第8幕 後悔の海の中へ
「ねぇ、もっと奥さんの話聞かせてよ」
しばらくして、相変わらず軽い調子でそう言うルカ。先程まで気分良さそうに鼻歌を歌いながら自分の斜め後ろを歩いていたのに。突然の言葉に横目で彼を見るも、なんとも思ってなさそうな、何も考えていなさそうな呑気な顔で空を見上げていた。腹が立ちつつ少しだけ安心する。彼にとって世間話なのだろう。 ここ数日も歩いている時にくだらない世間話を繰り返していた。その延長線上の話だ。
「奥さんどんな人だったの?」
「…どんなって…」
カインはぼんやりとマチルダのことを考える。愛おしくて最愛の彼女。 彼女を一言で表すとしたらなんだろう、と考え1つの言葉を思い浮かべた。
「……かっこいい人ですよ」
「かっこいい?」
「はい。男っぽいという意味ではなく、真っ直ぐで信念があって、曲がったことが嫌いなかっこいい人です」
彼女のことを思うと自然と笑みがこぼれていることに気づいた。またルカにバレたら恥ずかしいので必死になってポーカーフェイスを装う。
「素敵な人なんだね」
「…はい、俺なんかより立派な人です」
いつだって自分を支えてきてくれた。迷いやすくて、悩みやすい自分が前に進めるように背中を押してくれた。生きる道標となってくれた。そんな立派な人なのだ。 そんな人がどうしてーー。
「誠実な人でした。正直な人だから敵は多くて、でもそんなことは気にしない信念のあって。僕はそんな彼女が大好きで憧れていました」
「憧れてたんだ?」
「はい。僕は彼女みたいに、まっすぐ人と接することはできないから。そんなことできる人少ないと思います。それに彼女は心が真っ白すぎるからーーーー」
「カイン?」
急に言葉が詰まったカインにルカは不思議そうに首を傾げる。思い出してしまったあの日々の後悔。彼女が苦しんだ数年の記憶。全部が走馬灯のように一気に駆け巡った。
「病気なんかじゃなければ、きっと………、」
溢れてしまった言葉が堪らず零れた。カインは慌てて口を噤む。ルカに余計な話をしたくないし嫌な記憶を思い出したくもない。
「(どうか聞こえていないでくれ…)」
そんな願いも虚しくルカは「病気か〜」と呟いた。2人の足音と風が木々を揺らす音しか聞こえない静かな山の中では、独り言のような小さな声でもルカに届いてしまっただろう。
「奥さんは病気で亡くなったの?」
空気の読めない彼はやはりその話題を拾った。カインはため息をつきながら「いえ、」と返す。
「彼女は自殺です」
カサリ、と枯葉を踏む。すっと真実が口から零れた。もう面倒になったのかもしれない。隠すことも、思い出さないようにするのとも。カインはもうなんとも思わなかった。
「…自殺…??それはまたなんで?」
「………………なんで、でしょうね」
彼女は体が強い方だったのだ。風邪なんてひいたことない。それなのにある日家に帰るとマチルダが高熱を出して倒れていた。慌てて村の医者に診てもらったが、医者からもう助からない、彼女は奇病にかかっているなんて言われてしまった。全然信じられなかった。だって彼女はずっと普通だった。一昨日も昨日も今日の朝も、狩りに出かける自分を元気よく見送ってくれたのだ。それなのに、カインには体の調子が悪いことも隠して毎朝水を汲んで家事をしてカインの帰りを待っていたなんて、到底信じられなかった。だからカインは少し離れた城下町から別の医者を呼んで診てもらった。でも結果は同じ。だから次は凄腕の医者を外国から呼び寄せて診てもらった。でも結局同じ。許せなかった。何度も何度も何度も。彼女の病気を治せる医者を探して回った。こんな小さな村だ。治療費はもちろん医者を呼ぶにも薬を貰うにもお金がかなりかかる。カインは必死になって働いた。全てはマチルダに元気になって欲しくて、生きていてほしくて。でも、マチルダは病気で亡くなる前にカインの目の前でーーーー。
あの日の記憶が鮮明に蘇る。彼女が自分の目の前で海の藻屑となったあの光景が脳みそにこびりついて離れない。いや離れてはいけない、罪の形だ。
「マチルダは優しい人です。俺が彼女のために体を酷使して働く姿に心を痛めたのでしょうね」
一度溢れてしまえば止めることはできず。ルカに言ったところで何かが変わる訳でもないのに話してしまった。誰にも言ったことのない、カインが思う真実を。誰かに話してしまえば、全部お前のせいだと言われてしまいそうで誰にも言えなかった空想上の真実。でもきっと、これが正しい答えだと思う。
「…マチルダは僕の目の前で死にました。彼女はずっと苦しかったのでしょう。突発的に海に落ちてしまったんです」
「………ふーん。突発的に」
まさかあんなことになるとは。思い出の場所で一体マチルダはどんなふうに思ったのだろう。感傷的になってしまったのか。はたまた絶望してしまったのか。今となっては分からない。
「……すみません。変な話をしました。忘れてください」
ふと、我に返ったカインがそう告げる。ルカは壺を狙っている言わば敵だ。そんな奴に自分の弱みをこうもペラペラと。ルカはふっと笑って「何を今更」と言った。
「君もなかなか女々しいね。ここまで話していて急に恥ずかしくなったの?」
「………………貴方は本当に失礼ですね」
「んふふ、よく言われる」
彼には少しばかりの嫌味も効かないらしい。相変わらず不遜な態度をとる彼を少しだけ傷つけてやろうと思ったのにまるでノーダメージだ。ちっ、と軽く舌打ちをうつと彼が「そういえば」と呟いた。
「僕、皆から正直者ってよく言われるんだ。奥さんに似てるのかなぁ?」
「全っ然違いますよ。一緒にしないでください。妻は正直者でしたが図々しい奴じゃなかったですよ」
「ははっ、そうかい」
何を急に言い出すかと思えば。なんて失礼な奴だ。カインはフン、と鼻を鳴らしてルカを置いていくように早足で歩く。ルカは「速いよー」と笑いながら結局ついてくるので、結果的にカインが疲れるだけなのだが。