第6幕 最低で最悪で残酷な約束
ふわりふわり。感覚が朧気で空間がはっきり認識できない。体がふわりと浮いているような気がした。だから夢の中だとすぐに思った。妙にリアルな夢だ。ぼんやりとした視界も居心地の悪い空間ももう何度も経験したから慣れてしまった。
『(…………マチルダ…)』
はっきりとしない脳みそで状況を観察する。ベッドの上には苦しそうなマチルダ。そのすぐ側には少し前の自分がいて、マチルダの手を握っていた。ここはカインの家だ。マチルダが生きていた頃の我が家だ。今のカインは入口付近からその様子をぼんやりと眺めていた。
「…………大丈夫だ。大丈夫。マチルダ、今治してやるから…」
どうやら彼女が死ぬ少し前の様子を第三者目線で見ているらしい。カインは冷静にそう判断する。あまり見たくない過去だ。早く目を覚ましてくれないだろうかと目を逸らすとマチルダが「……ゴホッゴホ」と息苦しそうな咳を吐いた。堪らずカインはマチルダの方を振り返る。丁度昔のカインが、彼女が苦しくないよう横向きして背中をさすっているところが見えた。こちらが心配してしまうほど情けない顔をしていた。
『(…はは、酷い面だな、俺)』
昔の自分は疲れているのかやつれていて目の下には濃いクマが浮き出ていた。髪の毛もボサボサでみすぼらしい。でも今も大して変わらないなと思った。マチルダが死んでから飯はろくに食べれない。悪夢を見るからすぐに目が覚めてしまう。髪の毛を気にする余裕なんてない。
唯一違うところといえば目つきだろうか。昔の自分は希望を捨てきれず、まだ何か出来るのではないかと光を宿した瞳をしていた。今はきっとそんな光は死んでしまっている。
「……………ねぇ、……カイン」
それから少しして、息苦しさが少しは緩和されたのかマチルダがポツリと呟いた。壁の方を向いた横向きの体制のため、今のカインも昔のカインも彼女の表情は見えなかった。
「………、、わたし、、死ぬのかなぁ…??」
彼女にしては弱々しくて小さな声だった。そんな彼女をこの時初めて見たと思う。
「し、死なない!死ぬわけないだろ!そんな事言うなよ!」
昔の自分が叫んだ。酷い慌てようだ。彼女を慰めたいというより、そんな事ない、そんなはずない、と自分に言い聞かせているようだった。
彼女が弱音を吐いたのはこれが初めてだったと思う。病気だと診断された日も、もう長くないと告げられた日も、もう治療することはないと言われた日も。彼女は泣き言の一つも言わなかった。自分ばかりが取り乱してしまって彼女はずっと冷静で。自分の容態を受け入れようとしていて。ずっとずっと。彼女は本当に強い人なんだと、そう思っていた。
『(……そりゃあ不安だよな。なんで気づいてあげれなかったんだろう)』
小さく震える彼女の背中はカインが知っている彼女とは思えないほど華奢に感じた。それほどその時はこの現実が受け止めきれなかった。
彼女は苦しそうに心臓を抑えながらゆっくりと起き上がった。息はゼーゼーと荒く、昔の自分は心配そうに彼女の背中を支えていた。
「………死にたくないよ、、死にたくない…、カインっ…1人は嫌だよ……」
苦しそうに悲しそうに、涙で歪んだ彼女の表情を見ていられなくて優しく抱きしめていた。耳元で彼女の嗚咽と息苦しそうな呼吸が聞こえた。
「………、怖い…怖い……、、、怖い……、 」
うわ言のようにつぶやく彼女はカインの服をギュッと掴んでいた。シワになってしまうほど強い力だった。そんな彼女の様子を見ていられず目を逸らし昔の自分を眺めた。
ーー自分も泣いていた。静かに泣いていた。情けない。なんでお前が泣くんだよ。いい加減にしろよ。苦しいのも悲しいのも全部彼女なんだ。お前は痛くも何ともないだろう。お前が泣くなよ。なんでそんな顔してんだよ。
そんな思いが届くはずもなく、昔の自分は恐る恐る泣きじゃくる彼女の頭を撫でた。そしてゆっくり口を開く。
「………………、、大丈夫だよ」
彼女の呼吸が少しだけ、落ち着いたように感じた。
「……、、俺たちはずっと一緒だよ」
やめろ、やめろって。自分の中で危険視号がなる。これ以上は喋るな。黙っていろ。そう怒鳴ってやりたかったが喉が締め付けられているようで声が出なかった。
「君に寂しい思いはさせないよ。君が天国に行ったら、俺も一緒に行くよ。約束しよう」
早口でそう告げる。残酷で軽率でどうしようもない言葉を。
「俺も死ぬから……、だから、今は生きることを諦めないで…」
なんだよそれ。どういう意味だよ。
『(…………適当なことばっかり)』
結局守れてないではないか。何もかも全て、嘘しかついてない。
病気は治るよって慰めた。結局治ることはなかった。
君が死んだら俺も死ぬよって言った。結局怖くて死ねてない。
なにもかも、全部。
『(そうだ。だから、彼女は幽霊になっても俺を呪ってるんじゃないか。僕と天国に行きたいって、早く死んでくれって言ってるんじゃないか)』
いい加減、願いを叶えてあげるべきだ。
もう少しだろうか。もう少し、君に罵られたら。そしたら死ねるだろうか。
ごめんね、マチルダ。もう少しだから、もう少し待っていてくれる?もう少し絶望したら。もう少し君に貶されれば。軽蔑した目を向けられたら。生きることを諦められたら。
そしたら君と同じところで死のうと思うんだ。
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突き刺すような眩い光に目を覚ます。いつもどおりの絶望感と悲壮感に体は重たかった。結局また後悔しかない過去の夢を見た。昨日の手紙のおかげで心地の良い朝を迎えられるかと思ったのに。
「(…そうだ、マチルダ!!)」
重たい体を無理やり動かして辺りを見渡す。そこには当たり前かのようにマチルダが立っていた。その顔は不機嫌そうである。昨日の手紙が嘘だったのでは?と思うほどいつも通りの光景だった。だが丸いテーブルにポツンと置かれた手紙が現実だと教えてくれる。それにひどく救われた。
「…マチルダ、おはよう」
『……おはよう』
「あのさ、手紙の事なんだけど……」
そう彼女に手紙のことを聞こうとすると渋い顔をしてすうっと消えてしまった。「ちょっと待って……!」と咄嗟に手を伸ばすも何も掴めず手を下ろす。
「………、話したいのに……」
彼女にこの声は届いているだろうか。話をしたいのだ。ただ手紙のことを聞きたいだけなのだ。
「(……手紙の内容、どういう意味なんだろう)」
手紙の内容はこれから生きていくカインの背中を押してくれるような内容だった。幽霊のマチルダの言葉とはまるで違うと思った。
「……お願いマチルダ。出てきてくれないかな?」
ぽつりと呟いたその言葉はただの独り言となって消えていった。出てきてくれる気はないらしい。
カインは手紙を手に取りもう一度読むことにした。その内容はやはり温かくて愛情を感じるものだ。カインに生きていてほしいと思っているような。許してくれているかのようなーーー。
「(……都合が良すぎるか)」
いいや、違う。甘えすぎだ。自分が救われたいがための逃げだ。
手紙を書いていた頃は愛情に溢れていたのかもしれない。生きていてね、って背中を押してくれていたのかもしれない。けれど結局、大切なのは今の彼女の言葉だ。幽霊となった彼女の言葉が彼女の本心そのものなのだ。
『ねぇ、早く死んでよ』
その彼女は死んでと、そう言ったのだ。それが何よりも正しい答えだろう。
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次の日も、さらに次の日も。手紙の手の字でも話そうものなら彼女は消えていなくなった。幽霊というのは自身を見えなくすることも可能なのだと以前、彼女が鼻高々に語っていた。手紙の話をしようとする度に見えなくされては困るのでこれ以上聞かないことにした。心の中に残ったモヤモヤは見て見ぬふりをして。
それからもう1つ、困り事が増えてしまった。
「…あの、いい加減にしてくれませんか?」
「やぁ、昨日ぶりだね。今日も狩りに出かけるのかい?」
あの日から、扉を開けるとにこりと笑ったルカがそこにいるのだ。