歴史の影
目も眩むほどの煌びやかな広い部屋の中、天蓋付きの寝台には紗の覆い布が引かれている。薄い布の向こうに見える人影は、か細くどこか頼りなさを漂わせていた。
「どう、したら……」
風に吹かれれば消えてしまうような声で、娘は無意識に呟いた。寒くもないのに自らの肩を抱き、深く項垂れた娘は、不安に押しつぶされまいと手に力を入れた。
怖い。逃げてしまいたい。でも、この道を選んだのは自分。
こんな時、どうすると決めていた? そう、彼は助けてくれると言った。その言葉に甘えてしまうことになるが、最悪の事態は回避できるはずだ。
心を決め、毅然とした瞳で顔を上げると、顔に掛かった髪が揺れた。堅く閉じていたはずの窓がいつの間にか開き、室内に夜風が強く吹き込んで、天蓋から垂れた布を大きく揺らした。布越しに窓を見た娘は目を瞠った。窓辺に誰かが立っている。
「久しいな」
懐かしい声のような気がした。どこかで聞いたことがある、懐かしい声。
──久しぶり。
胸の裡にこみ上げた感情は波紋のように広がっていく。
──迎えに来てくれたの?
不安から解放される安堵、それ以上に、ここまでだったのかという落胆。そして間に合わなかったという絶望。
娘はまるで自分のものではないような、不可思議な感覚に捕らわれた。
「いや、違う。私の役目はまだ先だ。今宵はお前の意志を聞きに来ただけ」
──なら、間に合うのね。
「時間がないことに代わりはない。どうする?」
──最期まで、生きたい。幸せに生きて欲しい。だから行く。
「お前が生むものが何か解っていてもか」
ざわ、と心が揺れる。娘は自分であって自分でない意識を、別の誰かの中から見ているようだった。
懐かしい誰かは、口に出さない自分の声を正確に聞き取って応えている。
──私の証だもの。そして、〝世界の調停者〟は必然。どこかで生まれる運命、でしょう?
「運命論は嫌いだね。だが、盲目のフェニアも『必然』と視たようだ」
先見の二人に会ったのね、ともう一つの声が呟いた。
「決まったな。あいつを呼ぼう。……実は私は反対じゃないんだ」
微かに笑いを含んだ声は、彼本来の陽気さを見せていた。自分の中のもう一人が、彼に深く感謝をしていることがはっきりと分かる。娘にとっても、彼はまるで他人ではないように感じられる。
「あの人に、凄く迷惑を掛けてしまうけれど……」
初めてその意識が声に出た。二つの意識が、揺るぎながらも重なっていく。
「掛けておけ。あいつは気にしない」
晴れやかな彼の声は、不安を吹き飛ばしてくれる。
ではな、と言うと彼の気配が消えた。もう行ったのだろう。来たのも突然だが、去るのも突然の彼に苦笑したその時、いきなり頭の中に映像が飛び込んだ。
一面が乳白色の世界で私は佇んでいる。
『行くのか』
後ろから掛けられた声音は、深い寂寥感を滲ませていた。
『ごめんなさい』
申し訳ない気持ちで振り向く。でも、私が再びここに立つことは、あなたも知っている。必ず戻ってくるわ、と頷いた私にあなたは、分かっている、と目で応えた。ごめんなさい、でも行かなくては。私が人間を知るために。
『私はいつでもお前のことを思うよ』
私たちは涙を流す必要など無いとしても、その優しさに涙が出そうになる。それを置いて行ってしまう自分は残酷なのだろう。
私もあなたを思う。たとえ、忘れてしまったとしても私はあなたを思っている。
ああ、そうだったのね。不意に鮮明な記憶が蘇った。大事なことを忘れていた。
だって、あなたは私の大切な──
映像が途切れ、意識は元の寝台の上に返ってくる。覆い布を押し広げ、素足を絨毯に降ろして音もなく歩き、窓辺へ立つ。娘は蒼い瞳の端に涙を浮かべながら両手を腹部に当てて重ね、微笑んだ。長い、灰色がかった銀髪が風に揺れた。
──ごめんね、大丈夫。もう迷わないから。
いずれ戻る日が確実に近付いているのだとしても。
その数日後、城内から一人の娘が消えた。