第九話:雨の日のショーウィンドウと、父の背中
あれは、母に買い物を頼まれた日のことだ。
商店街の個人商店で買い物を済ませると、店のおばあさんが「栞ちゃんは偉いねぇ。お母さんのお手伝い?」と微笑み、惣菜のコロッケを二つ、おまけしてくれた。
帰って母と一緒に食べよう。そう思って買い物袋の隙間に押し込み、私は帰路についた。
朝から雨が降っていて、私はお気に入りのピンクの傘を差していた。
母はどちらかと言えば過保護な方で、私を一人で買い物に行かせるような人ではなかった。けれど、その日は朝からひどく塞ぎ込んでいて、学校から帰った私に小さなメモと千円札を渡し、掠れた声でこう言ったのだ。
「ごめん……ちょっと、買い物をお願いできる?」
思えば、あの頃から母の心は、少しずつ壊れ始めていたのかもしれない。
商店街を抜けようとした時、黄色の壁のお店の前で、見覚えのある人影を見つけた。
そこは時計の販売と修理を営む店で、父が「家族の証」としてあの時計を買ってくれた場所だった。かつての私にとって、大好きだった黄色い壁のお店。
隣まで近づいて、その影が瀬尾漣だと分かった。
彼は店の窓から、食い入るように中を覗き込んでいた。
「瀬尾くん?」
思わず声が出た。彼は私の方を振り返り、小さく呟いた。
「……深山さんか」
「何してるの?」
彼の隣に立ち、私も一緒に窓から中を覗き込む。
店内では、一人の男性が時計を修理していた。
片目に小さなルーペを挟み込み、ピンセットで繊細な部品を丁寧にはめ込んでいく。その指先の動きは、魔法のようだった。
「かっこいいね」
私が素直な感想を漏らすと、彼はほんの少しだけ口角を上げた。
「あれ……俺の親父なんだ」
初めて見る、彼の誇らしげな笑顔だった。
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あの日と同じ雨の中。
私は、くすんだ黄色の壁についた大きな窓から、再び中を覗き込む。
今の店内はひどく雑然としていて、主を失った棚や机が、埃を被ったまま放置されていた。魔法使いのようなあの父親も、隣で笑っていたはずの彼も、もうどこにもいない。
心臓が、早鐘を打つ。
あの日……あの後、私はどうやって帰ったのだろう。
どうして、この温かな光景の後の記憶が、真っ白に抜け落ちているのだろう。




