欠けたネイル
「本当にすみません」
美香は待合室で何度目かの頭を下げる。
病院は開いていたけれど、ちょうど昼休みで、診察は午後二時からしか始まらない。
まだ十二時を少し回ったばかりだ。
待合室には他に一人も患者がいなくて、正装にコートを羽織った二人はいかにも急患だ。
「別に構いません。それに、俺、純の従兄なんです。こういうときは役に立たなきゃ」
美香は目を見開いた。
「あ、もしかして、純ちゃんの従兄って、純ちゃんがいつも話していた・・・昔、一緒に住んでいたっていう従兄弟の方?」
「金松貴久って言います。兄のほう」
「私、純ちゃんの大学の一個上の篠田美香です。純ちゃんとサークルが一緒だったんです」
美香が笑顔をみせた。左頬にえくぼを見せる。
貴久は並んで座っていても、そのえくぼに目が行く。
「じゃ、僕と同い年かな?純と同じ大学って、やっぱり建築関係?」
「私、たぶん金松さんより一つ年上。一浪してるから。私は栄養関係の学科だったんです」
それからは、お互いの仕事の話しになった。
美香は管理栄養士の資格を持ち、食品会社で栄養関係の研究をしていたけれど、いまは食品製造の会社で営業をしていること。
貴久は今は通信関連機器のメーカーに勤めているけれど、ゆくゆくは父親の経営する会社を継ぐつもりでいること。
美香のえくぼが見たくなって、横を向いた。
美香の白くなめらかな頬に、今はえくぼは無い。
「純ちゃん、ほんとに良かったですね。やっと村上君のプポーズを受けることが出来て。それに赤ちゃんまで・・・」
「ええ、まあ・・・そうですね」
貴久の微妙な返事に、今度は美香が振り向いて貴久の顔を見る。
「あ、あの。ほんと良かったです。あ・・・その・・・純はすごく悩んでいたみたいだから。敏の人生が、自分のせいで変わっちゃったんじゃないかって・・・だから・・・」
取り繕って出て来たのは、この前、母の京子から聞いた言葉。
「そうね。そうですよね。誰かと出会って、人生が変わる・・・そうですよね。でも良い方にかわるなら、すごく良いことですよね・・・」
貴久には、美香の言葉に、何か一抹の寂しさのようなものを感じた。
どこか空虚な雰囲気が二人の間に流れ、急にお互いとも無口になった。
「おなか空いたでしょう?」
貴久が気を取り直して、黙ってしまった美香に問いかけた。
「本当にごめんなさい」
美香がもう何度目ともわからない言葉を口にする。
「本当だったら、今ごろ楽しくお食事していたはずなのに、私のせいで・・・」
コートを着ていても小さく見える肩を落としている。
「いいんですよ。披露宴会場のレストランって、友達の親が経営しているフレンチで、行こうと思えばいつでも行けるんだし」
貴久は切れ長の目を細めて笑いかけた。
「だって、そういうことでは・・・」
美香が言いかけたのを、
「いいんですってば」
と、ふさぐように言った。
「コンビニででも何か買って来ますよ。待っていてください」
貴久はそう言うと、待合室を出た。
病院のすぐ近くにコーヒーショップのチェーン店があり、そこでサンドウィッチと熱いコーヒーを買った。
病院に戻って来ると、美香が痛めた足首を撫でている。
「痛いですか?」
貴久の声に、美香はびくっとして撫でていた手を引っ込めた。
「ちょっと腫れて来たみたいで」
「早く診察してもらえるといですね」
「ええ」
「サンドウィッチ、買って来たから食べましょう」
美香は綺麗なピンクのネイルが施された指で、貴久が差し出したサンドウィッチを摘まんだ。
しかし、よく見ると左手の薬指のネイルが欠けてしまっている。
「指、ケガしてませんか?」
貴久が心配になって聞く。
美香は膝の上にサンドウィッチを置くと、指輪ひとつもしてない手をかざし、
「ネイルが剥がれちゃったけど、ケガはしてません。大丈夫です」
と、欠けたネイルの跡を右手の中指で抑えるような仕草をした。
「食べましょうか・・・」
貴久がコーヒーを差し出し、美香がその手で受け取る。
一瞬、ほんの少し指と指が触れ合った。
黙ってサンドウィッチを頬張り、温かなコーヒーを飲む。
お腹が満たされると、こんな状況にもかかわらず、穏やかな気持ちになった。
しばらくすると、ちらほら患者がやって来て、診察が始まる時間が近づいた。