女神と登校中のこと1
「ちょっと、どうしたの?」
凛子が手を拭きながら、怪訝な顔で振り返った。
「んん?」
親父は新聞から顔を上げ、「ああ、おはよう」とだけ言った。
「『おはよう』じゃねーだろ! 凛姉も!」
食卓をバンバンと叩いて警告するが、
「……なにが?」
ゾーハルと俺を交互に見た凛子は、ますます怪訝な表情になった。
「これが、だ!」
俺は澄ました顔でみそ汁を啜る女を指差した。親父も凛子も、朝から騒ぎ立てる俺を迷惑そうに見ている。どういうことかわからんが、家族が揃う食卓に、異世界の女神が水玉模様のパジャマでおじゃましていることに関して、強烈な違和感を持ったのは俺だけらしい。
「おじさまぁ。タイガくんがこわぁい」
ゾーハルが鼻にかかった悲鳴を上げ、すすす、と親父に身を寄せた。
おじさまと呼ばれた親父は一瞬にして相好を崩した。だらしなく鼻の下が伸びている。だが、すぐに咳払いをして正面――俺を見据えた。
「こら、大河。ハルカちゃんが怖がっているじゃないか」
「…………」
俺を叱責した親父の眼は、笑っていなかった。そのギャップが逆に恥ずかしいし、実の息子よりも他人――いや、人ですらない存在の方が大事か。
いやいや。今大事なのは、そういう話じゃない。
「……ちっ。わーったよ」
これ以上騒いでも、場の雰囲気と俺の立場が悪くなるだけだろうと判断し、俺は座った。少々動揺しても、すぐに落ち着けるようになったのは王様暮らしが長かったおかげだ。どんなときでもどっしりと構え、臣民を不安にさせないように――
「ああ、びっくりした」
「お前な……」
お前を安心させるためにやってるわけじゃない。勘違いするな。わざとらしく胸を撫で下ろすゾーハルに文句の一つも言ってやろうと口を開くと、
「大河。きちんと謝りなさい」
「…………」
親父から援護射撃を食らった。
しつけーな。開いた口が塞がらないとはこのことだぜ。
だがもう騒いでも無駄な事は十分わかった。二十年ぶりの我が家に構築された新しいカーストの謎を解くためにも、一度冷静にならねば。
「……すまん」
ゾーハルとは目を合わせず、ぼそっと言ってやった。
「お前、きちんと――」
どこまでゾーハルに毒されているんだ、親父。勘弁してくれ。
「大丈夫です、おじさま。タイガくんはきっと、私が『いただきますの儀式』のとき、手を合わせなかったから怒っているのよ」
ゾーハルがにっこりと微笑んで、今にも勃発しそうな親子喧嘩の仲裁に入った。つーか、そんな理由では怒らないし、そもそも怒っているわけではない。だが、親父の顔を見る限り、この場を治めるにはゾーハルに機転を利用する以外にないようだ。
「そうよね?」
念を押すというか、畳みかけるようにゾーハルが微笑む。
「……ああ」
なにが「いただきますの儀式」だ。心の内で舌を出す。
しかし俺の内心はどうあれ、親父はゾーハルのとりなしで矛を収める気になったのか、再び新聞に視線を落とした。一面記事は「謎の失踪事件相次ぐ! 現場には血痕と謎の爪痕!!」という見出しが躍っていた。経済新聞の一面記事としては違和感たっぷりの記事だと思うが、そもそも俺が異世界に旅立つ前に、こんな事件あっただろうか。
「さ。急いで食べなくちゃ」
ゾーハルも満足そうに頷き、図々しくもテーブルの真ん中のお新香に箸を伸ばす。
いったいぜんたい、なにがどうなってやがる。
急激に味を失った朝食を無理やり咀嚼しながらゾーハルを睨むが、異世界の女神は俺を無視して涼しい顔だ。一口ごとに凛子の料理を褒めたり、朝食を平らげた親父に「いってらっしゃい」などと言ったりして、笑顔を振りまいていた。
◇
「……説明しろ」
カレンダーで確認した日付は西暦二千××年、十一月二十二日の月曜日。当然だが高校へ行かねばならない俺は、朝食を済ませると、久方ぶりの制服に袖を通して家を出た。そして、当然のように俺が通う市立穴勝高校の女生徒の恰好をして、「行ってきまぁす」と元気な声を残してついてきたゾーハルを振り返った。
「ふん。貴様がその不敬な態度を改めるなら、な」
先ほどまでの甘えた態度からは一転して、尊大で鼻持ちならない女神がそこにいた。だがこれでいい。かまととぶった美少女を糾弾するより、このほうがよほどやりやすいというものだ。
「なにが不敬だ。どうして異世界の神が俺の家にいて、穴勝の制服を着て道を歩いている? 異世界観光でもするつもりか」
二十年ぶりに手にしたスクールバッグを肩に担ぎ、凄んでみせた。この世界は俺のものだ、とかいうつもりはないが、ゾーハルは完全に異物だ。それが俺の家にいて、受け入れられているという状況はどう考えても異常事態だ。
「お前……俺の家族になにをした?」
「たいしたことではない。ちょっとした記憶と情報の操作をしただけのことだ」
それって、頭の中をいじくったってことだろう!?
「てめえ――」
「落ち着け。危険はない」
少し先を歩いていたゾーハルが振り返ってため息交じりに言った。少し冷たい風が吹いてきて、日本人にはあるまじき銀髪が広がり、秋の陽光を反射してキラキラと輝いた。透明感のある肌に緋色の瞳が放つ光、少しいじわるそうに吊り上げた薄桃色の唇が色を添え、神々しい輝きを放つその美しさに思わず見惚れそうになり、首をぶんぶんと振って邪念を追い出した。
「いいか、ゾーハル。謎かけに付き合ってやるつもりはないぞ。俺はあんたの世界を救った。もう用はないはずだ」
「うぬぼれるな。貴様に用があったからといって、わざわざこんな空気の悪い世界になど来るものか」
なんだ。俺にまた世界をどうこうさせるつもりかと思ったが、拍子抜けだな。断じて、残念なんて思ってないからな。
「ふん。歩きながら話すぞ。時間が惜しい」
腰に手を当てて不機嫌そうに鼻を鳴らすと、ゾーハルが踵を返して歩き出した。形のいいヒップと膝上スカートが揺れていた。