悲しい恋心
十一月も半ば過ぎ。
貴久が会社から帰宅すると、母の京子がニコニコしながら玄関に出て来た。
「おかえり」
普段は、母親が玄関まで迎えに出てくるのは、父の久の帰宅の時だけだから、何かがあったらしい。
「どうしたの?何かあった?」
そう言いながら茶の間のソファに鞄を置き、ネクタイを外すと、洗面所で手を洗ってダイニングのテーブルに着いた。
待ちきれない様子の京子。
「あのね。純ちゃん、やっと村上君とお式をするんですって」
「ぐぇ?」
貴久の喉から変な声が出てしまった。
「何それ?あはは・・・」
ちらっと貴久の顔を見て、京子は笑い声をあげた。
「何で、今更?もう結婚式なんて、どうでもよくねぇ?」
貴久が投げやりな言葉を放つ。
やっぱりまだ、純のことを完全に諦めてはいなかったのだ、と京子は感じてしまう。
「敏のヤツ、もう、ほとんど純のマンションに入りびたりだしさ、籍を入れれば、それでいいんじゃねーの?」
貴久は、不機嫌そうに言い捨てた。
京子は夕食の用意をしてやりながら、我が子の悲しい恋心をなだめるように、言葉を選ぶ。
「純ちゃん、ずっと悩んでいたのよ。村上君が受験の時、建築関係の学部を選んだことも。就職の時も・・・。
自分のせいで、村上君の人生を変えちゃったんじゃないかって・・・。
結婚も、ね。純ちゃんと結婚するってことは、勝叔父さんの会社を継ぐってことでしょ?。
悩んでいたのよ。なかなか結婚に踏み切れなかったのは、そういうことなんだから」
貴久は、そういう大事なことを、自分ではなく、母に相談していたことに少なからずショックを受けてしまう。恋愛対象としては無理だとしても、もっと近い存在として純のそばにいたつもりだったから。
「・・・で、いつ、結婚式?」
母親の料理に目を落としたまま、貴久が聞いた。
「それがね・・・三週間後の土曜日」
「えっ?何それ?」
びっくりし過ぎて、貴久は箸を取り落としそうになった。
「お休み、取れる?」
「あ、ああ・・・。あ、今、予定見てみるけどさ、っていうか、入ってたって、こっちを優先するよ」
あわあわしながら、茶の間に戻り、鞄を開けて手帳を広げる。
「う、うん、大丈夫。とりあえず休みにはなってる」
「あぁ、よかった。泰久も来れるって言ってたから」
弟の泰久は今は家を離れ、会社の寮に住んでいる。
「ご飯食べちゃってよ」
そう言われたけれど、貴久はもう、食事どころではなくなった。
「もう、飯はいいや。純と連絡取ってみるよ。とりあえず、翔とか渡とかにも連絡してさ・・・。
憲人は、たぶん無理だとは思うけど。くそ。なんだってこんなに急なんだよ」
ブツブツ文句を言いながら、二階への階段を上がって行った。
二階の東西に並んだ三部屋のうち、東側の自分の部屋以外は空き部屋だ。
自分のベッドに鞄を放り投げ、スーツをジャージに着替えると、携帯を持って自室を出た。
西側の、今はベッドしか無い部屋を開けて、灯りを点けた。
かすかに純の匂いがするような気がする。
純が家を出てからすでに十年は過ぎているのだ。そんなはずはないのに。
純と一緒に暮せなくなったのは、自分の恋心のせいでもあったのに。
ふふっと自棄な笑いが出てしまう。
と、携帯が鳴った。
画面に『純』の文字。
「もしもし」
「貴兄さん・・・あの、聞いた?」
どんな時でも、こんな時ですら、純の声を甘く感じてしまうのは、もう今更どうしようもない。
「うん、聞いた・・・おめでとう」
ちょっと苦しい『おめでとう』には、なってしまったけれど、ちゃんと言えた。
「あのね。わたし、貴兄さんにすごく感謝してる。ありがとう」
「なんだよ。急に」
「敏君とお付き合いする、一番最初のきっかけは、貴兄さんの言葉だったから・・・」
「え?俺、何か言った?」
「うん。言ってくれたのよ。『敏はいいヤツだから、何かあったら相談しろ』って」
「そんなこと言ったかな?」
本当に、そんなことを自分で言ったのだろうか・・・。貴久の記憶には全く無い。
「あのころ、友達らしい友達って言ったら、音楽教室の仲間くらいしかいなくて。高校に入っても、なかなか友達が出来なくて。でも、貴兄さんの言葉があったから、敏君を信じることが出来て、仲良くなれたんだと思ってる。ありがとう」
純の言葉に、貴久は微笑んだ。少し複雑な気持ちだけれど。
「これから、翔とか渡たちにも電話しようと思っているんだけど」
気を取り直して、純に聞いてみる。
「翔君の小母様にウェディングドレスをお願いしたから、翔君には、もう伝わっていると思うよ」
「そっか、まあ、とにかく電話入れてみるよ」
「じゃぁ」
電話を切りそうになって、大事なことを思い出した。
「あーっと。結婚式ってどこでやるのか、何時からなのか、全然、俺、知らない。聞いたのは、日にちだけなんだけど」
純は笑って、場所と時間を貴久に教えた。
そして、細かいことは後でメールなり招待状なりを、急ぎ送ることになっていると純は伝えた。
昔、純が寝ていたベッドに腰かけて、貴久は翔に電話を掛けた。
翔の第一声は、
「お、来たな」
だった。
「やっぱ、知ってたか」
「今日、純がお袋の店に来たって。ウェディングドレス頼んで行ったって、お袋がすぐに電話くれてさ・・・。そんで、お前、大丈夫なのか?」
「大丈夫って何が?」
貴久は、翔が何を言いたいのか充分承知しながらも、素知らぬふりをした。
「ん、そうか。まあ、快く嫁に出してやれよ」
翔は勝手に納得して、可笑しなセリフを言う。
「ふん。お前に言われたくねーよ」
翔だって、ずっと純を見つめて来た一人だ。今は付き合っている女性がいるけれど。
その後は、なんだかんだ話して、渡へ電話を掛けた。
渡は全く知らなかったらしく、
「へー!へー!へー!」
と、素っ頓狂な声を出した。・
「渡は結婚式に出席出来る?」
「しますよ。しなきゃ、でしょ?」
「憲人は来れるかな・・・」
「う~ん。とりあえず、僕から連絡してはみますけど」
憲人はアメリカの音楽大学に留学した後、現地のオーケストラで活躍している。
『来て』と言ってすぐに来られる状況にもないし、第一、高校時代も公然と村上敏と、純を巡って恋愛バトルを繰り広げて敏に負けたくらいだから、すんなり出席するとは思えない。
「貴さん。貴さんは・・・その・・・。大丈夫なんですか?もう」
「何が?」
「いや、その・・・」
渡が翔と同じことを心配しているのは分かっていた。
「バカだな。俺と純は従兄妹だぜ。一緒に暮していたから妹みたいなもんだよ。分かっているだろ?」
そう、口では言っているのに、ふっと涙が落ちそうになる。
一瞬の沈黙。
「あ、とにかく、憲人に連絡しますね」
渡が沈黙を破った。
渡の明るい声に貴久は少し救われた気がした。