鉄鼠<1>
南紀に美しい浜がある。熊野古道伊勢路を伊勢方面から下ると大台山系の松本峠がある。
その峠を越えると、眼下に太平洋熊野灘に面した白砂青松の美しい浜が見える。
弓状に湾曲したこの長い浜は、七里御浜と呼ばれる景勝地だ。
その七里御浜の北端に鬼ケ城という小高い岩山がある。
岩山の岸壁は、熊野灘の荒波にうたれ、奇岩、巨岩が並ぶ。
その鬼ケ城の入り組んだ奇岩の上から、海を覗き込む三人がいた。
剣を持ち、今にも海に飛び込みそうに身を乗り出す、猿顔の青年、名を天空という。
いかにも御人好し風の中年の男性、大裳は、岸壁から一歩下がって慎重に海を覗く。
褐色の長い髪、褐色の肌、手には木の杖を持った娘、琥珀は、海に身を乗り出して何かを叫んでいる。
これらの者は、陰陽師、安倍晴茂の式神だ。
「天后ぉぉー」
琥珀は、海に向かって叫ぶ。しかし、何の返答もない。
天后が探っていた異界が、たった今、その出入口だった大岩もろとも消滅したのだ。
琥珀は、なぜ天后を異界に残してきたのかと自分を責めた。
「天后ぉぉー」
海に向かって琥珀の叫び声は続いた。
それを制したのは、一歩下がって冷静に周囲を観察していた大裳だった。
「琥珀、…少し…、静かにしてください」
大裳は、琥珀の肩に手を触れそう言って、耳を澄ませた。
「なに?」
琥珀が、大裳を見上げた。
「琥珀の叫び声が大き過ぎてはっきりとしませんが、…」
「何だ、大裳…?」
天空も、大裳を見上げた。
「いやっ、さっき妖怪アオジの…鳴き声が…」
「えっ!本当?」
琥珀は、そう言って目を閉じ気を集中する。天空も目を閉じ、天空剣を高く掲げた。
三人の式神が聞き耳をたてる。だが、波の音しか聞こえない。
「大裳、しっかり聞いたのか?」
天空が疑いの顔で大裳を見る。
「そんな気がしたのですが…、なにしろ、琥珀の叫び声と波の音が大きかったものですから…」
「そんなことだろうよ。聞き間違いだぜ。それより、天后を助ける方法を考えてくれ」
天空がそう言って、再び海を覗き込んだ時だった。
波の音に消されつつも、微かに『チチチチチ…』と鳴き声が聞こえた。
琥珀も天空も、お互いの顔を見合い、確かに聞こえたと確認し合った。
聞こえた鳴き声は妖怪アオジだ。
「大裳、どっちからだ?」
天空の問いに大裳は首を振る。
「海の方から聞こえた」
琥珀が天空に答えた。
「くそぉ、こんな時に厄介な妖怪が出るのかぁ」
天空は海に向かって身構えた。
妖怪アオジの鳴き声は邪悪な妖怪を引き出すかもしれないのだ。琥珀は妖気を探る。
今のところ、辺りに妖気はない。
その時、天空が海に異変を見つけた。
「おいっ、あれを見ろ!」
琥珀と大裳が、天空の指差す海を見た。
海から小さな泡がわき上がり、海面で弾け、靄のようにその辺りを覆い始めた。
わき上がる泡の勢いは徐々に大きくなる。まるで、その部分の海が沸騰しているようだ。
「何か、来る!」
琥珀と天空が、同時に声を出した。
ごぉぉーと海底から響くような音が聞こえた。琥珀と天空は、杖と剣で各々身構える。
地鳴りのような音が消え、泡も少なくなった、その時だ。
海の中から、白く太い六角形の柱が、ずぼっと飛び出してきた。
その柱の先端は尖っている。
丁度、琥珀がいる場所と同じ高さまで先端が飛び出した格好だ。
その太さは二十メートル以上あるだろう。巨大な六角柱だ。
その浮かび上がった柱の位置は、砕け散った異界への入り口の大岩があった場所だ。
垂直に上がってきた柱は、やや傾いて止まった。表面はぶつぶつと泡が弾けている。
「うっ…何だ、これは?」
天空が唸る。
琥珀が答える。
「妖気は感じない。危険はなさそう」
二人は、構えを解いた。海面が落ち着いてきた。
立ちこめていた靄の隙間から柱を見た大裳が言った。
「こっ…、これは…、氷の柱!…です」
こんな大きな氷の塊が、この温暖な南紀の海にある訳がない。
更に靄が薄れた。天空が、ぼそっと言う。
「確かに、…氷だ。氷だとすれば…、これは、天后」
天后は冬を司る天将だ。
冬の寒さを呼び、あらゆる物を冷気で一瞬に凍らせる技を持つ。
しかし、こんな大きな氷を造れるのだろうか。
「天后なの?…?
そうに違いない。天空、剣で氷を突いてみてよ」
琥珀の提案に、天空が答える。
「いや、待て、琥珀。まだ天后と決まった訳じゃない。
それに、天后の造った氷なら、俺の天空剣でも刃が立たない」
天后の氷柱で造る防御壁は、何者も壊せない鉄壁の強さだ。それは、琥珀も知っている。
もしこれが、天后の造った氷でなければ、どんな妖怪が潜んでいるかも分からない。
この氷の柱を壊すことは、危険を伴うことになる。
「天后は異界から脱出したのよ、きっと!あの氷は、異界の水で造ったのだわ。
だから、天空剣の魔力で壊れるはず」
「待てよ、琥珀。さっきアオジが鳴いただろ。
アオジが鳴く時は邪悪な妖怪が出るかもしれないんだぞ。暫く様子を見た方が…」
「なに言ってるの、天空!天后からの合図だよ、これは。
早く天后を異界から出してやらないと、死んじゃうよ。
悪い妖怪が出ようとも、わたしが戦うからっ!」
あまりにも強い琥珀の言葉に天空は頷くしかない。
「おお、そうだな。天后の合図か。よぉし、やってみるか」
天空は、剣を構えた。




