第9幕 海馬に届く潮の香り
それから数時間、山を登ったが成果はゼロ。冬眠はしないもののやはり寒さからなのか動物たちの姿も少ないようだ。昨日も一昨日も捕まえられていないというのに、今日も成果ゼロのまま終わってしまうのだろうか、なんて少しの苛立ちは呑気に話しかけてくるルカのせいで更に膨れ上がっていた。「もういい加減帰ってくださいよ」と言っても「えー、嫌だよ」という言葉しか帰ってこない。いよいよ”山に登りたい”という言い訳すら言わなくなった。カインはため息をつくしかない。
「……そういえばあなたのお仲間は何をしているんですか」
気分を変えようと珍しくカインからルカに話しかけてみた。そういえば少し前の会話からルカには旅の仲間がいると分かっていたがその姿は見た事がない。ここ数日間ずっとカインと行動を共にしているがお仲間は心配していないのだろうか。というか、本当に存在するのだろうか。まさか幻想?イマジナリーフレンド?そんな可哀想な想像をして哀れみの目を向ける。ルカは、はは、と楽しそうに笑って言った。
「今頃僕のこと探してるんじゃないかな。何も言わないで飛び出してきちゃったからね」
「……なんでそんなことしたんですか」
「だって出発に時間かかるって言うから。じっとしてられなくてさ」
「……へぇ、迷惑な人ですね」
カインは正直にそう呟いた。止まったら死ぬ鮪みたいだ。変な人、という呆れた目を向けながら歩く。
「(まるでマチルダに振り回されてきた俺みたいーーー)」
そう思ってしまい頭を必死に振る。これではルカとマチルダが似ていると認めているみたいではないか。気を取り直してカインは「あなたのお仲間は大変でしょうね」と小言を告げる。
「あなたみたいな自由人と一緒にーーーー」
ーーーーーーー油断した。少し離れたところから香る潮の匂いにカインの足も唇もピタリと止まった。話をしながら歩き続けていたから気が緩んでいたらしい。この道はいつも避けて通っていたのに。人間の癖というのは恐ろしい。体に染み込んでしまったそれはルカに軽口を叩くのに夢中で勝手にこの場所にまで足を運んでしまったのだから。
「どうしたの?」
どうしようどうしようどうしようーーー。
焦りと恐怖に支配されたせいでルカの声はカインには届いていなかった。まずい。このまままっすぐ進めば訪れたくなかった場所。ーーーマチルダが飛び降り海涯がある。そんな場所を自分が平常心のまま通り過ぎれるとは思えなかった。今すぐにでも立ち去りたい。それなのに足が凍ってしまったかのように動かなかった。
「……はぁ、はぁ……」
胸が急に苦しくなる。頭痛がガンガンと鳴り響く。息が上手く吸えない。どうする、どうするーー。
フラッシュバックしたのは、彼女が海に溶けた日のことだ。
︎✧
その日彼女が突然海に行きたいと言い出した。朝5時くらいの話だ。懐かしいと思った。この突拍子のない発言が。病気になってからあまりわがままを言わなくなったから。遠慮している、というよりそんな余裕も元気もないように見えた。だからカインは少し嬉しかったのだ。今日は調子がいいのかも、なんて浮かれていた。
病気の彼女を海が見える丘まで連れていくのは大変だった。彼女を歩かせる訳にはいかないので、彼女を背負って山を登った。ただでさえ険しい道なのに、いくら彼女が軽いとはいえ人1人を背負っての登山はかなり体力を消耗した。何度も何度も木の影で涼んで休みながら登った。「体力落ちたんじゃない?」なんて、とても背負われている人間の言葉とは思えない彼女のセリフに苦笑したりしながら。それにしても暑い。この時期は毎年海を見にこの道を進むが今年は一段と暑い気がした。しかし久しぶりに楽しいと思った。彼女の笑顔も見れた。幸せだった。
そして目的地に到着した。
『やっと着いたァ…!!』
木々をかき分けて海が見えた瞬間、彼女を下ろしてその場に座り込んだ。もうヘトヘトである。すぐには帰れないくらい。
『わぁ、綺麗ねぇ』
彼女はそんなカインには目もくれず崖の端っこまで走っていった。危ないと思いながらも、カインは何も言わなかった。彼女はお転婆なところもある。ここに来たらいつもはしゃいで崖のギリギリを沿うように歩くのだ。何が楽しいか分からないが、子供のようにはしゃぐマチルダを見るのはカインも楽しいから結局叱れずにいた。
楽しそうでなにより。ずっと部屋に閉じこもりっぱなしもよくないだろうし、精神的にもいい治療になるかもしれない。そんなふうに考えているとご機嫌の様子のマチルダがくるりと振り返って『ねぇ、』と言った。
『カイン、ありがとう。貴方の事を愛せてよかった』
この日は風が強くて、彼女の声はギリギリ聞こえるくらいだった。だから突然のその言葉の意味を理解するのに手間取った。カインはきっと心底不思議そうな顔をしていたのであろう。彼女はクスリ、と笑って『あほ面』と言った。
『ねぇ、貴方も私の事好き…?』
彼女の美しくしなやかな髪の毛が風になびく。その幻想的な光景とは対照に、早く言いなさいよと言いたげな自信満々の表情。そのアンバランス差が面白くて笑いながら『なんだよ急に、』と呟く。
『好きに決まってるだろ。愛してる』
安直すぎただろうか。しかしこの安直な言葉が1番恥ずかしかったりする。 カインはいたたまれなくなって彼女から目をそらすと、彼女はその様子も面白いのかふふ、と笑って『カイン』と言った。
『今までありがとう』
すごく落ち着いた声だった。例えばカインが落ち込んでいた時に慰めてくれたあの優しい声とは違う、絶望や悲観や慈悲が混ざりあったようなそんな声。
『ーーーーじゃあね』
その言葉の意味を理解するより前に、何か嫌な予感がした。
だからカインはすぐに立ち上がって彼女に駆け寄った。脳みそが動くより先に脊髄が反応した。何が起こっているかなんて考えている暇はなかった。一瞬だった。一瞬、瞳に映ったのは彼女が手を広げて後ろへ倒れていくところだった。その手を掴みたかった。引き寄せたかった。手を伸ばした。届かなかった。
ボチャン、と何かが沈む音が聞こえた。




