磯女<1>
琥珀は、京都の安部晴茂のアパートで、独りひっそりと暮らしていた。晴茂は少なくとも生きているとの九尾のキツネの言葉を信じ、昼夜を問わず晴茂の消息を探す毎日だ。
晴茂の式神、十二天将も各々独自に探索を続けている。時々は、このアパートに集まり情報の交換をする。しかし、あの大蝦蟇の事件以来、探索に大きな進展はなかった。
異界が晴茂を捜索する上でカギになると考えたのだが、そもそも異界への入り口が分からない。船岡山の土蜘蛛の巣と大江山の割れた岩の下だけが異界として分かっているだけだ。
今夜も晴茂の生活臭が残るアパートで、琥珀は窓から星空を見上げていた。
目から涙が自然と溢れ出す。そして晴茂に授かった杖を持つと、いつものように虫コブの穴を吹いてみた。
晴茂からの応答はない。この杖の音が聞こえたらどこにいても駆け付けると言った晴茂だ。その時の晴茂の姿が、琥珀の涙の中に浮かぶ。
琥珀は静かに杖を置き、涙を手の甲で拭った。
涙で滲んでいた夜空に再び星が輝く。
そんな星空の一点から、赤い小さな筋が近づいて来る。
『朱雀か…』
南方を守護する獣神、朱雀だ。
飛ぶ朱雀の羽根の跡には、僅かに赤い火の粉が散る。それが筋となって琥珀には見えたのだ。
朱雀は、形やその動きから想像するより速く飛ぶ。琥珀が気付いてから数秒のうちにアパートに着いた。
スズメの姿に変化した朱雀に、琥珀が問う。
「朱雀、どうかした?」
「琥珀、南の沿岸で奇妙な事件が起こっています」
「奇妙な事件…?」
「港町で、若い男が失血で死んだのです。三人です」
「それが何故奇妙なの?」
「外傷のない失血死なのです。尤も、警察は事件性がないとして、病死扱いにしました。しかし、医師も何の病気か分からない様子です。そして、つい先日、四人目が出ました。幸い、四人目の若者は命を取りとめています。
四人目の若者の証言では、海岸で若い美しい女に会ったと…。その美女の目を見た途端に気を失い、気が付いたら浜辺に倒れていたそうです。
気を失う前は、全身がふわふわと浮かんでいるようで、目はかすれ、手足も動かない状態だったと言います。堤防を散歩していた人が若者を見つけ、何とか助かったのです」
「ふぅーん。でも、どんな病気か知らないけど、別に奇妙だと決めつけられないよ」
「その若者はもうひとつ重要な証言をしています。海岸で美しい女に会う前に、盛んに鳴く鳥の声を聞いたと…。チチチチチと鳴く声を…」
「…」
「砂浜ですから、辺りを見渡せる場所です。若者は鳥もいないのに、鳥の鳴く声を聞いたと言っているのです。
そして、美しい女は、その鳴き声の後、ふいに若者の前に現れたと…」
「うっ!それって…アオジ…?」
「はい。その疑いは消せません」
その若者が聞いた鳥の声とは、妖怪アオジなのだろうか。
そうだとすれば、外傷もなく失血死した若者も、何か得体の知れない者に襲われた可能性がある。
その美女が妖怪なのか。
「その美女が妖怪だというの?」
「若者の失血死が妖怪の仕業であれば、その女は、妖怪『磯女』に似ています。
磯女は若い男に黒髪を巻き付け、生き血を吸い取るといいます」
琥珀は、朱雀の言葉に頷いたのだが、
朱雀は首を傾げて続けた。
「しかし…、磯女は九州の沿岸だけに出没する妖怪です。
紀伊半島の沿岸に磯女が出た話は聞いたことがありません」
「では、他の妖怪?」
「いいえ、分かりません。知識の豊富な大裳に聞いてみたいのですが、…」
大裳は天帝に仕えていた文人だ。律儀で博識な善神で、その知識の広さ深さは、十二天将の中で群を抜いている。
琥珀は、大裳を呼んだ。
「琥珀、私を呼びましたか」
部屋の隅に現れた大裳に琥珀が頷いた。そして、朱雀の話を大裳に聞かせた。
「若い男を襲ったのは、磯女という妖怪だろうか?それとも別の妖怪?」
大裳は、暫く知識を辿っている様子だったが、琥珀と朱雀に向かって答えた。
「確かに、磯女は九州特有の妖怪でございます。その他の地域で磯女の話を聞いたことはありません。
生き残った若者の証言から推察すると、磯女の仕業にとても似ております。
ただ、人間の生き血を吸って殺害する妖怪は、磯女だけではありません。
浜辺で起こったということ、相手が美しい女であること、外傷もなく失血死させること…、この三点を合わせて考えると、磯女の疑いが最も濃いと思われますが…」
「ふむ、わたしもそう思う」
朱雀が答えた。
「それよりも、妖怪アオジらしき鳴き声を聞いた、という証言の方が重要でしょう。
大江山で大蝦蟇の妖怪が出現した時に、アオジが鳴いたわけですから…。
そして、どうやら妖怪アオジは毒蜘蛛とやらが造った異界と深い関係がありそうだと、現時点では考えられるからです」
「そうだな…」
「磯女であろうと、別の妖怪であろうと、アオジを手掛かりに異界を探るべきだと考えます」
きっぱりと言い切った大裳に頷いて、琥珀が答えた。
「分かったわ、妖怪アオジらしいのなら、調べる価値がありそうだわ」
「それから、もうひとつ…」
大裳が琥珀を直視して続けた。




