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走る、滑る、見事に……のこと

 恐らく地球人類史上初と思われる、女神と人間のタイマンは、ゾーハルが自身の目玉を取り出してみせ、異世界の魔法で俺を骨抜きにするという連続技をもって、女神の勝利で幕を閉じた。彼女は戦利品のつもりか、俺の分まで弁当を平らげた――というのは冗談で、異世界では大気や土に魔力が満ちていて、補充には困らないらしいのだが、こっちで魔力を使うとそれを補充するのに内燃機関――そういう臓器があるのだそうだ――に頼るほかなく、魔力を使うととにかく腹が減るらしい。

 細い彼女の胴に、どうやったら二人前の弁当が入る余裕があるのかわからないが、ゾーハルは見た目人間として振る舞ってはいても、中身は大きく異なるのだろう。そもそも、生き物と神ってやつを同列に考えてはいけないのだ。

 それを裏付けていたのは、俺たちが屋上を立ち去るときに発見した珍事だった。ゾーハルが「入植者の魔眼」を取り出した際、盛大に飛び散った血液の汚れが、跡形もなく消えていたのだ。

 血の汚れというやつは、そう簡単に落ちるものじゃない。異世界で血なまぐさい生活を強いられていた俺にはわかる。まあ、現実の世界でも「血痕」というやつが事件後何年も経ってから見つかり、それが決め手となって有罪――なんて話があるのだから、いかに血の汚れがしつこいものかは想像に難くないだろう。

 どうして血の汚れが消えてしまったのかを訊ねると、ゾーハルは「妾の身体の一部は、妾の身体を離れて一定時間が経つと、この世界から消滅してしまうのだ」と言った。その理由について詳しくは教えてもらえなかったので食い下がると、本来この世界に、異世界の神は存在してはいけないものらしく、彼女はこの世界に一切の痕跡を残すことを許されないのだそうだ。正直、どうやって屋上を掃除しようかと頭を悩ませていたので、俺としてはよかったと思えたのだが、ゾーハルは説明したあと、なぜか少し寂しそうに息を吐いたのだった。

 美少女の憂い顔もまたいいものだったが、そんな顔をした「ハルカ・アンダーソン」と教室に戻ったら、何を誤解されるかわかったものじゃない。どうにか笑わせてやろうと思って、それって、ウ〇コとかも消えてなくなるのか、と言ってやったら鳩尾に鉄拳を打ち込まれ、倒れ込んだところを踏みつけられたことを補足しておく。人の善意を踏みにじる神さまって、どうなの。

 そんなこんなしているうちに昼休みも終わり、連れ立って教室へ戻る途中、パン田さんとすれ違った。用事はなんだったのかを訊ねようと話しかけたのだが、パン田さんはなにかブツブツと呟きながら、D組の方へ歩き去ってしまった。割と不気味な様子だったのだが、ゾーハルによれば「怪奇現象」の気配はなかったらしいので、関わらないことにした。




 そして迎えた、体育の授業である。校庭で行われる種目は、秋冬の恒例「マラソン」だった。


「タイガよ。本気で走ってはならんぞ」


 準備体操のあと、男女別れて並ぶ前に、走り寄ってきた赤ジャージ姿のゾーハルが、小声で囁いた。


「なんで?」


 もとより空腹なのでそんなことをする気はさらさらなかったが、「やるな」と言われるとやりたくなるから不思議なものだ。あ、でも王様とか勇者を「やって」と言われたときも、結局やったな……自分がわからなくなりそう。


「さきほど屋上で言っただろう? 貴様は“ほぼ”人間だ、と」

「ああ。そんなこと言ってたな……どういう意味だ」

「走ってみればわかる。とにかく、全力を出すな。下手な注目を集めたくなければ、な」


 言うだけ言うと、ゾーハルは女子の列に入って行った。声は届かなくなったが、仕草でわかる。ジャージの袖を引っ張って伸ばし、その中に手を仕舞い込んで、同じようにしている周囲の女子と話し込んでいる。どうせ、「なんで寒いのにわざわざ……」とか言っているに違いない。まあ、予断と偏見ですけども。

 さて、「全力を出すな」というゾーハルの忠告をどう受け取るべきか。「走ればわかる」なら、走ってみるか。なんて短絡的なことはしない。ゾーハルが繰り返し言った「貴様はほぼ人間」なんて言葉と合わせて考えると、全力でスタートダッシュをすると、とんでもない速さで飛び出してしまい、周囲から喝采を浴びてしまうという未来が待っているに違いない。大方、ゾーハルの言う「完全にはもとに戻らなかった」ものの一つに、俺の身体能力が含まれているとか、そういうオチだろう。しかし、異世界に召喚される前はあまり目立つ存在ではなかったので、ちょっと注目されたい欲求もある。

 どうしたもんかな。

 男子十八名が、一列六人の三列横隊に並び終えた。俺はちょうど真ん中だ。


「位置について――」


 体育の恩田がホイッスルを構えた。男子たちは、走る準備態勢に入った。悩んでいる時間はない。


「用意――」


 恩田がホイッスルを口にくわえた。列の中からダリィ~、とかいうぼやきがいくつか聞こえた。チラ、とトラックの外側に整列している女子の中の、ゾーハルを見た。俺と目が合うと、彼女は挑発するように笑った。

さあ、覚悟を決めろ。ここが運命の分かれ道だ。

 ホイッスルが独特の笛音を響かせた。

 男子たちが走り出した。

 俺は思い切り地を蹴って――







「ほぉら、動かないの」

「いちちちち……せんせぇ、頼むよ。もちっと優しく……」


 消毒薬の臭いが鼻を衝く。それよりも、額の傷口にしみるのなんの。


「きちんと消毒しないとダメよ。放課後は病院に行って、破傷風のワクチンも打ってもらった方がいいわよ。まったく、どうやったらこんな風に転べるの」


 それはこっちが聞きたいですよ。

 スタートダッシュを切った俺は、そのまま飛び込み前転でもするかのような勢いで転んだ。額、鼻、頬を地面に擦りつけ、痛々しい傷を作って保健室に直行と相成ったのだ。


「あ、ダメよ。目を開けちゃあ」

「あ……すんません」


 消毒薬の刺激で目が痛い。それよりも、思った以上に田村先生の距離が近かった。担任の星川の妹で、歳は二十八歳。たしか、俺が異世界に召喚された年に結婚して、苗字が田村に変わった。姉のような派手さはないが、いかにも清楚な美人、といった表現がぴったりくるおしとやかな女性で、長白衣が良く似合う。当然、男子からの人気が高く、彼女が結婚したという知らせが入ったあとしばらくは、「星川(妹)ロス」で病欠する男子が出たほどだった。

 そんな田村先生は、チェリーの香りがするハンドクリームを愛用している。男ウケを狙っている、なんてやっかむ女子も多いのだが、消毒薬などを扱う仕事をしているので、手荒れ防止のためには仕方のないことなのだ。

 妙に詳しいし、肩を持つって? 当然だろ。俺だって、星川(妹)ロスで熱が出た身だからな。


「はい。終わり。ちゃんと病院行くのよ?」

「ふぁい……」


 傷口に軟こうを塗り、その上からガーゼを当てて、田村先生の処置は終了したらしい。


「失礼します」


 俺は追加で処置をお願いしたり、必殺「ちょっと気分が悪いんです」とかいうオプションを使ったりすることもなく、椅子から立ち上がった。名残惜しいが行かねば。俺は運動神経がいい方じゃなかったが、スタートダッシュに失敗するほど悪くもなかったはずだ。

 どうしてこんなことになったのか、ゾーハルを問いただす必要がある。スタート直前の、ゾーハルのあの笑顔。きっと、やつは俺がこうなることを予見していたに違いない。


「あ、西条君」

「はい?」


 薬品棚のガラス戸に映る自分の顔は、半分以上ガーゼに覆われていた。なかなかに痛々しい姿だ。一瞬立ち止まって戦慄していると、田村先生が声をかけてきたのだ。


「あ……あの、なんでもない、わ」

「はあ、そうですか」


 振り返って笑顔でも作りたかったのだが、顔を動かすと痛い。痛みに耐えていることも手伝って、少しぶっきぶらぼうな対応をしてしまったのがいけなかったか。田村先生は何か言いかけていたのだが、口をつぐんでしまった。


「じゃあ、失礼します」

「ええ……その、また、来てね」

「は?」


 予想外の言葉をかけられ、表情筋が反射的に動いてしまった。い、痛い。しかし保健の先生から、しかもほかならぬ田村先生から「また来てね」て言われては、表情も緩んでしまうというものだ。


「ほら。き、傷の具合も診たいから」

「はい……わかりました」


 なんだ。そういうことか。

 俺は自分でもわかるほどに肩を落とし、保健室を後にした。




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