第十三話:雨の境界線と、遠い呼び声
アパートの前に立ち、かつての我が家を見上げる。雨脚は一段と強まり、傘を差していても、巻き込んだ雨の雫が顔に冷たく当たった。ところどころ老朽化は進んでいるが、あの頃と変わらず、私たちの居場所はたしかにここにあった。
……あの日。漣君とベンチで話した後、私はどうしたのだろう。
記憶の糸を手繰り寄せようとした瞬間、カバンの中でスマホが激しく震えた。液晶画面に浮かび上がったのは、見慣れた『結衣』の文字。
佐倉結衣。幼稚園の頃からの幼馴染だ。小さい頃は何をするのも一緒だったけれど、小学校高学年でクラスが離れてからは、少しずつ疎遠になってしまっていた。
中学校を卒業後、県内の進学校に進学した私は、そこで懐かしい顔と出会った。それが、再会した結衣だった。今の私にとって、彼女は唯一、心を許せる親友だ。
「……もし、もし」
自分でも驚くほど、消え入りそうな声で電話に出た。
『やっと出た。栞……っ、心配したんだからね』
受話器越しでも、彼女の声が潤んでいるのが分かった。
「ごめん……」
『あんた……今、岬町にいるんでしょ』
心臓がドクンと跳ねた。「なんで、知ってるの?」
『バイトの後輩の……太陽君だっけ。最初は知らないって言い張ってたけど、私の剣幕に負けて白状したわ。あの子、本当にあんたのこと心配してたわよ』
「そう……」
『せめて、私にくらい言ってほしかったよ』
責めるような、けれど泣き出しそうな結衣の言葉に、私はまた「ごめん」と繰り返した。
結衣を信用していないわけじゃない。むしろ、彼女以上に信頼できる人間なんて他にいない。けれど、だからこそ言えなかった。私の心の最深部に沈殿している、この醜い塊を、彼女にだけは見せたくなかったのだ。
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思えば、結衣との再会は救いそのものだった。
母は私を育てるために、昼はスーパーのレジ打ち、夜は食品工場のパートを掛け持ちしていた。私は夜遅く帰る母を起こさぬよう、音を立てずに家を出る。そんな生活の中で、顔を合わせることは驚くほど少なくなっていた。
今なら、母も私の顔を見るのが辛かったのかもしれないと冷静に思える。けれど当時の私は、ただ孤独だった。会話のない味気ない食卓。行事にも来ない母。私は孤独の中で勉強し、高校へ進学した。
「お母さんは元気?」
高校の入学式後、結衣は私の席まで来て、そう尋ねてきた。
一瞬、言葉に詰まる。「……うん、元気だよ」
私は、聞かれてもいないのに、傷つくのが怖くてまくしたてるように続けた。
「実はうちの両親離婚しちゃってさ。今はお母さんと二人暮らし。……まあ、別に何もないんだけどね! 別れる前は喧嘩ばっかりで、どっちかっていうと早く離婚しろよって思ってたくらいだし」
私はケラケラと、何も感じていない風を装って笑った。
結衣が一度だけ悲しそうな顔をした気がしたが、すぐにいつもの顔に戻り、「そっか。大人の事情ってやつよね。気にしてもしょうがないよ」と笑ってくれた。
私の心に沈んだ醜い塊を、それが生まれた瞬間を知らない彼女は、ただ優しく受け止めてくれた。
この頃からずっと、私は結衣のその優しさに救われていたのだ。




