第42話、マーメイド
数日ぶりにマナンティアル・ダンジョンに戻ってきた。
「うわ……」
第一声がそれだった。都市遺跡を囲む外壁内へ入ったら、足元にまで水が張っていた。入り口すぐにあった高台が水浸しでビビった。
「ここまで水位が上がっているのか……」
塔が水面から複数突き出ている。あとは水没してしまっているが、前回と景色がだいぶ変わって見えて、怖くなってきた。
理由は簡単だ。マーマンがいつ襲ってきてもおかしくないからだ。今襲われたら、入ってきたところから外壁の外へ逃げ出さないと危ない。身を隠せる場所がないからだ。
「来たばかりだが、もう帰りたくなってきた」
モデスト伯爵の依頼できているから、安易な仕事放棄はできないが。
「状況を説明する」
俺はアクアに言う。
「今、遺跡全体は水没している。水の聖女がいる場所への行き先は二つ。水の中に潜り、遺跡中央の穴へ向かう。それか、あのわずかに突き出ている塔のどれかにある転移魔法陣で移動するか」
「転移魔法陣、ですか……?」
「今も転移できる状態かはわからない」
そこへ移動するためにも、結局、この水の上を行くか潜るしかないわけだが。
「何より始末が悪いのは塔に記した目印は下層、つまり底まで潜らないと見えない。ここからでは、どれに魔法陣があるかわからない」
「そうなると――」
「そう」
繰り返すが、潜るしかない。俺は尋ねる。
「水中で呼吸できる飴を持っているって?」
「はい。――どうぞ」
革袋ごと渡された。
「魔法の薬なので、それさえ口に含んでいる間は水中で呼吸もできますし、着衣のままでも泳ぐことができますよ」
「それは凄い」
正直そこまで期待していなかったが、さすが海育ち。そちらでは海に面している分、水中に関して魔法薬の研究が進んでいるんだな。まあ、海がないこのあたりじゃ需要がないから知らないだけで、案外こういうものなのかもしれない。
綺麗な飴色。
「これ、どれくらい保つんだ?」
「一時間くらいですね。最初は溶けるんですけど、中々溶けきらないようになっています」
「ふーん。……あれ、アクアは飴は舐めないのか?」
「わたしはいらないので、大丈夫ですよ」
ブーツを脱ぎ脱ぎ。それを腰の大型ポーチに押し込んで……入った!
「それ、マジックバッグ?」
収納の魔法がかかっていて、見た目と中の容量が一致しない魔法道具である。どう考えても入らないだろうというサイズのものも、重さも気にせず入れられるという旅
の道具にぜひほしいアイテムの一つだ。
……それはそれとして、なんでブーツをしまった?
「ウィロビーさん、わたし、あなたに黙ってたことがあるのですが――」
「はい?」
「秘密にしておいてほしいのですが、わたし、マーメイドです」
何だって? マーメイド――人魚!? アクアはピチャピチャと踝の高さまで水没している高台を歩き、その端に立って水の中を覗き込む。
「マーマンが出るそうですけど、それと味方とかそういうことはないので、安心してください」
すっと端に座ったアクアは、下半身が光ったかと思うと水の中に入った。なんてことだ。彼女の下半身が人魚のそれになった!
「君はいったい……」
「わたしも、ウィロビーさんと同じで水の聖女に用があるんです」
アクアは上半身を水から出して呼びかける。
「ご心配なく、あなたにとっても悪い話ではないですから。間違っても敵ではありません」
うーん、敵ではない、と言われてもな……。正体を自分から明かしたのは感心するが、突然過ぎる。しかもマーマンが襲ってくる場で同じ水中型のマーメイド……。深読みしたくなるが……そもそもマーメイドって、うーん。俺の中で印象がないんだよな。忘れているだけかもしれないが、もしかして初か?
「!?」
アクアが唐突に振り返る。
「ウィロビーさん、急いでください。マーマンの気配です。集まってきているようです……」
それはよろしくないな。すでにここまで水位が上がっている時点で、マーマンが来ないわけがない。ここはダンジョンなのだから。
「ウィロビーさん!」
手を差し出すアクア。その手をとれ、ということなのだろう。ええい、覚悟を決めろ。迷っている時間はない。ここまでの彼女の誠実さに賭けよう。
飴玉を頬張り、そしてアクアの手を握る。そしてドボン、と水の中に引きずり込まれた。深い青い水の中――ああ、口は開けられないけど、何か息ができる。俺、いまどこで呼吸しているんだ……?
『ウィロビーさん、手を離さないように気をつけて』
アクアの声。いやこれは念話か。頭の中に直接話しかけられている。そこで改めて彼女をみれば、下半身はほんとうに人魚そのもの。
スカートだったのは、ひょっとしてこの変身も考慮しての結果だろうか。……そうなると下着は――いや、それは考えないようにしよう。今はそれどころではない。
『仕掛けがあるのは、塔の下のほうでしたね?』
確認してくるアクア。この状況でこれなら敵ではないのは確実っぽいな。俺は下の方を指さして、念話を――
『そう、あの辺りの塔だったと思う。目印が消えてなければ』
『ウィロビーさん、念話が使えるんですか!?』
『この距離でならね』
驚かれてしまったが、まあ遠距離の相手に声と届かせる念話なのに、俺の念話可能距離は狭い。念話が使えると言っても、この程度だから器用貧乏なんだ。
『それより、マーマンが――』
『はい、飛ばします。しっかり捕まってください!
ぐっと掴んだ手が、グンと引っ張られた。水中でアクアが泳いだのだ。マーメイドのそれがあまりにも力強く俺を水の底へ連れて行く。早い早い。このスピード、人間じゃ追いつけないし逃げられないね!
少しずつ大きく見えたマーマンが再び小さくなった。アクアに引かれ、俺は水中をこれまで体験したことがないほどのスピードを体験することになった。




