引退した魔法使いの、今日も晴れ
──今日も、朝がきた。
小鳥のさえずりと、パンの焼ける香ばしい匂い。
ルオの一日は、そんな音と香りに包まれて始まる。
木造りの小屋のキッチンで、ぷぅんと膨らんだパンを取り出しながら、彼は静かにため息をついた。
「うん。今日も焼き加減は完璧」
元・王宮魔導士とは思えないセリフである。
もう五年前になる。
長い戦いの時代が終わり、王都の宮廷魔導団が解散。
平和が戻った代わりに、彼のような戦う魔法使いは、徐々に役目を終えていった。
ルオは迷わず、田舎の村に小さな家を建てた。
魔法なんていらない。
火も、風も、氷も、今はただパンを焼くために使えればいい。
そう思っていた、ある春の日のことだった。
──ドン! と、ドアが蹴破られた。
「あなたがルオさんですね! 弟子にしてほしいんですっ!」
「おいおい、ドアはノックしてくれ」
現れたのは、赤毛のおさげ髪、肩に大きな杖を抱えた小柄な少女だった。
「わたし、マリーっていいます! 魔法の修行がしたくて……王都では教えてもらえなかったから、ここまで来ました!」
「……どうして、俺のことを?」
「師匠だった先生が言ってました! 本物の魔法は、静かな村に眠ってる、って!」
「それって……俺のこと?」
「きっとそうです! だって、この家、すごく魔力が濃いもん!」
マリーは鼻をふんすん鳴らしながら、キッチンを見まわした。
ルオは思わず苦笑した。
戦場を何度も渡ってきた伝説の魔導士に、弟子志願とは……。
「俺はもう引退した身だ。今は畑とパンの焼き方しか教えられないぞ」
「それでもいいですっ!」
かくして、ルオののんびりスローライフは、ちょっとうるさい弟子付きにアップグレードされた。
*
「ねえ師匠! この魔法陣、ここの線が変です!」
「そこはわざと曲げてる。風の流れを逃がすためだ」
「へえ〜、風って、逃がすんですね」
「そうだ。無理やり閉じ込めると、風も怒る」
「魔法って、やさしいんですね」
「料理と一緒だ。火も水も、押し付けじゃダメなんだよ」
そんな会話をしながら、マリーはルオの手伝いをするようになった。
畑に種をまき、薬草を干し、鳥小屋の掃除もこなす。
夜には焚き火の前で、一緒にハーブティーをすする。
「師匠、どうして戦わなくなったんですか?」
「……争うための魔法ばかり使ってたら、笑えなくなった」
「でも、魔法って人を助けるためにも使えますよね?」
「今はそう信じられるようになった」
マリーはこくこくと頷いた。
「わたし、笑える魔法使いになりたいです!」
「……なら、明日はパンを焼く魔法からだな」
「えっ、魔法でパン……?」
*
「ううぅ、むずかしい……」
マリーの火の魔法は強すぎて、パンが黒コゲになること三回目。
「火を出すんじゃない、熱をつくるんだ」
「熱……あ、じんわり、ってことですか?」
「そう。太陽みたいに、焦らずゆっくり」
魔法陣を小さく描き、手をかざすと、生地がふわりと膨らむ。
「できた!」
「……ちゃんと焼けたな」
マリーは目を輝かせて、自分で焼いたパンをかじる。
「ふわふわ! あまいっ!」
ルオは小さく笑った。
「お前の笑顔が一番甘いな」
「えっ……!?」
「……いや、砂糖の話だ。多めだったろ?」
「……う、うん!」
*
季節は巡り、森に蛍が舞うころ。
「師匠、わたし、旅に出ようと思うんです」
「……そうか」
「もっとたくさんの人に、笑える魔法を届けたい」
「もう教えることはないな」
「えっ」
「俺のパン、今日のお前よりうまく焼けないからな」
マリーは涙をこらえて、笑った。
「だって……師匠、パンしか焼かないんですもん」
「その通り」
そして翌朝、マリーは旅立った。
肩に杖、背にパンを背負って。
「いってきます、師匠!」
「気をつけろ。火と風と水と、あと雷にも好かれろよ」
「はいっ!」
ルオは、娘のような弟子の背を見送ったあと、いつものようにパンを焼いた。
静かな朝。
けれど、心はどこかあたたかい。
──今日も、晴れ。
まほう使いの一日は、変わらず続いていく。