雨降る日の水風船
雨が降り注ぐ日の事だった。
その男、田畑は傘を片手に帰路についていた。彼はごく普通の男性。不思議な出来事や人物に出会う縁などゼロに等しいはずであった。
平凡な暮らしを続け、その暮らしによる恩恵も感じ続けてきた彼。おかしな出来事に遭遇する事なく生きてきた事はこの上ない幸運ではあるが…。
彼はこの日、そのおかしな出来事に遭遇してしまう事となる。
「ん?」
視線をずらす。
木々が並び、ポスターが塀に貼り付く住宅地。雨に濡れ、寂しい雰囲気が取り巻く中、一つの小さな影が見える。
どうやら小さな少女のようだ。傘も差さず、この雨を頭から浴びながら、交通安全の祠の前に突っ立っている。
黒い無難なショートヘアー、白いシャツ。歳は見たところ七歳くらいだろうか?随分小さいが…。
いや、一つだけ、小さくない所があった。
「な、何だ…あの腹」
何だあの子、ではなく、何だあの腹…普通では出ないような言葉が口から出た。
そう、その少女…腹が膨らんでいるのだ。
太ってる訳ではない。むしろ体型は華奢であり、顔立ちもスッキリしていて愛らしい。腹だけが突っ張っている。
「あれは…一体?」
思わず独り言が漏れる。雨音の中でも、そこそこ鮮明に聞こえるくらいに大きな独り言…。
…少女は田畑を見つけると、そのまま無邪気な笑みを見せた。
「あっ、おじさーん!」
思わず一歩後退りかける田畑。少女はびしょ濡れの体に纏わりつく冷気をものともせず、田畑に一直線に駆け寄ってきた。
「え、ちょ、なに」
少女は田畑に抱きつき、腹が足元にぶつかる。田畑はこの時気がついた。
この腹、何だか冷たい…?
雨に濡れて体温が低くなってる事もあるだろうが、それにしてもこの冷え方は何だか妙だ。水に直接触れているような?いや、それとも違う。
子供の頃に触れた水風船。
それに近い感覚だった。
「き、君…こんな所で雨に濡れて、寒いだろう?」
どう考えても普通ではないその子供に、思わず当たり前の事を言ってしまう。その少女は首を傾げ、煌めく目で田畑を見上げる。
「濡れる?アタシ濡れないよー。ほら見て見て」
一回転する少女。軽やかな足取りで回ってみせた。
その体からは…何故か水気がなくなっていた。
そう、全く濡れてないのだ。あれだけ雨に打たれていたにも関わらず…!
髪一本も、乾いている。綺麗な顔立ちも髪も、何もかもが普通のまま。
代わりに…。
「え、君…」
彼女の腹が、明らかに先程以上に膨らんでいた。
…奇妙すぎるその少女、名は亜芽というらしい。何だか放っておけず、田畑は彼女を一旦家に連れ帰った。
「わあ、ひろーい!」
家ではしゃぎだす亜芽は、一見するとどう見てもただの子供の域を出ないが…。
…彼女は台所へと直行し、真っ先に水道へと駆け込んだ。そして蛇口を捻り、そこから吹き出た水を大口を開けて飲み干す。見かけによらぬ荒々しい飲み方だ。喉を通った水が彼女の腹の中へ直行し、その腹はますます大きく膨れ上がる。
これは…もはや何かの病気だろうか?体質だろうか?
人間なのかすらも分からない。だが唯一言える事は…間違いなく純粋無垢な少女だと言う事だ。
詳しい理由こそ分からないが、自身の腹が大きくなるのを明らかに喜んでいる。腹がある程度の大きさに達すると、彼女は「ふう!」と一息つき、ようやく口を離した。
「…ま、満腹か?」
田畑は思わず聞いた。亜芽はにこりと微笑み、一言。
「まだまだ足りないっ」
ともあれ、落ち着いた(?)ところで田畑は亜芽を自身の部屋へと誘導した。
チャポ、チャポと腹を鳴らし、そして揺らしながら歩み寄る彼女。動きにくそうに足を動かす様は愛らしく、同時に危なっかしい。
ようやく辿り着いた頃には、亜芽も疲れきったように腰を下ろした。
大きな腹を優しく撫で回す姿は、幼さに似合わぬ母性を感じさせる。
「で…君は何者なんだ?」
「ん?それ言ったよー?水風船!」
腹を片手で軽く叩く亜芽。中の水が跳ね上がる音が鮮明に聞こえる。跳ね上がる…つまりまだ腹の中に空白自体はあるのかと、田畑は謎の安心感を覚えた。
とにかく、この少女を連れ帰ってきたは良いものの、ここからどうするか。とりあえず保護者を探す事を考えたが…。
(水風船に親なんかいるんかな)
はっ、と口を開く。
完全に水風船扱いしていた。いや、もうそれが普通すぎるのだ。
首を傾げる亜芽。田畑がおかしな表情を知らぬ間に見せていたのだろう。
…とにかく、このまま家に置いておく訳にはいかない。こんな子を置いておけば、何というか、彼の立場が危うい。
田畑は腕を組んで真剣に考える。
「おじさーん。あめねえー」
いきなり亜芽が語り始めた。
田畑、本日二度目の「はっ」。意識を目の前の水風船に集中する。
「な、なんだい」「亜芽、もっともっと大きくなりたいのー!」
彼女は立ち上がり、腹をリズミカルに叩きながら語り始めた。
ポン、ボチャ、ポン、ピチャ…。
腹が揺らめくたびに、音が鳴る。聞き心地はいいものの、状況が状況…これに聞き惚れる程、田畑は色気に弱くない。そんな彼をからかうように、しかし実際は無邪気に亜芽は続けていた。
「できることなら、海も飲んじゃいたいくらい!お腹、パンッパンに膨らませて…バァーーーーンッ!!!って爆発したーい!」
ちょちょちょ、と田畑は慌てて手を突き出して彼女の肩を掴む。
「おい!頭大丈夫か!?」
思わず言ってしまった。亜芽はまたもや首を傾げて不思議そうに言う。
「おじさん、もしかして心配してる?大丈夫だよー、あめね、お腹爆発しても生きてるから!」
非現実に非現実がついてくる。人体が爆散して平気?あり得ないという言葉すらおこがましく感じるほどに、ただひたすら、非現実。
が…それ以上に信じられなかったのは。
田畑が、その言葉をすんなり信じ込めてしまった事。
(あ、ああ、平気なのか…)
なぜ信じてしまったのだろう…?もはや自身の正気を疑いかねないので、もう何も疑わない事にした。
それから。
亜芽は唐突に立ち上がり、また水道へと走っていった。田畑はそれをゆっくり追いかけていく。
亜芽はやはり、水道の水をまた吸い上げていた。まだギリギリ現実的ではあった腹はいよいよ彼女の膝辺りにまで達し始める。
面積を広げていくその腹をまっすぐ見つめながら、田畑は考えていた。
彼女を送り出すべき場所。
何かに操られるように、思考は自然にある場所を思い浮かべた。
それは…この街の隣山。
あそこは川もあり、池もあり、広大な湖もある。雨が降ってる今は増水もしてるだろう。
この水風船を満たすには十分すぎる量の水があるはずだ。
「…亜芽、行くか」
「え?どこに?」
「君をパンパンに膨らませられる場所だよ」
田畑は雨の中、住宅地を進んだ。
傘を片手に、背後からは一人の少女。
…彼女の腹は、家にいた時よりも遥かに大きく膨らんでいた。
ますます勢いを強めていた雨。この雨水を絶え間なく吸い取り、今やバランスボールのようだ。その腹の上にちょこんと乗った小さな顔…今でも笑っていた。
「楽しみ〜」
無邪気、あまりに無邪気。
田畑が振り返る度、彼女は大きくなり続けていた。
住宅地の迷路のような分かれ道を通り、山が見えてくる頃には…亜芽は田畑の背丈すら僅かに上回る程の膨張を見せていた。
家からここに来るだけでここまで膨らむとは…。
「だいぶ膨らんだねえ〜あめ、気持ちいい〜」
山の水を平らげた暁には…どれほどの巨影が形成されるだろうか。
その日、彼は亜芽を山へと送り出した。
小さな子供を山へ行かせる。普通であれば倫理脱線も良いところだが、相手は…水風船。セーフなはずだ…。
それでも、やはり心配はあった。
「また会おうねおじさん!」
腹を叩きながら山道を駆け抜けていった彼女の姿は本当に嬉しそうだった。
姿が見えなくなるまで目立っていたあの腹。あと数時間もすれば…。
…どうなるんだろうか?
数日後。
「皆様、山から避難してください!謎の巨大物体は爆発の危険性があります!」
慌て気味なアナウンサーの声がテレビから響き、多くの人々がスマートフォンを掲げる。
老若男女問わず、彼らの視線は一つの方向へ向けられていた。
あの日とは違い、天気は快晴。太陽が照りつける中、「それ」は美しい輝きを見せていた。
山から突き出すように出現した…巨大水風船。つるりと張り詰めたその質感…あまりに大きく、あまりに張り詰めている。
高さはなんと60メートルにも及び、直径に至っては70メートル。ドーム型に膨張しきったその水風船は、突如山から現れたのだと言う。
SNSは当然大騒ぎ。
ハッシュタグでは「#水風船」「#爆発怖い」などがトレンドトップを抑え、興奮と恐怖が交差していた。
謎の巨大水風船。
その正体を唯一知る者がいた。
誰あろう、田畑だ。
彼は住宅地のど真ん中、人混みの中でそれを見あげていた。
見れば見るほど大きさを実感する。
何だかまだ大きくなり続けているような気すらするが…。
いや、間違いない。
明らかに大きくなり続けている。
今この瞬間も。飽くなき勢いで巨大化を続けているようだった。
(…亜芽)
名前が心の中で自然に浮かぶ。
彼女はあれからひたすら吸い続けたのだろう。…自然そのものを。
そしてその水はあの中にぎっしりと詰まってる。あの頃のような柔らかな印象は受けず、ただひたすら、パンパンに張り詰めてる。
そしてそれは…今、限界を迎えようとしていた。
ギチギチギチ………。
何やら不穏な音が響き始める。それがあの水風船から発せられてる事は誰の目にも明らか。大勢の人々が一斉に後退る。
「皆様、できるだけ遠くへ避難してください!!」
何処かから聞こえた、けたましい避難通告。
人々は踵を返し、駆け抜け始めた。
そんな中、唯一動かずに呆然と見あげていた田畑。あれが本当に、つい先日まで自分の腰ほどの高さしか無かった幼女だったのか…?
あまりにも信じられなかった。
だが、田畑の脳内に響いてきたある声が、その事実を嫌でも伝えてくる。
(おじさぁーん、あめね、こーんなに…こぉーんなに…パンパンに膨らんだよお〜…)
その言葉が終わるやいなや…巨大水風船はますます大きく膨張した。
(亜芽…!!)
田畑は一歩踏み出した。
……その時、空間が[冷えた]。
バァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァンッッッッ!!!!!!
街に、雨が降り注いだ。
巨大水風船は一瞬にして弾け、あれだけの巨躯を瞬時に失わせた。
人々の鼓膜を爆音が、肌の感触に冷気が襲いくる。
街の気温が低下した。
「…亜芽?」
田畑は、頭からその雨を浴び続けていた。
「…おじさーん♥」
聞き覚えのある声がした。
今度は頭の中ではない。はっきりと…聞こえた。
上から。
「…うお!?!?」
何かが腕の間に落ちてきた。
…彼の腕に振ってきたのは…紛れもなく、あの亜芽だった。
「あめ!?なんで…爆発したんじゃ」
「だから、言ったでしょー、爆発しても大丈夫なの!」
彼女はニンマリと笑っていた。
間違いない…あの亜芽だ。しかしその腹は平坦。元の大きさ…[始まり]へと戻ってきた。
「ねえねえおじさん、あめ、もう1回爆発したい!」
「…厄介な子だな、君」
田畑は、彼女を抱きしめる。
懐かしい水風船の感触が、全身に張り付いた。




