第十二話:同じ空の下、二人の秘密
私はゴミ箱の底から時計をひっつかみ、玄関へ駆け出す。
荒く靴を履き、ドアを開けるその瞬間、一度だけ後ろを振り返った。けれど、そこにはもう、母の姿はなかった。
つい先ほど、淡い幸せを抱いて駆け上がった坂道を、今は絶望に打ちひしがれながら下っていく。
商店街の入り口、あの黄色い壁のお店の前まで辿り着いたとき、不意に声をかけられた。
「……深山、さん」
振り向くと、そこには瀬尾漣が立っていた。
私の顔を見た瞬間、彼の表情が痛ましげに曇る。
同級生に、こんな惨めな泣き顔なんて見せたくない。けれど、溢れ出す涙を止める術を、あの時の私は持っていなかった。
促されるまま、店の外にある古びたベンチに二人で腰を下ろした。
彼は何も聞かなかった。ただ黙って、私の隣に座ってくれた。その沈黙が、今の私には何よりも優しかった。
少し落ち着いてから、私は今日あったことを、ぽつりぽつりと彼に話した。
彼は「そうか……」とだけ呟いて、空を見上げた。
私も、つられて視線を上げる。吸い込まれそうなほど青く、どこまでも高い空。
このまま、あの青に溶けて消えてしまいたい――そうとさえ思えた。凪や他のクラスメイトたちにとって、この色はきっと、輝かしい門出を祝う「温かい色」として記憶に残るのだろう。
「俺の親父……時計職人なんだ」
漣が、自分のことを話し始めた。
「俺が小さい頃にオフクロは死んだ。だから、顔も知らない」
「親父はそれから一人で俺を育ててくれたけど……喧嘩っ早くて、すぐに仕事をクビになる。そのたびに職を探して、別の街に移り住むんだ。だから俺、転校ばっかりで」
「友達も……できたこと、ないし」
彼はまた、遠い空を見た。彼も私と同じように、この青に吸い込まれたいと願っているのだろうか。
「家事なんて全然やらないし、シャツも何日も洗ってくれないんだ。だから……ごめん。臭かっただろ?」
恥ずかしそうに私を覗き込む彼に、「うん」と答えて、二人で小さく笑った。
二度目の、彼の笑顔。普段は見せないその優しい眼差しに、私の心臓が小さく跳ねる。
「今日だってさ、卒業式なの忘れてるんだぜ」
彼はまた、困ったように笑った。
「私の母さんも……」と言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。彼のお父さんの「忘れている」と、私の母の「忘れている」は、似ているようで決定的に違う気がしたから。
「でもさ……」
ベンチから立ち上がり、大きな伸びをした彼が、こちらを振り返った。
「時計を直してる時の親父は、世界で一番かっこいいんだ」
混じり気のない誇らしさを湛えた彼の笑顔。
その向こう側に広がる青空が、さっきとは少しだけ違う色に見えた。




