第一章
機を逃さず、ダンッと『きょうこ』の足元を蹴り上げるとグラリとバランスを崩し廊下に倒れた。
「人様の躰を拝借して何様のつもりだよ」
鈍く動く大きな芋虫を逃がさないように、汚れるのも厭わずにどろどろの胸倉を掴んだ。頭の横に片足を折り、肘を乗せて上から覗き込む。
『わたし、ハ、むすメを』
「お前に娘はいない」
『そんナは、ズない!!かえッテくる、かえッテ……かえッテくル』
手足をバタつかせ、狂ったように同じ言葉を返すソレ。話もここまで来ると最早通じない。おかしくなってしまった者の死後の末路はただただ孤独で悲惨なものなのだ。
「冗談言うなよ。お前の息子は、お前が殺した」
甲高い金属を裂くようみたいな奇声が耳を刺す。大きく目を見開いた怪異が声帯を震わせて私の言葉を聞きたくない、とかき消した。
その時、ゆっくりと扉が開いた音がした。扉の奥には眼鏡の母親が俯いて立っている。手には包丁、ゆっくりと上げた顔にある二つの光のない瞳は正気ではない事を表していた。
まずいっ……!と身を引こうとするが、目の前の影から手を離せる訳もない。勝てないと踏んで最後っ屁か、彼女の躰を操って此方を物理的に攻撃するつもりだ。落としてしまった警棒が斜め前に転がっている。
身を守らなければ、と届くかわからない片手を反射的に伸ばした。
無表情な母親は走り出している。廊下は意外と短い、振り被られた包丁がすぐ目の前にきていた。あと一歩のところで届かなかった警棒が爪に当たって遠ざかる。
『おかあさん……!!』
致命傷を避けるために躰を捩ろうとすると、少女の悲痛な声が響いた。ガクンと彼女の動きが止まる、後ろから少女が腹に手を回し必死に訴えていたからだ。
『ダメだよ……りょうちゃんのお友達だよ……おかあさんとりょうちゃんを助けに来てくれたんだよ……』
「美咲……」
暗い瞳に微かに光が宿り、握っていた包丁がブルブルと震える。「みさちゃん……」と眼鏡が呟き、今にも駆け寄りたそうな表情だが、先程の失態もあったので何とか思い留まっているようだった。
力が抜けたように振り上げられた腕はだらりと下がり、包丁が床に転がる。ゆっくりと膝から彼女は座り込むと娘の名前を呟き啜り泣いた。
そして、少女の悲痛の叫びは母親に効いただけではなかった。
影は少女を自分の子どもだと勘違いしているようで『翔子、翔子』と子供を探すように、縋るように、自分は間違っていない、と祈るような表情を浮かべていた。その顔はすっかり人型を取り戻している。
コイツの胸倉を離すか離さないかの、瀬戸際だった、本当に間一髪。
この哀れなバケモノを、やっと黄泉にぶち込めると思うと場違いなくらいに笑いが込み上げててくる。
「君達、よくやってくれた」
愛用のZippoに炎を宿す。全てのモノを浄化してくれる炎は退魔の世界でも非常に効果的だ。
「迦具土神よ。貴方を頼りにする私の声を聴き、この哀れな者を浄化したまえ」
Zippoの炎が呼応する様に大きく揺れた。
ーーまたお前か……。
呆れたような声が頭に響く。
そうです、お願いします。この現世で暴れてる死者を、あるべき場所に返して下さい。
他に現世を取り締まる人間がいればホントに代わって欲しいです。
呆れた溜息の様に炎が揺らぐと、一筋の火柱となる。私の愚痴は無視の方向らしい。
「嫌だ、嫌だ」と喚く『きょうこ』は自分の行く先を何よりも分かっているようだ。手足をバタつかせて無様に許しを請う。
それを見てどこか、頭の芯が冷たくなっていくのを感じた。
「お前は助けを求める子供の声に応えたのか?」
「あ……アぁ……」
「地獄で赦しを請うんだね」
まぁ、酌量の余地なしだけど。
どうした?行きたかったんだろ、地獄ってやつに。
今更、辞めてと言ったところで誰も聞いちゃくれない。コイツの犯した現世での罪は重すぎる。
火種となるように髪の毛に火を移せば、瞬く間に炎は広がっていく。
それを見た眼鏡が母親に駆け寄ると抱き締めた。震えている彼女を庇うように炎から遠ざける。前に出るな、と伝えたが元凶となったモノにもう力は残されていない、解禁してもいいだろう。
叫ぶ、喚く、耳障りな声が響く中、四宮親子はただ呆然とその光景を眺める。
最後に子供の名前を言い残し、虚空に手を伸ばしたかと思うと『きょうこ』は形を崩し、灰と化した。
ふと『ありがとう』と、少女の声が遠くから聞こえた。
母親と触れた事で思い残す事はなくなったのか、彼女も空に還るらしい。ふわりと浮かぶ少女の笑みは心底嬉しそうで、綺麗だ。