磯女<12>
みんなから離れた天后は、全身を触覚にして異界の中を探った。
しかし、大きな泡だ。行けども、行けども泡の端に到達しない。
それに、この泡の中は何もない均一な時空だ。
天空や大裳言うように、この異界には大地がない。
即ち、草木もなければ、起伏もない。ただただ、薄暗い空間があるだけだ。
天后は、ある一点で止まった。
『もしかして、同じ場所を回っているのかしら』と、天后は感じた。
きっと、このまま闇雲に泡の中を駆け巡っても埒が明かない。
暫く考えていた天后は、再びぶつぶつと呪文を唱えた。
天后の差し出した右手に水が集まってくる。
右手を振ると、集まった水は細かい飛沫となって撒き散らされた。
そこに天后の冬を司る能力が加わる。
「冷気よ、集まれ!」
水の飛沫が天后の冷気で凍る。キラキラと輝くダイヤモンド・ダストだ。
異界の水で造ったダイヤモンド・ダストだ。
天后は前に進みながらその動作を繰り返し、ダイヤモンド・ダストの範囲を広げてゆく。
こうすれば、同じ場所を回らないはずだ。
かなりの距離を進んだ時、天后の心に何かが響いた。
「何?」
妖気ではない。邪悪な気配もない。
だが、心が引かれる感覚だ。何かが天后の心を引き寄せようとしている。
天后は、身構えながら少しずつ進んだ。どっちの方向だろう。はっきりとしない。
振り返ると、ダイヤモンド・ダストから数十メートルは離れてしまっていた。
その時だ、そのダイヤモンド・ダストの際を何者かが横切った。
いや、横切ったように見えただけかもしれない。
それはあまりにも動きが速く、天后は幻を見たのかと思った。
天后は、その場所まで行ってみた。やはり幻だったのか。そこには何の痕跡もない。
天后は、ダイヤモンド・ダストのない方向に、再び目をやった。心に響く何かは、依然として感じる。
「あっ!」
天后は声を上げた。
と同時に、左の方向に全速力で移動した。
さっきの何者かが天后の視界を横切ったのだ。
動きは速いのだが、今回は幻ではないと思えた。
確かに何かが横切ったのだ。
既に視界から遠く離れているであろう何かを、天后は追った。
「うん?」
天后が追う方向に、銀色に光る筋が見えた。視界にやっと入るくらい先だ。
しかし、それも遙か遠くへ離れてしまった。天后はそこで止まった。
『無理だ…、追える速さではない』
周りを見渡してみた。天后の左側にダイヤモンド・ダストが見える。
視界を横切った何かを追って、ずいぶん移動したにもかかわらず、左手方向にダイヤモンド・ダストがある。
『これは…、ダイヤモンド・ダストの際をぐるぐる回っていただけ?』
そうなのだろうか。天后は、やはり幻覚を見ているのだろうか。
『それに…、あの遠くに見えた銀色の筋は…、琥珀の放った土蜘蛛の糸ではなかったか?』
もしかすると、天后を引き付けようとしているのは、琥珀の蜘蛛の糸かしらん。
天后は、頭の整理ができない。
銀色の筋が琥珀の蜘蛛の糸ならば…、
視界を横切ったのは蜘蛛の糸が追いかけている妖怪アオジなのだろうか。
アオジを追う蜘蛛の糸。その蜘蛛の糸を微かに天后は見たことになるのだ。
ふうぅぅ、天后はため息をついた。
もし、あれが蜘蛛の糸なら、この泡の異界に残って探索するのは琥珀の方が良かったことになる。
琥珀の残留が最善だったとはいえ、天后も重要な手がかりを見つけたことには変わらない。
さて、この異界、水中の泡からどのように脱出するのか、天后は改めて周りを見渡した。
みんなでこの異界に入ってきた入り口は、このダイヤモンド・ダストを突き切った反対側のはずだ。
まずは、そこに戻ろうと天后が身体の向きを変えた瞬間、遠くで強烈な光が見えた。
落雷か?雷のような…、轟がやや遅れて聞こえた。
「これは…、駄目だ、静電気の放電…」
天后の水術と冬の術で造ったダイヤモンド・ダストが仇となったのか。
泡の中の水分を集め、それを凍らせたダイヤモンド・ダストだが、
それが故に泡の中は高度に乾燥してしまった。
物の僅かな動きで静電気が起こる。
そして静電気は、乾燥しているために中和されずに蓄積し、何かの切っ掛けで一気に放電する。
猛スピードで動いた何者かが起こした静電気だろう。
遠くでごぉーと響く音が起こった。
いかんっ!泡が潰れている。
水中の泡が壊れれば、この異界は水の中へ呑み込まれる。
天后は焦って呪文を飛ばした。
そして、すぐその後、水中の泡でできた異界が周りの水に潰されてしまった。
泡の異界は、無数の小さな気泡となって水中に拡散した。
琥珀、天空、大裳は、鬼ケ城の海に突き出た大岩を凝視していた。
その大岩に開いた小さな穴が、異界への出入り口だ。
天后が異界から脱出する僅かな合図でも見逃さないぞと天空は剣を構えていた。
「しかし、遅い!天后は何をしているんだ」
琥珀は、海に突き出た大岩を見ながら、天后を異界に残したことを後悔していた。
あの時、全員で脱出すればよかった。いや、力ずくでも自分が残ればよかった。
そんな思いがぐるぐると頭を巡る。
琥珀が、ふうぅと大きくため息を吐いた時だ。
海の大岩に開いた小さな穴がピカッと光ると、眩しい閃光と共に大岩が粉々に砕け散った。
音のない爆発だ。閃光を放った大岩が、ただ砕けて海の中へ沈んでいった。
天空は剣で、琥珀は杖で、その強烈な閃光を防いだ。大裳は、天空の後ろで身を守った。
「なに?何が起こった?」
天空は岸壁から身を乗り出して、粉々になった岩が崩れ落ちた海を覗き込んだ。
「天后ぉぉ~!」
琥珀は、大声で呼んだ。
大岩を呑み込んだ大波が消えるまで、天空と琥珀はどこかに天后の合図がないか探した。
そして、暫しの時が流れ、大裳がぼそっと言った。
「異界が…、異界が、消滅した」
琥珀が、虚ろな目で大裳を振り返って見る。
天空は、天空剣を両手で構えながら、大裳の方を見た。
天空も琥珀も、異界が消滅したことを既に気付いていた。
しかし、それを口に出せないでいたのだ。
異界が消滅したなら、天后はどこに…。
三人は、再び岸壁の端から、打ち寄せる波飛沫が舞う海面を眺めた。




