鉄鼠<6>
江戸時代、後の世に享保の大飢饉と呼ばれる冷夏の年だったと、ネズミは記憶している。
天候不順が始まったのは、年が明けてすぐだった。
春になってもなかなか気温が上がらず、しかも、梅雨入りが早かった。
降り止むことのない長雨だ。
夏になっても曇り空が続き、いつまでも梅雨が続いているようだった。
当然ながら実りの秋になっても収穫はほとんどなかった。
ネズミにさえ食べる作物がなくなり、その二年間は苦しい毎日でよく覚えていると言う。
特にひどい状況は、西日本だったが、この紀伊半島も全域で不作だった。
餓死する人が増え、村全体が滅んでしまった所もあった。
そんな大飢饉をなんとか抜け出した三年目の夏、
今年は豊作に違いないと人々は収穫の時期を待ち望んでいた。
大不作の二年間で、この祠の千手観音へ来る人は途絶え、祠は荒れ放題になってきつつあった。
それを多我丸が小さい身体に鞭打って、何とか維持しようとしていた。
そんなある朝、ネズミは、どこからともなく飛んで来た光の玉を見た。
それは神々しく、慈悲に満ちた光だった。
そして、その光の玉は、祠の千手観音の石仏へと消えた。
暫くして、ひとりの妙齢の美女が祠にやって来た。
こんな大飢饉の真っ最中に、煌びやかな身なりで、
しかも穀物やお米などのお供え物を、持てるだけ持ってやって来たのだ。
ネズミは、観音様の化身が来て施してくれたのだと思った。
その朝は、水を汲みに行って、多我丸は祠にいなかった。
その美女は、お供え物を綺麗に整え、暫くは祠の前で佇んでいたが、そのまま帰って行った。
ネズミは、そのお供え物の一部を頂き、何百日振りかの満腹を味わったと言う。
返ってきた多我丸が、そのお供え物はどうしたのかと、ネズミに聞いた。
ネズミが、観音様の化身、妙齢の美女の話をすると、
『それは観音様ではない!』と、多我丸はネズミを叱ったと言う。
しかし、ネズミは、こんな飢餓の時にあれ程のお供え物を持ってくる人間は、
この辺りにいないはずだ、観音様の化身に違いないと考えた。
そして数日後の朝、光の玉が再び現れた。
その時もまた、以前と同じように美女が祠にやって来た。
ネズミは、多我丸に、
『ほら、今日もお供え物を持って来てくれたぜぃ。観音様の化身だぜ』と言った。
多我丸は、じぃぃっとその女性を見ていたが、突然その場を逃げるように去った。
それに気付いた女は、多我丸の後を追って行った。
それ以来、多我丸の姿も、観音様の化身の姿も見ていないとネズミは言った。
「俺も、多我丸も、この祠と千手観音を大事にして世話をしていたからさ、
きっと観音様が会いに来てくれたんだぜぃ。
多我丸は、千手観音に救われたものだから、会うのが恥ずかしくて、
畏れ多くて逃げ出したんだぜ、きっと。
しかし、不思議な話だろぅ、観音様が食べ物を持って来てくれたんだからさぁ…、
あんな大飢饉の最中にだぜぃ。こんな有り難い話はないぜ」
「ふむふむ…」
四人の式神は、黙ってネズミの話を聞いていた。
しかし、誰もその美女が観音の化身だとは思わなかった。
一通りの話がすんで、琥珀がネズミに聞く。
「その美女は、初めて見る顔だった?」
「そりゃそうだぜぃ。あんな美人は昔も今も、見たことがないぜ」
「おまえは、妖怪鉄鼠だ。他の妖怪の妖気は感じるか?」
天空が聞いた。
「おおっ、天空!俺を馬鹿にするのかぁ。妖気ぐらい感じるぜぃ」
「その女、妖気はなかったか?」
「何っ!妖怪だったと言うのか…?」
ネズミは、びっくりしたように、天空を見た。
「ありゃあ、観音様だ!妖気は感じなかったぜぃ」
「そうか…」
それでも四人の式神は、その女が観音様だとは思えなかった。
「そもそも、不可思議で、得体のしれない美人が現れた時は、たいてい妖怪だが…」
「そんなことはないぜ。絶対に観音様だ」
ネズミは、信じ切っている様子だ。
「その…、おまえが見た光る玉ですが、それは、おまえが言う観音様が送り込んだ光なのですか?」
大裳も聞いた。
「うううん…、それはよく分からないぜ。その光の玉と観音様が関係あるのかどうか…。
兎に角、そんなことがあったんだ、多我丸がいなくなる前にな」
琥珀は、磯女の話をネズミにした。
「磯女も妖艶な美女だった。それに、光る玉も現れたし…」
「俺も、磯女は知ってるぜぃ。だが、あの時の美女は違う」
「ほぉおお、磯女を知っているのか?」
天空が聞いた。
「知ってるよ!俺達、鉄鼠は、いたる所にいるネズミの妖怪だぜぃ。
凄い情報網を持っているんだからな。
その鉄鼠の大将が俺なんだぜぃ。
だから、ちょっとネズミ達に尋ねれば、何だって分かるんだ」
琥珀をはじめ、四人の式神は、この鉄鼠という妖怪は、本当のことを言っているようだと思い始めた。
鉄鼠には邪悪な気を感じないのだ。
琥珀が、ネズミに言った。
「分かった。おまえの言うことは、嘘がないと信じるけど…」
「おおっ、おまえ達に嘘なんかついても仕方がないからな、嘘はついていないぜぃ」
「そうだね。ところで…、ネズミ、なぜ式神十二天将のことを知っているの?」
「ううぅん??おまえ達は、俺達が見ていたのに気付いていないのかぃ?」
「何を?」
天空と天后が、声を揃えて聞いた。
「さっきも言ったけど、俺達は、どこにでもいるネズミの妖怪だぜぃ。
あんなに強い陰陽師、安倍晴明の式神は、どっかで、ネズミに見られているんだ。
だから十二天将のことは、いつかは、俺の耳には入ってくるって寸法だぜぃ。
俺がおまえ等に会ったのは、今が初めてだけどな」
「ほおお、凄い情報網だ!」
「へへっ、妖力は弱いけど、俺達、鉄鼠が集まると厄介だぜぃ」
「成る程、そのようだ」
四人の式神が、感心した。
丁度その時、祠の石の隙間から別のネズミが顔を出した。
四人の式神を警戒していたが、妖怪鉄鼠が手招きをした。
ネズミ達は、チュチュチュッと話をしていたが、用が終わると別のネズミは石の隙間へ姿を隠した。
鉄鼠のネズミは、琥珀達に向き直ると言った。
「阿修羅…、あっ、多我丸だ。多我丸の居所が分かったぜぃ。行くか?」




