女神と登校中のこと2
「おい、待てよ」
「貴様をこの世界に戻したときのこと、覚えておるか」
横に並ぶと、ゾーハルが口を開いた。
「いや?」
夢の中の出来事だったからな。明確に覚えているのは、グベルトや子供たちの笑顔くらいだ。
「存外に苦心させられた。貴様の世界は――人が多すぎる」
「どういうことだ?」
ゾーハルを見ると、彼女は俯いて、下唇を噛んでいた。異世界でゾーハルの姿を目にしたときには、一度も見せたことがない表情だった。美少女の困り顔、というのもいいものだ。それに見入っていると、ゾーハルが息をついてから口を開いた。
「妾は、妾の世界に貴様がいる間に、両方の世界で経過した時間を遡って事象を元に戻そうとした。邪魔する魔物は貴様が蹴散らしたからな。当然、失敗を疑わなかった。貴様の周辺だけではなく、貴様の世界に暮らす七十億を超える人間や、数えるのも馬鹿らしいほどの多種多様に組み上がった無機物、有機物の二十年分の歴史は膨大だった。……簡単だったと思うか」
「そりゃあ、まあ、なあ」
曖昧に返事をしたが、簡単にはいかないだろう、と思った。方法論がわからないから、行程の大変さもイメージできないが、二十年という時間は膨大だ。それはわかる。俺がいなくなった年に生まれた赤ん坊が成人式を迎えたってことだからな。
「あ、待て、待てよ」
戦慄を覚えて、背筋が寒くなった。
赤ん坊が成人するまでの期間、数え切れないほどの思い出があっただろう。俺がこの世界に帰還したことで、そういうのも全てなかったことになったのか。二十年の間に生まれた新しい命も。
もしかして、俺はとんでもない選択をしてしまったのではないか。
「気づいたか」
立ち止まった俺の背に、ゾーハルが声をかけてきた。
「貴様を元の時間に帰すための犠牲は、貴様が想像しうるレベルを遥かに超えて大きかった。正常なカタチに戻せず、多少歪んでしまった部分もある。だがな。妾が直接乗り込んできたことと、それは別の問題であり、ごく小さなエラーでしかない。大いなる運命の流れによって、そのような歪みは修正されるものだからだ」
「なんだ、そうなのか」
それならよかった。運命の流れとやらはよくわからないが、俺のせいでたくさんの人や生き物の未来が大きく変わってしまったのかと思って、ちょっと、いや大分焦ったぜ。
「安心するのは早い。もっと大きな問題が生じた……妾の世界と貴様の世界が近づきつつあるのだ」
「え?」
安堵した直後の俺の脳は、ゾーハルの言葉の意味を理解できなかった。
「マヌケ面をしている場合ではないぞ。魔物が生まれ、魔法が存在する世界と貴様の世界が混ざり合おうとしているのだ……いや。混ざってくれればまだよい、か」
ゾーハルが足を止め、苦々し気に空を睨んだ。
高い位置に一筋の白い雲があった。上空は風が強いのか、それはたなびく煙のようにゆらゆらと形を変えて、東の方に流れていく。緋色の瞳がそれを追い、薄桃色の唇はわずかにわなないていた。うちに居た時の快活な少女の姿はすっかりなりを潜め、憂いを帯びた表情と、人ならざるものしか持ちえない造形美を備えたゾーハルの姿は、彼女がただの美少女ではなく、女神であることを雄弁に物語っていた。
「混ざらなかったら、どうなるんだ」
にわかに沸き起こる畏れの感情に蓋をして、訊ねた。魔法やスキルなんてものが存在する世界と俺たちの世界が混ざり合ったらどんな風になるかは、なんとなく想像がつくからな。
「異なる力、まったく違う運命の流れを持つ世界同士が衝突すれば、対消滅を起こしてしまうかもしれん」
「つい……しょうめつ?」
聞き慣れない言葉だった。「しょうめつ」は消滅だろう。「つい」とはなんだ。意図せずやってしまう、「つい、消滅しちゃいました」みたいなことが起こるのか。我ながら、意味がわからん。
「文字通り、消え去るのだ。妾の世界と貴様の世界双方の、現在も過去も未来も、なにもかも」
「な……」
そんな馬鹿なことが起こるのだろうか。次元がどうとかいう話はよくわからないが、まったく異なる世界同士が衝突するなんて。待て。こいつが嘘を言っている可能性だって――
俺はゾーハルの顔を盗み見た。口惜しさがにじみ出ている。考えてみれば神がそんな嘘を吐いてなにになるというのか。やはりゾーハルの言うことを信じるしかないのだろう。それに、彼女がこの世界にやってきた、ということは、だ。
「止める方法は、あるんだろう?」
ゾーハルが大きく頷いた。
「無論。なければ、そもそもの原因である貴様の顔など見に来ると思うか」
「嫌味はよしてくれよ。で、どうやって止める?」
元を辿れば、俺を異世界に召喚したグベルトが原因とも思えるが、友を、ましてや死人を悪く言うもんじゃあないからな。俺は話の腰を折ることはせず、ゾーハルに続きを促した。
「それを説明するには、まず両世界の成り立ちについて、ある程度理解しておく必要がある」
「ふむふむ」
ゾーハルは道の端に寄り、民家のフェンスに寄りかかった。スクールバッグからルーズリーフとペンを取り出すと、隣に来るよう顎をしゃくってみせた。
「よいか。世界は常に一定方向に流れる時間軸に沿って成長してゆく。簡単に図示すると、このように巨大な逆円錐状となっているのだ」
「ふむふむ」
ルーズリーフにヘタクソな円錐と、うねった矢印が描かれた。「じかん」「せかい」などは平仮名で書かれていた。
「妾の世界と貴様の世界は隣同士だ。両世界の接近は、妾がこの世界に注いだ膨大な力に引っ張られたせいで起こったと考えてよい。そのせいで互いの世界が歪み、亀裂も生じたようだ。部分的な接点では互いの世界に存在する力が混ざっていて、すでに影響が出ている地域もある……まずはそうした綻びを正していく必要があるな」
「ふむふむ」
「修繕が済んだら、世界を引っ張ってもとの位置に戻してやればよい。それには時空相転移の秘儀をだな――」
「ふむふむ」
「とっぺんぱらりのプー太郎にラーメンを出前してもらえば、万事解決だ」
「ふむふぐほぇッ!?」
鳩尾に強烈な打撃を食らった。痛い。すごく痛いし、胃液がちょっと逆流してきた。女のくせに――いや、女神か。とんでもない腕力だ。考えてみれば、異世界から戻った俺の身体は、魔法で強化もされていない帰宅部の萎えたボディーなのだ。恥ずかしながら、ちょっと涙が出た。ちょっとだぞ!
「真面目に聞いておらぬからよ! はあ。まあよい。そろそろ行くぞ」
「行くぞ、って――うおッ!?」
ゾーハルが視界から消え、直後、背中に衝撃が走った。
「さあ、走れ! 遅刻してしまうぞ?」
「ぐあ! ま、待て! おんぶする必要はないだろ!」
ゾーハルは、びょん、と跳んだかと思うと、俺の背におぶさってきたのだ。小柄な見た目通り重量はさほど感じなかったものの、だぼだぼのパジャマやブレザーの上からではわからなかった膨らみが容赦なく背中に押し付けられ、その感触が俺の思考をかき乱した。加えて彼女がずり落ちないように反射的に支えた手は、太腿の裏辺りに回されていた。冷気で冷えた手が感じる、柔らかな感触と温もりが冷静な判断力を奪う。
「貴様ら人間と違って、妾は地べたを歩き回るようにはできておらん。それに――」
ゾーハルがいったん言葉を切り、耳元に顔を寄せてきた。俺の背中とやつの身体がさらに密着する。ぞわっとしたのは、不快だからだ! そうに決まっている!
「美女に身体を預けられて、不快ということもあるまい?」
「ちくしょう! 耳に息を吹きかけるな!」
「ふふん。そんなに悦ぶな。ほれ、ふぅー」
「ああああ!」
異世界を救った勇者にも弱点はある。久方ぶり――最後に王妃と致したのは十年も前だ――の刺激に、目いっぱいの反応をしてしまう。
「おっとっと。ともかく行け。世界のことは昼休みにでも話してやろう――というか、本当に間に合わんぞ?」
のけ反る俺の背から落ちないよう、ゾーハルがしがみつくように腕を回してくる。俺に見えるようにした彼女の左手首には、どこで手に入れたのか高級ブランド「ガリブル」の腕時計が光っていた。授業開始まで十分もない。
「くそっ! 校門の近くまで行ったら降りろよな!」
こうなりゃヤケだ。
俺は異世界からやってきた女神を背負い、駆け出した。