黒髪の魔術師
世界は創世暦千年を数えていた。
神去った時代でこそあれ、未だに魔術を扱う者達が神の存在を繋いでいた。
とは言え、何の制約も無しに魔術が扱えるはずはなく、魔術師たるには素養が必要だった。
魔術は自らの魔力を元手に契約した神との取引で成り立つ。
契約する神は一人の魔術師に一柱のみ。理論上は一柱に限るわけではないが、実際には魔術師が耐えられないことから自然と一柱に定められた。
境界の外側に存在する神と境界の内側にいる魔術師が、魔術師の望む境界の物質と魔力を交換する。これが魔術の基本だ。扱うにはその魔術が必要とするだけの余剰な魔力と、自らの魔力を制御する器用さが必要で、こればかりは先天的な才能なのか、いくら素養を積もうとも補えない。
魔術師になるには才能が要る。
一般の人間でも勉強すればランプに火ぐらいは灯せるようになる。しかしその勉強をするくらいなら、他の勉強をした方が遙かに有意義だというのが一般的な意見でもあった。魔術師学校に入ろうと思えば、全体の魔術師が少ないこともあって門戸が限られ、資金も必要である。在る程度の才能が見出されれば国からの援助で学校へ通うことが出来るが、見出されることなく生活する者達がほとんどだ。
大抵の魔術師は魔術師学校の出で、魔術師学校と言っても、生徒数の問題から一般的な学問科程とを併せた総合学校だ。
学校の他には弟子入りという手もあるが、これは時と場合、師との相性が大きく影響するのでなかなか難しい。
つまるところ、魔術師という存在は貴重なものであり、国としても確実に雇用しておきたい存在だった。
ブライトレットという国は、地図に表せばその中心、四つの大陸に囲まれた海に浮かぶ一つの島に在る。その島の名をディルバ島と言い、北の半分にブライトレット国、南の半分にリヴァー国を有している。
ブライトレット国は希望に満ちているように見えた。
ほんの数年前には一部の地方による内乱で国が乱れもしたが、『王の影』と呼ばれる部隊の暗躍で無事鎮圧された。
今現在、王は善政を敷き民に支持され、特に孤児問題に力を入れて全国の孤児院を充実させている。王妃は既に亡く、現在国外に留学中の王子は少々気難しくあるようだが、皇太子として問題ない。
城内は人々の活気に溢れ、繊細な意匠で細工された壁や隅々まで丁寧に掃除された回廊、豊かさを誇るような城に国としての力もそれなりと思えた。
ブライトレット国の王都ベルタークに王城は在った。深い堀に囲まれた城壁の内側、城に連なり多くの建物が存在する。それらは全て城と一繋がりとなって、どこかしろ一部は城と接している。その中の一つ、城を正面から見て左手に位置する建築物の中庭に面した吹き抜けの渡り廊下を彼らは歩いていた。
「隊長!」
背後からの呼びかけに、その人物は静かに振り返った。
「何か用か」
凛と空気を振るわす声。振り返った動作に一歩遅れ、後頭部で一つに結い上げた夜色の髪が靡いた。真っ直ぐに射抜く瞳も冬の夜空の様にひどく静かだった。
対する人物はくすんだ灰黄色の髪で、長さが足りず結びきれなかった分はそのままに、ばらついた長さの髪を低く一つに結ってある。それでも背中の中程までの長さではあった。この甘さの残る顔立ちの青年は言いたいことがあるのに、何を言ったら良いか分からず口をまごつかせているようであり、事実そうなのだ。
「隊長……」
「クローム、何度も言わすな。隊長では紛らわしい」
口の端を少し上げ、隊長と呼ばれた人物は苦笑に近い表情を作った。そして再び歩き出したのをクロームは慌てて追った。
「ですが! 俺にとっての隊長はユイルス隊長だけですし……って、そうじゃなくて!!」
すれ違う人間が何事かと目線を上げるのに気付き、クロームは口を閉ざした。
前を歩くその人は自分より頭一つ小さく、実年齢ではそうではないが少年めいている。それはこの人物が『時の魔術師』の後継だからだという噂を聞いたが、真偽のほどは確かではない。この国では十六で成人だが、ユイルスはとっくに成人していた。
「そうじゃなくて……」
「聞いたんだな」
背中越しに聞こえた声は落ち着いていた。こんなに慌てている自分がおかしいみたいじゃないかと、クロームが一瞬思ってしまうほどに。
「……本当に、行くんですか」
ほとんど足音のしないユイルスの後ろを、カツカツと靴音を立てて付いて行きながらクロームは目の前でゆらゆらと左右に揺れる黒髪を見た。
とある噂を聞いたのだ。自分の直属の上官であるユイルス隊長が隣国に赴任するという噂を。
「行くよ」
特に感慨にひたるでもなく、淡々と告げられた。日差しの差し込むぎりぎりの場所から外れた所を真っ直ぐに、やや大股で歩く上官をクロームは追う。歩幅はクロームの方が大きく、追うのは苦ではなかったが、振り返らないユイルスがもどかしかった。
渡り廊下の途中でユイルスは中庭に出た。勿論、クロームもそれに続き上官の後ろ姿を視界の正面に入れる。
〝風よ壁となれ〟
その瞬間ピン、と空気が張ったのを肌で感じた。ユイルスが術で防音の壁を作ったのだ。こんな人目の付く場所で術を使えばすぐに分かるようなものだが、この人の使う術は繊細で気を付けなければそこに壁が在るとは気付かない。
ゆったりとユイルスは振り向いた。
「そうだ、私は行く。聞いたんだろう?」
「噂です! 姫様が、ご結婚される……とか。それで隊長が──」
「その通り。私が随行すると決まった」
今度こそ正面から向き合い、真っ直ぐな瞳とぶつかる。
言えば本人は嫌がるかもしれないけれど、綺麗な人だと思う。綺麗な顔立ちの者が多い魔術府の中で何故か目立たないが、この人は飛び抜けて綺麗だ。嘘のない真っ直ぐな目がそう思わせるのだろうか。
「帰って、これるんですか。リヴァーに行って貴方は……!」
「分からない。私が帰るとは考えない方が良い、とは思う。」
恐る恐る問いかけた疑問に返された答えは、あまりにも淡々としていた。
「隊長!!」
「良いんだ。これが陛下の決定ならば、私は従うのみ」
その執着のない物言いにクロームは地団駄を踏みたいくらいだった。どうにかしてこの人の関心を繋ぎ止めたいと思っても、叶わない。
「もしも……もしも、あの人が居たらあなたは行きませんでしたか」
自らのことだというのに、常と同じく淡泊な態度の上官が何よりもどかしく感じ、クロームはふと浮かんだ考えをそのまま口にしてしまった。よく考えれば、言ったことを必ず後悔すると分かっていたというのに。
ユイルスは笑った。痛みを鎮めた昏い瞳で薄く微笑んだ。
「憶測は憶測にしかならない。あいつはもう、居ないのだから」
腰に回した剣帯に差した二振りの中型の剣に触れ、目を伏せた。微かに動いた唇が音のない言葉を紡ぐが、クロームには何と言ったか分からなかった。
「今までお前が私を支えてくれたこと、感謝している」
続いた言葉は別れの文句だった。
「今までなんて……。これからも貴方の副官でいたいのに」
我ながら情けない声だとは思ったが、意識したところで治りはしなかった。ユイルスの薄い笑みは苦笑に近くなる。
「お人好しで素直。お前の良いところだが〝ここ〟では気を付けた方が良い」
「っ、はい!」
「第五分隊を頼む。お前なら大丈夫だ」
「はいっ……!」
ぱん、と一つ腕を軽く叩かれれば自然とクロームに気合いが入った。それでもやるせなさは消えなかったし、隊長が帰らないという不安も消えていない。何よりユイルス自身のことが気掛かりだった。
「では、姫様は」
「あれは弱いから──……困るな」
ユイルスは右手でぐしゃりと前髪をかき上げた。腕の影から見える表情は微かに苦悩しているようだった。
「私は苦手だ。どこか違和感がある」
「美人、ですよね」
「……私は美醜に拘らないから」
ふっと息をつき、「この話は終わりだ」と言って、張り詰めた空気を乱す。軽く指を降るだけで風の壁は崩れ去った。
「出立が決まったら教えてください」
「本当は秘密なんだがな」
肩を竦めた上官に笑い、クロームがふっと目線を逸らした渡り廊下の内側に、こちらを見る人間が居た。金色の髪を綺麗に結い上げた簡素なドレスの少女だ。その渡り廊下の先には魔術府の宿所しかなく、その少女に見覚えのないクロームは自然と見つめてしまった。棘のある鋭い視線に疑問を持ち、危ぶみかけた時、ユイルスが「あの娘は」と呟くのが聞こえた。
「知り合いですか?」
「そう、なるかな」
要領を得ない答えに振り返ると、ユイルスは真っ直ぐに少女と視線を交わしていた。睨み合う、と言っても良いほどだが、ただ静かにその視線は外された。一つ礼をして、少女は歩き去ってしまった。




