あおじ<1>
南都の山奥、連なる山々のひとつ、山の頂に岩が突き出ている。その岩の平らになった部分にうら若い娘が座っていた。ここは、安倍晴明を凌ぐとも言われた陰陽師、安倍晴茂が修行に使った山だ。
娘が座った岩の付近には木は生えず、この頂は赤茶けた土と岩と石で覆われている。時々、鳥の鳴き声が遠くに聞こえたりするが、その他は静寂に満ちている。
娘は、岩の狭い平坦部で、胡坐をかき、背筋を伸ばし、遠くを見るような、眠っているような、そんな半眼で静止している。穏やかな空気が辺りを包み、時折吹く微風に、娘の褐色の長い髪がさらさらと僅かになびく。
夏はとっくに終わっているのに、この娘、真夏のような恰好をしている。胸と腰以外の露出している肌は薄い褐色だ。きりりとした顔立ちだが、見様によってはどこかあどけない可愛さがある。よく見ると、涙を流していたのだろうか、頬がやや濡れている。娘の横には、木の杖が置かれている。
この娘、どれ程の時間この場所にいるのだろうか。既に陽は西に傾いて、微動だにしない娘の背中を照らす。陽の光がすっと薄雲に隠れた。陽の光が弱くなり、身体に感じる温度が下がった。同時に、一陣の風が娘の髪を大きく揺らした。
そう見えた瞬間、岩に座っていた娘の姿がふっと消えた。一瞬の出来事だ。どこへ…? 岩の向こう側は絶壁の谷だ。娘は、落ちたのだろうか。暫く空気が止まったかに思えた。
雲から出た西陽の光が再び岩を明るく照らし出した。すると、その岩に向かって薄黒い影が落ちた。影の主の方に目をやると、光る銀色の毛で覆われた四足の獣がいるではないか。
いつ現れたのだ。大きな体躯の獣だ。それは狐だった。いや、普通の狐ではない。身体は大きいのだが、その身体の大きさにしては、いかにも太く長い尾っぽだ。よく見ると、尾は一本ではない。何と九本の尾を持つ白狐だ。これは、太古の昔から恐れられている九尾の妖狐だ。
威風堂々と岩の前に立つ九尾の妖狐。眼は爛々と鋭い。
獣の正体が明らかになると、娘の姿が再び岩の上に戻った。消えたのも一瞬だったが、現れたのも一瞬の出来事だ。岩の上にすくっと立ち、手には杖を持って、その娘は九尾の妖狐をじっと見た。
「やはり琥珀さんでしたか…」
九尾の狐は、姿を老婆に変えながら、その娘に言った。
「九尾のキツネ…」
琥珀と呼ばれた娘は、全身から安堵の気配を見せながら、岩からふわりと飛んで降りた。まるで、蝶が舞うような動きだ。
「この山に不思議な人間が紛れ込んだと聞いたのです。それで見に来たら、あなたでしたか、琥珀さん」
どうやら、九尾の妖狐は、その娘とは知り合いのようだ。
「晴茂さんは、どうしたのです?」
九尾の狐に尋ねられた娘、琥珀の目から、見るみるうちに涙が溢れだした。
「晴茂様は、…、亡くなりました」
涙が止まらない琥珀は、やっとの思いで声に出した。
「なんと!」
この小娘、琥珀は、陰陽師 安倍晴茂の式神だ。晴茂によって琥珀石から造られ、『人間になれ』と呪文をかけられた式神だ。
安倍晴明など、天才的な呪術師は、石や木の葉などを人間や動物の姿に変え式神を造ることができる。この場合の式神は、意志を持たず創造主の指示通りに動く。しかし、動物を呪術で式神にした時、その動物の意志が式神の行動に出ることが稀にある。その過ちを晴茂は犯してしまったのだ。
無機物の琥珀石と思って呪術をかけた晴茂だったが、その琥珀石には古代の蜘蛛が含まれていた。晴茂は、生物に対して人間になれと術をかけてしまった。そのことが非常に危険な事態を起こしたのだ。
しかし、琥珀は、人間になろうと努力をし、そして晴茂や、晴茂の本来の式神である十二天将らの力も借りながら、徐々に人間になりつつあった。
そんな折、酒呑童子の呪いのかかった徳利から端を発した事件で、琥珀石に潜んでいた蜘蛛が目覚めてしまった。一時は、心を操る式神貴人によって琥珀の体内の蜘蛛は鎮められたが、妖怪土蜘蛛との戦いの最中に再び琥珀の蜘蛛が目覚めたのだ。
「晴茂様は、わたしの身体の中にいる蜘蛛を鎮めるため、貴人の『心写しの術』を使ったのです。
あの貴人でさえ、術を使った後は憔悴するのに、初めて『心写しの術』を使った晴茂様は意識が朦朧となり、妖怪土蜘蛛の糸に絡め取られてしまった。
そして、土蜘蛛に…、喰われてしまった」
琥珀は、涙ながらにその時の様子を九尾に話した。
『自分の所為で晴茂様が死んだ』と琥珀は言う。
「本当に晴茂さんは土蜘蛛に喰われたのかい?」
琥珀の話を聞いていた九尾が、合点のゆかない顔で聞いた。
「はい、はっきりと見ました」
「その後、おまえ達は土蜘蛛を倒したのだろう?晴茂さんの遺体は?」
「何日も探した。…でも、…でも、見つから…」
ついに琥珀は涙で声も出なくなっていた。
晴茂を失った悲しみ、そして、その原因が自分にあるという自責の念が、琥珀の心に満ちていた。
老婆に変化した九尾は、琥珀の肩を抱き、しばしの間、優しく包んだ。