半田悠美のこと
記憶。
半田悠美はそういうものをきちんと研究している人たちがどのように定義しているのかを知らないが、彼女は目で見たもの、耳で聞いたことを脳が情報としてストックしていて、それはコンピューターと同じような仕組みで処理されている、という意見には反対だった。
彼女のイメージでは、記憶された情報は単なる0と1の羅列ではなく、その日その日の出来事と共に編纂され、一冊の本にまとめられている。毎日出来上がる膨大な量の記憶の本は、途方もなく巨大な書庫――海馬などという気味の悪い名前の、灰色の神経細胞の塊などでは断じてない――に収められているのだった。
書庫には素敵な司書がいて、悠美が眠っている間に夢物語を語ってくれる。悠美は目覚めると、それを夢日記にしたためることを朝の日課としていた。どんな夢を見たか思い出せない日は、これを習慣としてから約二十年、一度もなかった。
その日、いつも通りの時間に目覚めた悠美は、ベッドの上に座ったまま呆然としていた。
目の前の摩訶不思議な光景を、どのように解釈するべきか。
社会に出てから十四年。三十路街道も折り返し地点を過ぎ、自身の誕生日はおろか友人知人の結婚すら素直に祝えなくなった。上司や両親の嫌味に心がざわつくことも、師走の忙しさに焦ることもなく、淡々と仕事をこなす毎日を過ごしていた悠美は、二十年前に、ある怪奇現象を目撃したとき以来の激しい動揺を感じていた。
「……夢、じゃないのかしら」
昨晩、悠美は珍しく一人酒をした。普段強がっていても、カップルや家族が盛り上がるイベントが目白押しの冬がやってくると、どうしても寂しくなってしまう。そんな中、後輩の些細なミスに激怒してしまった自分に嫌気がさしてのやけ酒だった。そんな悠美が目を覚ましたのは、二十二年間暮らした実家のベッドの上だったのだ。
「悠美~? まだ寝てるの~?」
階下から、母が呼ぶ声がする。まだ四十代前半の、張りのある声だった。
「こんな、ことって……」
悠美は机の上に置いてあった、小さな鏡を取り落とした。そこには、高校二年戦の頃の自分が映っていたのだ。
戸惑い、震えながらも、悠美はクロゼットから穴勝高校の制服を取り出して着替えた。
二千××年十一月二十二日。これが夢でも現実でも、悠美は急いで高校に行かねばならなかった。
あの日のことは鮮明に覚えている。悠美は記憶の書庫から一冊の本を取り出した。それは、悠美が高校二年生の秋のことだった。
その日、珍しく悠美は寝坊した。悠長に日記を書いている時間はなく、夢の内容を走り書きして、母が用意してくれた朝食――スムージーを流し込んで家を出た。自転車に乗れない悠美が、徒歩で通える距離の高校に入学できたのは幸いだった。その頃の悠美は本の虫で、余暇の時間のほぼ全てを読書に費やしていたからだ。最寄り駅を通る路線は、朝の通勤ラッシュが激しいことで有名だった。満員の電車に揺られながらの通学では、大好きな本にじっくり目を通すことは難しい。
悠美はスクールバックと、図書室で借りた本を入れるための手提げ袋を持って走った。晴れていたが、乾いた風が少し強めに吹いていた。体育以外で走ることなど滅多になかった。たちまち息が上がり、乾いた風を吸い込む喉が痛かった。
校門をくぐる頃には、息も絶え絶えになっていた。左手首の腕時計を確認すると、事業の開始まで八分あった。悠美は、教室には向かわずに図書室を目指した。期限翌日の一時間目が始まるまでに返却できないと、一週間貸出禁止のペナルティが課せられてしまうからだった。本の返却期限は前日だった。悠美は気力を振り絞り、顔を上げた。校庭にはすでに、一時間目の授業が体育らしい、ジャージ姿の下級生たちの群が揃い始めていた。悠美は、トラックの外周を回り込んで渡り廊下の下を進むルートを選んだ。
「おっと!」
「きゃ!」
渡り廊下の下を走り抜けようとしたそのとき、右から男子生徒が飛び出して来て悠美とぶつかった。
身体を捻って避ける、あるいは左右どちらかにステップして衝突を回避する――そういうことを考えるまでもなく反射的に行うことができる人がうらやましい。肩がぶつかり、コンクリートに尻もちをついた悠美は心底そう思った。
「わりぃ!」
「あ」
何かに掴まろうとしたのか、無意識に差し出していた手は、男子生徒が握り、線が細い見た目以上に強い力で引っ張られた。
「怪我、ないか?」
「う……うん」
そのとき、彼がどんな表情をしていたのかはわからない。顔を見ることができなかったからだ。
悠美は、思春期の男子が苦手だった。
同級生と比べて発育がいい方だった悠美は、無遠慮な視線と言葉に晒されてきた。内向的な性格故、それを跳ねのけることはできず、学年のアイドル的な立ち位置にいる男子に「胸、でかいな」とからかわれ、以降なにかとちょっかいを出されても黙って俯き、耐えていたような女子だった。それで同性から同情してもらえればまだよかったのだが、絡まれる機会が増えれば増えるほど、かえって目の敵にされてしまい、内向きの性格に拍車がかかっていたのだ。
「わりぃ。急いでんのは、お互い様だよな」
男子生徒は急いでいる、と言いながらも、転んだ拍子に散らばった悠美の本を拾い集めてくれた。最後の一冊を手に取ったとき、「おいっ!」と言った。
美優は大きな声を出されて肩を震わせ、なにか怒りを買ってしまったのかと思わず男子生徒の顔を見た。
「これ! “青の賢者”シリーズじゃん!」
そこにあったのは、屈託のない笑顔だった。
「あはは。俺もこれ、読んでたんだよ……小学生の時だけど」
男子生徒は、当時を懐かしむように目を細めて言うと、本を返してくれた。
「じゃ、気をつけてな!“聖霊の加護があらんことを”!」
青の賢者の決め台詞を残して、男子生徒は西棟の方に走って行き――消えた。
男子生徒の足元の地面が突然光った、そう思った次の瞬間、彼は光に飲み込まれた。地面の発光は一瞬で終わり、少年の姿は跡形もなく消えた。
悠美は、しばし呆然とし、結局走りすぎて酸欠になり、幻覚でも見たのだろうと思った。
数日が経過して、二つ隣のクラスの男子生徒が行方不明になった事件を知った。
男子生徒の名は、西条大河。彼の事件は悠美が高校を卒業し、大学を経て就職する段になっても進展がなかった。悠美は彼の家族――若い、とてもきれいな女性が駅前で情報提供を求めてビラ配りをしている姿を何度も見かけた。彼女が配っていたビラが、無造作に捨てられているのも見た。そこには、今どき珍しく髪を染めておらず、中性的な、すこしだけ目つきの悪い男の子の顔がプリントされていた。
西条大河と最後に接触したのは、恐らく自分だ。
それはわかっていたが、名乗り出るのは怖かった。こんな奇想天外な話、誰も信じてくれないだろうと思った。
西条大河の姉を駅前や商店街で見かけるたび、悠美の心は罪悪感で軋んだ。
悠美はそれから逃げるように実家を出て、一人暮らしを始めた。ときどき、本屋で懐かしい図書を見かけた時など、西条大河の名前を思い出すこともあったが、西条大河と縁のない土地で暮らすことで、徐々に罪の意識は薄れていった。
なぜ、今になって。
悠美は大きく肩で息をしながら、渡り廊下の下をくぐり、東棟の前に立っていた。腕時計で時刻を確認する。
午前八時十七分。
記憶が正しければ、あと数分で西条大河はここを走り抜けようとするはず。
しかし、いくら待っても、彼が現れることはなかった。
始業のチャイムが鳴った。
それは酷く間抜けな、のど自慢の歌い出しで鳴らされる鐘の音のように、立ち尽くす悠美を嘲笑っていた。
他にすることも思い浮かばず、悠美は教室へ向かった。
そして、廊下を走り、教師を追い抜いて滑り込むようにD組の教室に入って行く男女の姿を目撃した。
忘れようもない、あの日、透明な笑顔を向けてくれた男子と、人形のように美しい美少女。悠美はハンマーで殴られたようなショックを受けつつ、B組の中から聞こえてきた、出席を取る声に誘われるように教室へ入った。
「はあ~。あたし、なにやってんだろ」
少女の深い溜息は、女子トイレの鏡にまで届き、それに含まれたわずかな水分は、冷えた鏡に付着して白く小さな曇りになった。
もうすぐ、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
西条大河は、自分を見て目を丸くしていた。そこにはあまり感情らしい感情はこもっておらず、しいて挙げるとすれば「こいつ、誰?」という困惑の色が伺えた。
「でも。このままには、できないわ」
悠美は拳を握り締め、鏡に映る自分を観察した。そこには、アルバムの中にしか存在しないはずの少女が映っていた。もう二度と会えなかったはずの、十七歳の自分。
引っ込み思案で、不器用で、運動音痴の、本の虫。デリカシーのない男子とやっかみを原動力に生きている、恥知らずのビッチたちのおかげで、彼女は高校生活を謳歌できなかった。
これはきっと、神様が与えてくれたチャンスなんだ。
悠美は鏡に思い切り息を吐きかけた。たちまち、小太りの少女の顔が白く塗りつぶされていく。ブレザーの袖で、それを強く拭う。
消し去る。
そして、塗り替えるために。
半田悠美は、強い決意を胸に女子トイレを後にした。