磯女<4>
そろそろ天空や天后、朱雀が集まってくる頃だ。陽が山に隠れようとしている。串本町の海岸に戻ってみると、既に天空と朱雀が集まっていた。
朱雀はスズメとなって見知らぬ男性の肩に止まっている。
そうか、天后が化けた第四の被害者だ。さすがは仙術だ。化けたという気配がない。
人間の若い男そのものに成り切っている。琥珀と大裳が合流すると、天空が言った。
「さて、囮作戦の開始だな」
朱雀は高い松の木の上、天空は浜辺の北側、大裳は南側、そして琥珀は浜辺に並行する松並木の真ん中で待機した。
夜が更け、三日月が西に傾いている。天后が化けた若者は、ゆっくりと浜辺を歩いた。
何事も起らず小一時間が過ぎた。
その時、大台山系から吹き下りる木枯らしが、海に向かって吹いた。暖かかった空気が、一気に冷えた。
琥珀の髪が風に大きく靡いた。空が雲に覆われたのだろうか、三日月が見えない。浜辺には靄がかかり出した。
すると、北東の方角、夜空に青白く光る小さな点が現れた。何かが来る!琥珀は、身を低くし構えた。
若者に化けた天后もその光に気付いているが、気付かぬ様子で悠然と浜を歩いている。
その天后の背後、数百メートル手前に光は落ちた。いや、落ちたのではなく砂の中へ入って消えた。
その地点に一番近いのは天空だ。琥珀が天空を見ると、天空は松の木の陰に隠れ、微動だにしない。
気付かなかったのだろうか。そんなはずはない。天空程の式神が、気付かないはずはない。
天空は、今回の囮作戦が開始した時から、天空剣で事の動きを察知していた。
天空は、剣を垂直に、天に向かって立てている。
目や耳など自分の五感を使うより、天空剣を通じた方がより真実が見えるからだ。
北東の方角から飛んできた小さな光を、天空剣は『ミサキ』と感じた。だから、天空は微動だにせず、平然と構えているのだ。
「今のは、『ミサキ』です、琥珀」
いつの間にか、琥珀の横に大裳が現れていた。
「ミサキ?」
琥珀は、『ミサキ』なんか聞いたことがない。知らない。
「ミサキって妖怪?」
「いいえ、ミサキは妖怪ではありません。先行現象です。おそらく、磯女の予兆かと…」
ミサキとは、神や仏などが出現する時、その前触れとして起こる現象の事だ。
漢字で書けば、『御先』だ。それは動物であったり、光だったりする。
また、ミサキは風や霧、靄を伴うことがある。
このミサキ、神や仏でなくとも、強い邪悪な霊や妖怪でも誘発することがある。こんな知識を、大裳は琥珀に伝えた。
「さっき吹いた木枯らし…、あれはミサキと共に起こったの?」
「はい、そのようです。妖怪が発する怪火や鬼火もミサキの一種です。霧や靄を伴うこともあります。
いずれにせよ、ミサキを伴う妖怪は強いと考えねばなりません。油断は禁物です」
しかし、その後、何事も起らず数十分間が過ぎた。ミサキ現象があったにも関わらず、事件は起こらない。
琥珀は、ミサキという先行現象は当てにならないのかと思い始めた。
天后が化けた若者は、ゆっくりと浜を歩いているのだが、天后も先程のミサキに疑問を持ち始めていた。
あれは、磯女のミサキではなかったのか?違うとすれば…、あのミサキは…何?
その時だ。波の音に混じって聞こえる『チチチチチ』という鳴き声。
妖怪アオジだ!
琥珀、大裳も妖怪アオジの鳴き声を察知した。
天空は、天空剣を通じ鳴き声を感じ、徐に目を開けた。再び、どこからともなく『チチチ』と聞こえる。
琥珀は、全神経を集中し、待った。
三度目の鳴き声、『チチチチチ』と同時に、琥珀の右手から土蜘蛛の糸がするすると放たれた。
今回、琥珀は長めの土蜘蛛の糸を二本飛ばした。
その一本は、異界の中まで妖怪アオジを追う。
もう一本は、もしアオジが異界に入ったら、その入り口で留まる計画だ。
今度こそアオジの居場所を見つけてみせると、琥珀は土蜘蛛の糸に最大の気を配った。
天后は、妖怪アオジの鳴き声に気を割きながらも、平常心を保ち歩いていた、…はずだった。
ところが、突然、目の前に長い黒髪、白い浴衣姿の妙齢の女が立っていた。
磯女だ!
いつ現れたのか?
妖気がひどく強い。
天后が化けた若者が数歩後戻りした。それを見て磯女はにこりと微笑んだ。
その妖艶さは、女性の天后でもハッとする程だ。
天空、琥珀も磯女の出現に気付いた。
二人は、別々の方角から、現場に接近する。
だが、それを知ってか知らずか、磯女が目を吊り上げた。
それまでの妖艶な美女が一転、恐ろしい顔付に変わった。
天后は、若者から元の自分の姿に戻り、数歩下がって身構えた。
磯女は天后の変化に、若者は囮だったと察し、逆上した。
「おまえは…、わたしを騙したのか!何者だ」
恐ろしい顔には似つかない美しい高音で、磯女は言った。
「陰陽師、安倍晴茂の式神、天后」
「陰陽師の式神?そうだったのかぃ。はははは…、見事な変化だった。すっかり騙されたわ。
でも、この姿を見たからには、式神でも無事では帰れない」
磯女は、ふわっと宙に浮かび、長い黒髪を振った。
その黒髪は、生きた無数の蛇の様に自在に動き、天后を襲った。
天后は、その黒髪を避け、身軽に飛んだ。
しかし、磯女の黒髪はどんどんと伸びる。伸びて避ける天后を執拗に追った。
黒髪がこんなに伸びるとは…、天后は予想していなかった。
数本の黒髪が、飛んだ天后の足首を捉えた。
天后は、ぐいっと黒髪に引き戻され、砂浜に叩きつけられた。
振り向いた天后は、空中に浮いた磯女が、四方八方に黒髪を振り乱し、にやっと笑うのを見た。
天后の足首には数本の黒髪が巻き付き、天后の動きを封じていた。




