第十一話:空っぽの部屋と、捨てられた時間
アパートへと続く坂道。そこは、あの頃と何も変わっていなかった。
舗装されていないガタガタの道。幼い頃、ここで何度も躓いて膝を擦りむいたことを思い出す。
私は、心の奥深くに固く閉ざしていた扉を、ゆっくりと解き放った。
長い間、閉じ込められていた記憶が、かび臭い湿り気を纏って一気に溢れ出してくる。
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式には来られなかったけれど、家に帰れば、きっと母が豪華な料理を準備して待ってくれている。父と二人で「おめでとう」と迎えてくれる。
そんな淡い期待を胸に、私はアパートへと続く坂道を駆け上がっていた。
途中で躓きそうになり、必死に足を踏ん張る。
視界の先に、見慣れたアパートの屋根と、その向こうに広がる突き抜けるような青空が見えた。私は、胸のざわつきを打ち消すように、大きく深呼吸をした。
家のドアを、勢いよく開ける。
「ただいま!!」
弾んだ声を出して、耳を澄ませる。「お帰り」という二人の声が重なって聞こえる――はずだった。
けれど、目の前に広がっていたのは、ガランとした見知らぬ空間だった。
部屋の中央には、口を閉じた段ボールが幾つも積み上げられている。食卓の上には、一枚の紙切れ。幼い私にも、それがこれまでの「家族」を終わらせるための事務的な書類であることくらいは、すぐに分かった。
「あら……お帰り」
いつの間にか、母が後ろに立っていた。
私の右手にある卒業証書の筒を見て、「……卒業式、だったわね」と他人事のように呟いた。
ああ、お母さんは。そんなことすら、忘れていたんだ。
込み上げる熱い感情を喉の奥で押し殺し、私は聞いた。
「お父さんは?」
母は私と視線を合わせることもなく、「さあ?」とだけ言った。
視界が、急激に滲んでいく。
ピンポーン、と無機質なチャイムが鳴り、「引越センターです」と若い男たちが土足同然で入ってきた。
母の淡々とした指示に従い、彼らは手際よく荷物を運び出していく。あっという間に、家の中から生活の痕跡が消えていく。
「あなたの部屋も片付けておいたから」
その言葉にハッとして、私は自分の部屋に駆け込んだ。
ない。
棚の上に置いてあった、あの時計がない。
リビングに戻り、感情を剥き出しにして母を問い詰めた。
「私の時計、どこにやったの!?」
「ああ……あれ」
母は面倒そうに、部屋の隅にある大きなゴミ箱を指差した。
引っ越しで出た不用品やゴミと一緒に、私の「家族の時間」は、無造作に捨てられていた。




