#7 醜きと愚かしき
「ンーフフッフンーフフー、ンーフフッフッフー、ンフーフンフフフーンフフーンフー……」
頭に思い浮かんだ昔の曲を口ずさみながら僕はカミソリを借りて伸びてきた髭を剃っていく。
……僕はずっと殆ど死んでるような楽しくない人生を送ってきたけど、今の世界じゃ生きてる人間より死んでる人間の方がよっぽど生き生きしてることに少しだけ皮肉を感じ、そのまま歌うのを止めた。
六日目、街にはまだ生存者が残っていた。
一週間近くも経てばこの街には誰一人いなくなるだろうと思っていたが、それは完全に僕の予想違いであった。ラジオで流れたあの自宅避難を守っていた人間が、この街には予想以上に多かったのだ。
しかし、それが最善の策ではない事に気付いていたある程度の人間は去っていったのか、通りのゾンビの数は五日前と比べて目に見えて少なくなっている事が分かる。だからと言って呑気に観光を出来るほど減っている訳でもないが。
人通りの少ない道を選び、少しづつ確かめながら進んで、時には前日のように物陰からゾンビに襲い掛かり、街を安全に出られるルートを探す。
道中では様々な人達を見掛けた。鉄塔の上に避難して蟻に群がられるようにゾンビに集られる者、大きな建物に立て籠り救助を待ってひたすら耐える者、ボロボロに壊されかけたバリケード越しに焼け石に水状態の攻撃を加える者……そして、僕と同じように生きる道を模索して移動を始める者。
その誰もが必死の表情で戦っているのを横目に見ながらそれを無視して進んでいく。
そんな中で、僕は一台のバスを発見した。
周囲をゾンビに囲まれ今にも倒されそうになっているその中には、まだ多くの生存者が残っていた。
じっと見つめていると、車内に居た生存者の一人である若い女性と目が合う。
こちらに助けを求めているのだろうか、ここまで聞こえては来ないが窓を叩きながら必死で叫んでいた。
僕も応えようとして、しかし歩む足を止めた。彼女の叫びに呼応するようにゾンビの動きも活発化していくのが見えたからだ。
暫くすると一人の男性が叫ぶ彼女を窓から引き剥がした。それから他の乗客がそこに集まる。よくは見えなかったが、集まった乗客に付着していく赤い何かから彼女を袋叩きにしているのは想像がついた。
だが僕は最後まで見ている事は出来ない。ゾンビに囲まれているのはこちらも同じなのだ。
その場を後にする途中、背後でガシャンと事故が起きたような音がしたが振り返る事はしなかった。
あれは仕方がなかった。
助けられる訳がない。
不幸な事故だったんだ。
死なない為にあの場は逃げるしかなかった。
僕は悪くない。
僕は絶対悪くない……
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そして気が付けば既に僕はあの忌々しい繁華街から抜け、丘沿いに整備された住宅街へとやって来ていた。
そこも風景は繁華街と大して変わらず、アスファルトで舗装された地面は血と肉で彩られ、建物の窓は所々割られ事故車輌がぽつりぽつりとデコレーションされたまま。
これまでの喧騒や怒号がまるで最初からなかったかのような静けさが立ち込める住宅街に、僕は今では相棒のように感じられるシャベルを強く握りながら一歩一歩を確かめるように踏み締める。
地形的に街からの音がよく届くのか、遠くからは未だにエンジン音や発砲音がちらほらと聞こえるものの、以前と比べればその数は圧倒的に少なくなっていた。生存者を追ってゾンビも移動しているとなれば、この辺りで生存者を探すのは無意味か。
走るゾンビには、平和な日本の警察も自衛隊も在日米軍も軒並み壊滅してしまったのだろうか。銃の1丁や2丁でこの現状がどうこう出来るという訳ではないがもし手に入ったらの事を考えてみると、ミリタリーオタクでもある僕のこの陰鬱な気持ちが少しだけ軽くなった気もする。
不意に何処かでパキリとガラスが割れる音がした。
恐る恐るそちらを向くと……身体の至る所を噛み千切られボロボロになった老人や子供のゾンビがあちこちの家から道路上の僕に目掛けて歩み、這い寄ってきていた。
「ヒッ……」
喉から掠れた悲鳴が出てくる。
数は8~15体。道の両側を高いブロック塀で挟まれ、前後はゾンビの群れ。
……畜生、やってやる。
動きこそ鈍いものの肉体の損傷が激しくこれまでのモノよりも格段と嫌悪感の高まるゾンビに僕はなけなしの勇気を奮い立てる。
「うおおおっ」
僕はシャベルを引き伸ばし掴み掛かろうとしてきた老体の頭へ刃を叩き込んだ。
頭蓋が割れ脳漿が溢れるのも気にせず刃を蹴りと腕の力だけで強引に引き抜き、返す刃先で背後の相手の腹を突き刺す。
そのまま盾にするようにシャベルを押し込みまるで除雪車のように包囲網を突破……しようとして這っている奴に気付かず足首を掴まれた僕はゾンビの壁の中で動きを止めてしまう。
「邪魔を、するなアァァァッ!!」
腹からシャベルを引き抜いて左右の連中の顔面を横薙ぎに引っ叩き、足首を掴んだまま噛みつこうとした奴には横っ面に蹴りを数発入れるとその手首から先を得物で文字通り掘り起こし襲い来るゾンビの波から脱出した。
そのまま盾となった臓物を垂らすゾンビを蹴り倒すと、近くの事故で塀に突っ込んだワゴン車の屋根によじ登ることで僕は一時的な避難を果たす。下からは数体のゾンビが僕を平らげようと集まってきた。
臓腑が全て無くなっても食欲を満たそうと這う子供。枯れ木のように細い身体を異様にくねらせながら歩み寄る老人。四肢をもがれた状態で芋虫のように這ってくる女性。全身の皮や筋肉や臓物を剥ぎ取られた人のような何か。この世が地獄であった事を再認識させられる、そんな光景を目の当たりにして僕は怖気立つ。
僕はひとまず車伝いに塀を乗り越えると、その場を後にすることにした。
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塀の先にあったのは一軒の古い木造平屋だった。
塀も見た感じはゾンビから逃げてきた側に面する出入口はないため今すぐに追い付かれるといった事態は避けられたが、大声で叫んだりした以上他の場所からも集まってくるだろう。
そううかうかしていられない状況に僕は嘆息しながらも、やや警戒を強めつつ窓ガラスの割られた箇所から屋内へと踏み込む。
まず目についたのが何かを引き摺ったような乾いた血の痕が残る畳の間、そして鼻を突く鉄と腐敗の臭い。これで命さえ懸かってなければ本格派お化け屋敷ということで十分楽しめたのだが、今は違う。慎重に慎重を重ねてシャベルを構え奥へと進む。
血の痕を追って忍び足で歩いていくとそこには布で包まれた状態で包丁を突き立てられ、踊る花の置物みたいに暴れているナニかが横たわっていた。
僕はそれを引っ掴むと入ってきた場所から引き摺って放り出し、すぐさま頭を叩き潰す。この数日の生活でこういった処理には抵抗がなくなったことに少々薄気味悪く感じるが、まあ慣れて悪い事ではないかと僕は勝手に自己完結した。
中にゾンビが居たからか家の中には手付かずの缶詰やら煎餅などの保存が効く食料がそこそこ残されており、他にも電池や燃料など収穫は十分と言えよう。
玄関先にはこの平屋には似つかわしくない大きな4WD車も停めてあった。家主かその親族の物か。
車内には特に何もなく、運転席は開けっぱなしで鍵も刺さったままなことから『逃げようと乗り込んだ所でゾンビに引っ張り出された』といったところか。すぐ近くには大きな血溜まりと原型が何だったのかすら理解できないほど引き裂かれたほとんど骨だけの塊が鎮座していた。
もしもあの塊が自分だったら……大勢のゾンビに寄られて、集られて、じわじわ引き裂かれ、食べられていく自分の姿を幻視した途端、僕の胃袋がひっくり返った。
「うげええぇええっ」
今朝の朝食は生でもイケる生鮮食品をただ丸かじりしただけ、胃液で溶かし切れなかった小さい塊がポロポロと混じったペーストの液溜まりがその場に生産される。
「げえっ、げほっ、げっ、おえっ……」
咳と一緒に押し出されてるみたいに涙が止まらない。以前よりも明確な『死』のイメージが頭からこびりついて離れない。身体が拒絶反応を起こすみたいに次から次へと栄養分が口から垂れ流される。
痙攣が収まったのは暫く経ってからだった。
……初日の頃より酷くなってる気がするのは気のせいだと思いたい。変な病気になってたらどうしよう。医者も役には立たないだろうこの状況下で病気になったら目も当てられないぞ。