砕け散る時間と、拾い集める手
民宿のおばちゃんが、変わらない笑顔で迎えてくれた。
「お帰り。ごはん、すぐに持ってくるね」
壁の時計は十八時を少し回ったところだった。空腹を感じていたはずなのに、運ばれてきた温かい料理も、どこか味がしなかった。
部屋に戻り、窓際の椅子に腰を下ろしてビールのプルタブを引く。シュワッと泡が弾け、冷えた喉を通り過ぎていく。商店街で買ったつまみを口に運び、二本目のプルタブを引いた。半分ほど飲み干し、缶をサイドテーブルに置く。
夜の海はやはり深い。けれど、昨夜のような得体の知れない恐怖は感じなかった。
私はようやく、自分自身の心と、あの残酷な真実に向き合う準備ができたのかもしれない。
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瀬尾漣と店の外のベンチで話していた時だった。遠くに、大きなカバンを二つ抱えた母の姿が見えた。私の顔がこわばるのを、漣君は見逃さなかった。
「……お母さん?」
私が「うん」とだけ答え、立ち上がると、母は私たちの前まで来ると、漣をじっと値踏みするように見て、不快そうに眉をひそめた。
それから私に向かって「行くよ」とだけ告げ、背を向けた。
私は彼を置いて、必死に追いかけた。
「まってよ、お母さん!」
母は足を止め、両手のカバンを地面に下ろすと、冷酷な目で私を振り返った。
「なに?」
私は震える拳を握りしめ、喉の奥から声を絞り出した。
「なんで……なんでお父さんと離婚するの? お父さんが病気で仕事を辞めたから見捨てちゃうの? 家族なのに、どうして助けてあげないの!」
母は呆れたように、そしてバカにするように笑った。
「あんた、何言ってるの? あの男は、病気なんかじゃないわ。会社の女に手を出して、それがバレて会社にいられなくなっただけ。……私がひどい女だと思ってたんでしょう? あなたの目を見ればわかるわよ」
母は私の鼻先まで近づき、低く告げた。
「あなたはお父さんによく似てる。あんな身勝手な男が大好きだものね。でもね、お父さんはあなたと私を捨てて出て行ったのよ」
母の瞳には、かつて私に向けられていた慈しみなど微塵もなかった。
「あんたなんて……生まなければよかった」
理解できなかった。大好きだった父の裏切りも、母の毒を吐くような言葉の意味も。
私の脳裏で、あの時の父の声が響いた。
『これから、家族の時間を刻むんだ』
耳元でその言葉が、音を立てて砕け散る。
気が付くと、私は握りしめていた腕時計を地面に叩きつけていた。
パリン、という乾いた音がして、時計はバラバラに砕け散った。
私の世界も、家族という時間も、すべてがその破片と一緒に足元で死んでいった。




