第30話 雪の朝
翌朝のブロアヒンメル王国は夜明け前から降り始めた雪で、地面が薄く雪に覆われていた。
「サンティ! おはよう!」
ヌイーラで久しぶりに雨を見た日とは比べ物にならないくらい、ミディエは声と心を弾ませている。
夜明け前に客間の窓から外の世界が白くなっているのを見ると、食事の前に外に飛び出していた。
宮殿の外には、チャウムの家でもそうであったように、サンティがフィクスムの光を待ちわびていた。
「本物の雪、初めて」
「夜中に降ったようだ。ミディエは寒くないか?」
「平気。シェニムにも雪って降るの?」
「稀だが、数年に一度積もることもある。大樹の葉に白い雪が乗った姿は美しかったぞ。ただ、雪が乗っていてはフィクスムの光を浴びられぬから、オレが叩き落していたが」
サンティにもミディエの喜びが伝染したのか、普段語らないようなことを語った。ただし、それは意図せず感傷的になる話になってしまった。
「さあミディエ。もうすぐ朝食が準備される時刻だ。出発の準備を整えてこい」
「そうね。じゃあ、またあとで」
ミディエはサンティの心中を察してそれだけ言うと宮殿の中に戻っていった。入り口を閉じるときに小さく手を振ったミディエに、サンティは頷いて返した。
「オレはこれからどうなるのだろうな。もう一体のサンクテクォも。ミディエ、オレはお前を失いたくない。だが与えられた命の長さが違う。全く、自分ではままならないことばかりだな、この世は」
サンティは白み始めた空に目を向けて嘆息した。
扉が閉まった後のミディエも、その扉に背中を預けてサンティと同じようなことを思っていた。
「もうサンティと木の実を探して遊ぶこともないのかな。あの日、あんなことが起こらなければピートも。でも、ファンデルが動いたからこそ、サンティは組合の通路にいつもいるようになったんだもんね。なんだか、ままならないことばかり」
ミディエはつい俯いてしまっている自分の頬を両手で叩くと、「よし」と前を向いて部屋に向かった。そして手早く着替えて荷物を手にすると、昨夜夕食を食べた部屋に向かった。その部屋の入り口には、昨日も目にした給仕が立っていた。
「連れのお二人は先程おいでになられて中でお待ちです。お急ぎとのことでしたので食事はすべて配膳致しております」
「ありがとうございます」
ミディエがお辞儀で返すと同時に給仕は扉を開けていた。
厚い壁の宮殿の中は、外の冷気が全く入ってきていない。フォッシリアの力で、充分に室内も温められている。ミディエは上着を腕にかけ、食事と仲間が待つ部屋へと入った。その瞬間、燻された肉の香りが鼻腔をくすぐった。
「ヴェーちゃん、スターク、おはよう。これってもしかして昨日仕留めたガル?」
ミディエは、スタークの顔を見ながら座って聞いた。
「まさか。そう早くは食えん。魚と違って獣は十日ほど経った方が旨いからな。無論我々も昨晩十頭は狩ったが、それはすべて地下に保管されている」
なぜ十日寝かせた方がいいのか、その理由には興味を示さず、ミディエの目は切り分けられる肉に釘付けになっていた。
「アリーチェ・デザータのご飯も美味しいけど、旅に出たらもっと美味しいものばかりで驚きっぱなし」
ミディエの正直な感想にスタークの頬もゆるむ。
扉が開いてイーツが顔をのぞかせると、その表情も柔らかかった。
「皆揃っておるな。近衛騎士団の親子のお陰で、備蓄もできた。干し肉を用意させたから、旅立つときに受け取っていくといい」
「食事の最中にそう言われると、なにやら急かされているようだな」
スタークは苦笑したがイーツは表情を厳しくさせた。
「聖獣サンクテクォは既に外にいる。彼らにとって食事はフィクスムの光だからそうなのだろうが、我々が思っているよりゆっくりしている場合でもないのかもしれんぞ」
「そうだな、エスの方は急ぐ理由は何もないが、シェニムは急いだほうが良いのかもしれん。親父、ミディエ、行けるか?」
イーツとスタークは急いでいたが、ヴェールはその二人を「焦るな」と制した。
「僅かな時を焦ってもしかたあるまい。今まではファンデルに隠れて目立たぬよう動いていたが、その必要もなかろう。ヴォラを使えば、いや、ズィ・ヴォラならシェニムなど四半刻もかからぬ。エスの所へも二刻、いや、一刻と少しで行けるだろう。準備と食事は大事だ」
ヴェールの言葉にイーツも頷いて、全員が円卓を囲んだ。
「正直なことを言えば昨夜久しぶりに剣を振れたのが嬉しくてな、少々調子に乗りすぎた。朝から腹が減っておるのだ」
ヴェールはそう言って豪快に笑った。
「吾輩もここを発つにはもう少し時間がかかる。これでも一応国王なのでな。当然できるだけ急ぐが」
ヴェールもゆっくりしていられる場合ではないと理解している。だが、何事も心に余裕をもって挑まねば実力を発揮できない。ヴェールは焦ることなく、慌てることなく、できる限り早く食事を済ませた。
「待たせたな。先に行ってもらっても良かったのだが」
宮殿の入り口の広間で準備を終えているスタークたちを見て、イーツは扉を開けつつ皆を外へ誘導した。
「陛下はルクイトールをお持ちではないでしょう?」
イーツはミディエが門兵にルクイトールを与えていたのを思い出し、何を求められているのか悟った。
「血が必要だったな」
イーツは頷いてミディエの前に立った。そのイーツの耳の下にルクイトールのフォッシリアをミディエが準備すると、イーツの耳から血が滴り落ちた。ミディエの横に立つヴェールがイーツの耳に指先を向けている。
血を浴びて一瞬揺らいだフォッシリアが、瞬時に固まる。ミディエもこの仕事に随分と慣れた様で、手際が良くなっていた。
「では陛下、試しに繋いでみてください」
「うむ。考えるだけではなく、声に出して話すのだな」
頷いたミディエを見て、イーツ二十歩ほど駆けた所からルクイトールに話しかけた。
「どうだ?」
「大丈夫です。しっかり繋がっています」
それを聞いたイーツは、再び皆の所へは近寄らず、そのままそれぞれの目的地に向かうようルクイトールで話した。
「スターク、先生、ミディエ。それから聖獣サンクテクォ。無理はせず、状況が厳しいようなら体勢を立て直す道を選んでくれ」
ヴェールのことを「先生」と呼んだイーツは、飛び立ちながら本来の姿に戻っていた。
ヴェールは「無論」と答え、スタークとミディエ、サンティに合図してシェニムへと向かった。
空を飛べないサンティは、ミディエを肩に乗せ、ミディエの繋がるズィ・ヴォラの力で飛んでいる。
「ミディエ、イーツが言っていた通りだ。無理はするな。やはりどうも胸騒ぎがする」
他の二人にも聞こえるよう、真剣にそう話すサンティにミディエは頷いた。
「うん。ただ、検石主としての私の役目も果たさないと。イーツが言うアンテの話も気になるし。スタークとヴェーちゃんも居るし、ファンデルより先にシェニムに着くだろうし」
言いながらもミディエもやはり不安に襲われていた。
ミディエが組合の外でバラバラになったピートを見て以降、敵の正体もわからぬまま戦いの予感だけに襲われ続けていた。
そんな中バシリアスが復活させたピートと対峙し、バシリアス本人とも殺し合うところだった。そのバシリアスはもういない。
バシリアスを操っていたファンデルも力を失いつつある。
そして、エスはスタークたちが思っているような存在ではないかもしれないとイーツは言った。彼女の存在は何を意味するのか。
不安はいつでもミディエの胸の中にあった。その都度ミディエはオルビスに触れていた。ファンデルの一部に。
やはり自分もファンデルと同じく眠るべき存在なのか。ノス・クオッドはバルバリとして生き残るべきではなかったのか。ミディエがオルビスに触れながら自問するも、バライデスのオルビスは何も答えない。
悩むミディエに、不意にエスの言葉が胸をよぎる。
「生きたい。あなたたちにも生きてほしい」と。
ミディエは、イーツの「エスはバルバリの民を操る存在」という言葉も思い返し、ある可能性に目を見開いた。
一万年エスを生かし続けたフィクスムの塔。そこへ光を当て続ける三つの巨大な鏡。その鏡を制御している何者かがエスの声の正体だとしたら。
ミディエは憶測が膨れ上がっていくのを、頭を振って消し去った。それを確かめる役目はイーツにある。だが、もしかしたら自分が今肩に座っているこの聖獣なら知っているかもしれない。
「サンティ、フィクスムの塔と、塔に光を当てる巨大な鏡を造ったのって誰?」
「バルバリの民ではないのか? エスとはそもそもバルバリの民の指導者のような存在だろう?」
ミディエの期待に反して、サンティの答えは明瞭さを欠くものだった。
「サンティもはっきりとしたことは知らないのね」
「あの頃はオレだけじゃなく、他の聖獣たちも身の危険を感じてシェニムで身を隠していたからね」
「あっ、そうか。そうだよね」
二体の聖獣の犠牲によって生まれたノス・クオッドと、スキアボス。フィクスムの塔が造られたのは、寿命の長い聖獣にとっては、その後まもなくのことだろう。
ミディエが考えを巡らせる間もずっと、サンティはじっとシェニムの方を、向かう先をまっすぐ見つめている。
「また木の実探し、しようね」
ミディエがそう言っていつも通りサンティの首元に顔をうずめる。外側の毛には雪が付いていて冷たかったが、その奥はいつもより温かかった。
「ああ。シェニムでの用事はすぐに済むだろう。その後にいくらでもできるさ」
「うん、そうだね」
サンティは気休めでそういうことを言う存在ではない。サンティがそういうなら間違いない。ミディエも前を見据えた。フィクスムに照らされる明るい世界を。




