不幸な怪物のこと
「ふっ。どうだった、タイガよ」
ゾーハルが、爪楊枝を使って「シーシー」言いながらこちらを振り返った。彼女は二十四時間営業のファミレス、「DONASAN’S」にて定食や丼もの、デザートなどを都合五人前も平らげたのだ。
それは腹の中にブラックホールでも口を開けているのでは、という食いっぷりだったが、そちらよりもゾーハルを「捜査官どの!」と呼称し、彼女が何をやっても称賛する警官――黄島の方が不気味で異様だった。
「お前の魔法の凄さは、よくわかったさ」
お世辞を言ってやると、ゾーハルはふぅん、とつまらなそうに言ってから、会計を済ませ、青い顔で店を出てきた黄島を見やってから、口を開いた。
「妾は米国の連邦捜査局から秘密裏に派遣されたエージェント、ということにしてある。怪しい事件を追っていくのに、警察内部に協力者がいれば都合がいいだろう?」
「まあ、な」
ファミレスでの会話で、黄島の階級は巡査長だと判明していた。
彼は八足北公園から三百メートルほど北にある交番に勤務していて、三か月前に公衆トイレの清掃員が時計などの貴金属を見つけて届けてきたことを不審に思い、トイレで謎の爪痕を発見したのだった。
念のため保健所に連絡し、けして綿密とはいえない捜査が行われ、爪を持つ生き物は特定できなかった。野良犬かなにかに襲われ、慌てて逃げ出したのだろう――すでに清掃が済んでいた公衆トイレでは、足跡や争った形跡などを発見することはできず、黄島はそんな結論に落ち着くことにして、落とし主が名乗り出てくるのを待った。
その後、八足町内で四人の男女が行方不明となり、同様の事件が起きていないかという問い合わせを受けた黄島は初めて、自分が連続誘拐事件の現場を目の当たりにしていたことを知る。
それからというもの、黄島は夜ごとあの公衆トイレと公園の周辺を見回っており、警邏の途中や非番を利用して周囲住民への聞き込みなどを独自に行っていたのだった。
「地道な捜査の勝利……ってやつか」
「うむ。妾の目に、狂いはなかったな」
「頭の中を覗いたから、わかっただけだろ」
ゾーハルが黄島の記憶を読んでわかったことは、次のような事実だった。
黄島は延べ百軒以上の家を訪ねて回り、事件の前後に不審なことはなかったか、何か目撃されたことはなかったか、などを調べた。結果、複数の住民が「黒い肌の女」を目撃していたことがわかった。八足町に居住している外国人は少なく、グラマラスなボディーを持つその女を複数の男性が記憶にとどめていたのだ。また、黄島は気にも留めていなかったが、事件当夜、「公園で幽霊を見た」という証言も得られていた。
「幽鬼を従えた、黒い肌の女――探すべき怪物が確定したな」
「ああ。奴が相手なら、探し出すのは簡単さ……」
残務があるから、と足早に去っていく黄島を見送った俺たちは、白み始めた空を見上げながら歩いていた。夜中に外出しての探偵ごっこだったが、それなり以上の成果はあっただろう。しかし、陽光を遮る雲一つなく快晴の兆しを見せる空とは対称的に、俺の心には暗い影が差していた。
幽鬼――それは強い怨念を持って死んだ者や呪いによって死んだ者の魂が、強い魔力をもって再び現世に現れた怪物のことだ。幽鬼のほとんどは、生者全体を深く憎んで襲いかかってくる。生前の自我は崩壊し、まさしく怪物と呼ばれるにふさわしい姿ものが多い。しかし中には、生前の人格を止めているものも存在するのだ。
俺はかつて異世界で、自我を保っている女の幽鬼と出逢った。彼女は何を勘違いしたのか怪物としての高みを目指して修行をし、膨大な魔力を身につけていた。彼女は自らを魔導士と称し、ついには肉体を再生させることに成功していたのだ。
彼女は怪物には違いないが、俺は人ならざるものが人の形をとったときにのみ現れる独特の美しさ、というものを彼女から教わった。
数多の幽鬼を従え、異世界の僻地で魔導の道を極めんとしていた彼女の名は、ユリーシァ。気高くも美しく、そしてとことん不幸な女だった。
俺は、異世界から紛れ込んできた怪物が、彼女ではないかと考えていた。異世界広しといえども、幽鬼なんて危険な怪物を使役していたのは彼女くらいのものだからな。DONASAN’Sで黄島がトイレに立った隙にその話をしたら、ゾーハルも同意していた。
だが本当に、五人の八足町民を攫ったのが彼女だとしたら……
「どうした。浮かない顔だな」
ゾーハルが下から顔を覗き込んでくる。
「なんでもないさ」
「妾が、魔法を使ったからか?」
「…………」
正直に言うと、それもある。結局、ゾーハルの魔法の被害者が一人増えてしまったことは残念でならない。だが、俺の心を本当に曇らせているのは、それとは別の話だ。
「なあ。怪物は、どうやってこの世界に入り込むんだ?」
「世界の裂け目を通ったか、それが生じたときにたまたまその場に居合わせてしまったのか……そんなところだ」
「じゃあ、不幸な事故というか、巻き込まれちまっただけの奴もいるってことか……で、怪物を見つけたらどうするんだ」
これが本題だ。
歩みを止めて訊ねると、ゾーハルは少しだけ進んでこちらを振り返った。
「そんなこと、決まっているだろう」
北から風が吹いてきた。ゾーハルの長い髪が揺れ、普段は隠れている左目が露わになった。妖しく光る赤い魔眼とは違い、高価な宝石でもはめ込んだような、澄んだブルーがそこに輝いていた。
「異世界のものは、この世界から消えてもらうのだ」
当然だろう。
首を傾げたゾーハルは、口元に笑みを湛えてはいたが、見開かれた目の中心に輝く二色の瞳が俺の目に固定されていた。女神のアルカイックスマイルは、有無を言わさぬ彼女の意志を強調しているかのようだった。
「消えてもらうって……殺すのか?」
その迫力に、思わずたじろぎ、ごくりと唾を飲む。
「愚かな。幽鬼どもの王を殺しても、強力な霊体を解き放つことにしかならん。やつには文字通り、消滅してもらう」
予想よりもかなり、ユリーシァを待ち受ける運命は厳しいもののようだ。生前の不幸な人生を嘆き、運命を好転させる研究をしていた彼女が、またしても不幸なめぐり合わせでこの世界にやってきたなんて。
「異世界に戻してやれば、いいんじゃないのか」
ユリーシァは異世界の辺境に館を手に入れ、そこで不幸な運命を変える研究をしていた。彼女は「運命の操作」を最大目標に掲げ、手の平の運命線を書き換えたり、やたらと黄色い小物を揃えたりと、なかなか可愛らしい研究に没頭していたのだ。八足町民はゾーハルの力で元の状態に戻れるのだから、ユリーシァは、最悪この世界に留まってもたいした害にはならないだろう。時々、こっそり人間の生気を吸うだけなら、死人も出ない。
「ダメだな」
しかし、ゾーハルの意志は変わらないようだった。
「貴様の部屋でも言ったように、妾を含めて異世界とこの世界の繋がりを完全に断たねばならん。幽鬼どもの王は怪物というよりは神に近い魔力を秘めていて、非常に危険な存在だ。そして、奴の運命はこの世界に向かって流れている。それを異世界に戻すには、奴以上の力でもって押し戻さねばならないのだ。そしてそれは、世界の衝突と崩壊を早める、という結果を生んでしまう」
「でも、あいつはほとんど無害なんだ。知恵もあるし、見た目は人間と変わらない。戻すのが無理なら、この世界に――」
「馬鹿か」
歯に衣着せない女神の言葉が、俺の希望を打ち砕いた。
「この話は終わりだ。怪物を見つけ、消す。他の選択肢はない……今度こそ……」
「え? 今度こそ?」
「な、なんでもない! 貴様はユリーシァを呼び出せるのだろう! 態勢を整えて、今日中にケリを付けるぞ!」
気になるワードを指摘すると、ゾーハルは青い顔になって喚くように言い、俺に背を向けて歩き出した。