第十四話:学び舎の記憶と、雨の校庭
「うん……うん、ありがとう。帰ったら、また連絡するよ」
そう言って電話を切ると、耳元に残る結衣の温かな響きに、凍りついていた心臓がゆっくりと動き出したような気がした。
もしあの時、結衣からの電話がなかったら。私は一体、どうなっていたんだろう。
一度深く息を吐き出し、私はアパートを背にして元の道を戻り始めた。
来た時よりも、ほんの少しだけ足取りが軽い。いや、強くなったのだ。自分で閉ざしてきた心の扉を、もう一度、自分の手で開け放たなくてはならない。
坂を下りきると、分かれ道があった。商店街へと続く道と、懐かしい学校へと続く道。
「……帰りは、学校の方を回ってみよう」
独り言をこぼし、私は来た時とは反対のルートへ足を進めた。
鬱蒼と木の生い茂る細い小道を抜けると、視界がパッと開けた。
そこには、かつての学び舎が、あの時のままで私を待ち構えていた。
雨に濡れた校舎は、どこか寂しげに灰色に沈んでいる。けれど、昇降口の庇や、窓ガラスの歪み、そしてあの日、私が全速力で駆け抜けた校門。
何もかもが、あの頃のまま。
私はゆっくりと校門の前に歩み寄り、冷たい鉄の柵にそっと触れた。
当時はあんなにも広く感じられた校庭も、今こうして見ると驚くほど狭く感じる。雨に打たれ、泥を吸い込んだ砂地には、いくつもの小さな水たまりができていた。あの頃、毎日のようにこの校庭で鬼ごっこをして、泥だらけになって笑い合っていた光景が、まるで昨日のことのように蘇る。
校舎を見上げれば、無機質なコンクリートの壁が雨を吸って濃い灰色に染まっていた。二階の端、あの日まで私が座っていた教室の窓を凝視する。今にも、チャイムの音や、先生の単調な声、そして窓の外から吹き込む春の風の匂いまでしてきそうだ。
昇降口の先の薄暗い通路も、図書室へ向かう階段の踊り場も、今はもう誰の足音も響かない。そこには、幼い私たちが置いてきた、キラキラとした時間だけが静かに眠っているようだった。
大人になった今、この静まり返った学び舎を眺めていると、まるで時だけが取り残されたような不思議な心地になる。あの頃の私は、この場所が永遠に続くものだと信じて疑わなかった。
私はしばらくの間、傘を差したまま立ち尽くし、雨の音に混じる微かな懐かしさを胸いっぱいに吸い込んだ。ここには、間違いなく私の「始まり」があったのだと、静かに確認するように。




