
「だって、金松さんの腕、大丈夫なんですか?」
ドアノブを握っていた手を離し、美香が貴久の左腕に触った。
「痛っ」
思わず声が出てしまった。
「やっぱり・・・」
美香が貴久の顔を見上げる。涙で化粧が崩れている。
結局、貴久はその泣き顔に胸の奥をを掴まれたみたいに、なしくずしに美香の部屋に入ってしまった。
玄関から入ってすぐにある、狭いダイニングキッチンには、ちいさな四角いテーブルとイスが一つだけあった。
「どうぞ、掛けて」
美香が椅子を引くと、思わずよろめいた。
貴久が、あわててそれを支える。
「篠田さんこと、座ってください」
椅子を引き寄せて、美香を座らせた。
「そっちの部屋に、もう一つ椅子があるんです。それを使ってください」
ダイニングキッチンの向こうの部屋が寝室らしい。
引き戸が開けっ放しになっていて、ダイニングからの灯りで照らされ、部屋の中がほのかに見えている。
ベッドは無くて、きちんと畳まれた淡いグリーンの布団が、窓際の隅に押し付けるように置いてある。
女性の寝室ということで、貴久は躊躇したが、こういうときは変に意識せず入ったほうが良いのだろうと、「失礼します」と、ひとこと言って入って行った。
壁際にベージュのカバーが掛かった電子ピアノがあって、椅子はその前にあった。
ピアノの脇に、化粧品の並んだ低い棚。それだけが女性の部屋であることを主張している。
どちらかというと、殺風景に近い部屋。
何も見なかったふりで、貴久は椅子を運び出し、美香のそばに戻った。
美香は、さっき薬局で買った湿布をテーブルに広げ、貴久にコートや上着を脱ぐように言った。
白いワイシャツを腕まくりすると、貴久の左腕の肘下が腫れている。このままだと、たぶん青いアザになるだろう。
「私のせいで・・・なんてお詫びしたらいいか・・・」
美香がまた、涙を見せる。
「平気ですから。大丈夫」
美香の手当てを受けながら、貴久は彼女を慰める言葉を探した。
「それより、篠田さんの足の方が心配です」
貴久は美香の足に目を落とす。
美香も自分の右足を見た。
「あっ・・・」
声を出したのは、貴久の方だった。
「ひどい・・・こんなに紫になっちゃったじゃないですか・・・どこが軽い捻挫なんだ。こんなにひどくて。すぐ湿布を貼ってください」
「あとで、ちゃんと貼りますよ」
「あとじゃなくて、今すぐ貼らなきゃ」
「だって、ストッキングの上から貼るわけにはいかないでしょう?」
美香は、涙をつけたままの顔で微笑んだ。一瞬、左頬にえくぼが出来る。
そのえくぼに、貴久の心が緩む。
「あ、そりゃそうですよね。そうですよね」
ストッキングを脱ぐという行為をチラッと想像して、貴久は羞恥を覚えた。
そんな貴久の慌てぶりに、美香も涙を拭いながらえくぼを見せる。
貴久がキッチンでお湯を沸かすと、美香が紅茶をいれてくれた。
狭いテーブルに二人並んで座って紅茶をすするころには、美香の気分も落ちついて来たようだ。
「あの・・・そろそろ帰ろうと思うんですけど・・・」
「お引きとめしたりして、すみません」
美香が頭をさげた。
「いえ・・・。それより、大丈夫ですか?一人で・・・その・・・あの人・・・」
美香がうつむく。
「初対面の方なのに、こんなことに巻き込んでしまって・・・ケガまでさせてしまって。なんか勘違いしたみたいで」
貴久はずっと気になっていたことを口にした。
「篠田さんの彼氏・・・だった・・・人?・・・いや、言いたくなければ言わなくっていいんですよ。俺なんかに言うことでもないし」
美香はうつむいたままだ。悪いことを聞いてしまったと、貴久は後悔する。
空白の時間が流れる。
椅子の背に掛けた貴久のコートの中で、スマホが振動を始めた。
慌ててコートのポケットに手を突っ込み、スマホを取り出す。
純からだった。
「もしもし」
「美香先輩の様子はどう?」
「うん。捻挫だって。軽い捻挫」
軽いを強調する。
「今、どこ?まだ美香先輩と一緒?」
「今、篠田さんのアパートに送って来たところだから。篠田さんのことは心配ないよ。それより、純は敏とお腹の赤ちゃんのことだけ心配してろよ。今日ぐらいは、さ」
「うん・・・でも・・・」
美香が『電話を替わって』の仕草をする。
貴久はスマホを渡した。
「純ちゃん、私。うん大丈夫だから・・・。すっかり金松さんにお世話になっちゃって」
しばらく純とやり取りしていたが、美香がスマホを貴久に返した。
「貴兄さん、本当にありがとう」
「いいから楽しんでおいで、旅行」
「うん、ありがとう」
「じゃ、身体に注意してな」
「うん」
純への想いを諦めた寂したが押し寄せた。通話が切れ、現実に戻る。
「あの・・・純ちゃんには、このこと、言わないで下さいね。心配させたくないんです」
「あの男の人のことですね?」
「ええ」
「わかりました。誰にも言いませんよ」
美香を安心させるように、貴久は切れ長の目を細めて見せた。
ふいに、美香は化粧の崩れたままの顔を伏せると、膝にのせた両手を握りしめる。
「あの人は・・・私の夫だったんです・・・」
「え?夫?・・・だった・・・って」
貴久はなぜだか、心の奥底に苦いものを感じた。
「あの、実は。籍は入ってなかったんです。結婚式だけして。結婚式をするころには、もう、ちょっと関係がおかしくなっていて・・・。それで・・・」
うつむいている美香の長い黒髪が小刻みに揺れるのを、貴久はぼんやり見つめる。
『籍が入っていなかった』
貴久は何か安心してしまう。
「なんで、関係がまずくなっているのに、結婚式なんかしたんです?」
「家族になかなか言い出せなくて。あちらの御両親もすごく喜んでくださって。良くしてくださってたし。結婚式の準備がどんどん進んで行って・・・。私が我慢すれば、結婚すれば、あの人が変わってくれるんじゃないかとも思ったし」
うなだれる美香を、どう慰めればよいのか、貴久は言葉を探す。
「わかりました。もう思い出すのはやめましょう。すくなくとも、今日はやめましょう」
「ええ」
「疲れたでしょう?色んなことがあったから」
貴久は、キッチンの窓に映る闇に目を向けた。
「金松さんこそ。純ちゃんの披露宴にも出られなくて。私のことなんかで、ケガまでされて」
「いいんですよ。それより、本当に一人で大丈夫ですか?」
「え、ええ。大丈夫です」
美香は顔をあげて、気丈さを見せようとした。
貴久はコートの内ポケットを探り、手帳を取り出す。
紙を一枚破いて、メッセージのIDと電話番号をメモして、美香に手渡した。
「もし、何かあったら、すぐに連絡してください。それと、月曜日は出勤でしょ?イヤじゃなかったら、俺、会社まで車で送って行きますよ。その足じゃ、この坂道十五分はキツい」
美香は、戸惑いを隠しきれないようだったが、貴久の親切にえくぼを見せた。
「ありがとうございます。もしもの時には、お世話になりますね」
心配は尽きないけれど、貴久は美香のアパートを後にした。
万が一、美香の『元夫』に襲われることも考慮に入れて、出来るだけ明るい道を歩いたが、それらしい姿はなかった。美香を思って、少し安心する。
しかし、十五分歩いてみて、今の美香には坂道が含まれる駅までの道は無理があるだろうと実感した。
電車に乗ってすぐに、美香からの友達申請があり、そのあと丁寧なお礼の文章が綴られて来た。