今日も宮島賢人は怒られる
蛇崩先生は今日も怒っている。
「今日で4日連続だぞ」
「すいません」
「それも4日連続聞いた」
俺は教卓に立たされ、いつもの如く説教を喰らっていた。
目の前には、50過ぎた担任の蛇崩先生。
生徒指導を任されるいかにも、って感じの鬼教師だ。
「昨日のこの時間、お前はなんて言った?」
「明日はもう遅刻しないと言いました」
「今日がその明日だよな。それで、何でお前はまた俺の前に立ってるんだ?」
「それは──」
「それは?」
「遅刻したからです」
途端に、日直日誌が俺の脳天に向かって振り下ろされた。パッーンと乾いた音が教室に響き渡る。目の前に星が2つ見えた。
「馬鹿野郎! 遅刻しないって約束じゃねーのかよ!」
「すいません」
「今何時だと思ってる!」
「8時45分です」
「20分も遅刻だろーが!」
再度、バシッンと頭を叩かれた。今度は目の前に星が5つ見えた。
「宮島、お前俺のこと舐めてんだろ? だから、毎日遅刻すんだよな!」
「いえ、そんな事はありません」
「じゃあ、何で遅刻するんだよ! 言ってみろよ!」
教室は緊張感で満たされる。みな、固唾を呑んで見守っていた。
先生の顔は湯当たりしたような真っ赤に染まり、飛び出すほどに目が開かれていた。そして1歩、2歩、3歩と進んで近づいてくる。その気迫に押され2歩下がった。右足で一歩。左足で1歩。とその途端、左足が浮遊感に包まれた。
「うわっ」
素っ頓狂な声が響いた。
教卓からズッコケそうになる俺。
腕をぐるんぐるん振って、踏ん張る
だが、重力には逆らえない。
朝の静かな時間に見合わないドスンと大きな音と共に、尻餅をついた。
それを見た、クラス中は大爆笑。
怒る教師を前にズッコケる俺。
なんともシュールな光景だ。
一気に弛緩した空気が教室を包む。
しかし、さすがはベテラン教師。冷静だ。「何やってんだ馬鹿野郎」と一喝し、俺の頭を叩く。
再び緊張を取り戻そうとする教室。
だが、それはドリフのコントのような、完成されたツッコミにも見えた。
「ブッ」と誰かが吹き出した。
それは、やがて波のように伝染し、爆発した。爆笑に包まれた教室に、もはや緊張感は訪れなかった。
ちょうど、1限目を知らせるチャイムが鳴り響いた。キーンコーンカーンコーン、キーンコーンカーンコーン。諸行無常の鐘が鳴った。
先生は罰が悪そうに「一限終わったらすぐ職員室来い」と吐き捨て教室から出ていった。その姿は、猛き物も遂には滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。
1限が終わり、説教の場所は職員室に変わっていた。何度来ても職員室の雰囲気には慣れない。パソコンをカタカタ動かす先生、テストの採点をする先生、難しい顔で書類を眺める先生、教室では見られない張り詰めた光景だ。生徒用の顔と大人用の顔、そのギャップが緊張感を増長させた。
「お前みたいな奴は初めてだ」
開口一番、先生は珍しい物を見る目で俺を捉えた。
「返事だけは一人前。反省するのは、態度だけ。中身は一向に変わらん」
そして、おもむろに引き出しを開け、ノートの紙を1枚出してきた。中途半端にちぎったのだろう、下半分が上の1/2ほどの幅しかない。
「これ、何か分かるか?」
「えっと、何かのメモですか?」
まずいことを言ったのだと理解したのその直後だった。先生はその1枚のノートをぐしゃぐしゃに丸め込み、俺に投げつけた。
「これはな、お前が一昨日提出した宿題だよ。みんなはルーズリーフや綺麗に切ったノートなのに、宮島だけだよ。こんな汚ねぇ紙で出したのは」
「あ、すいません」
時間がなくて、そのまま提出したやつだった。
「30年教師やってきたけど、宮島みたいな奴は1人もいなかったぞ。怒った次の日にまた怒るのは、お前だけだ。もう手に負えん」
そう言うと、先生は俺の方を向こうとはしなかった。デスクの書類に目を通し、静かに語りかけてくる。
「俺は宮島のことをもう注意しない。遅刻しても、宿題を忘すれても、何も言わない。それで良いよな」
「えっと、どういうことで─」
「質問に答えろ」
尋常な雰囲気では無かった。恐らく、ここでの選択を誤れば、二度と先生は話しかけて来ない気がした。これで、小うるさい教師に絡まれることはない。怒られず、好きなよう、自由に過ごせる。
だが──
本当にそれで良いのだろうか。
逡巡する俺をみて、蛇崩先生が体をこちらに向けてきた。
「なあ、宮島。学校楽しいか?」
「いえ、楽しくないです」
先生は、「こっちは即答か」とつぶやいて、ふははっと笑った。
「お前が何度も遅刻するのは、この学校に興味がないからだろ。無関心だから、怒られても平気なんだ」
そう話すと、真剣な顔で言ってきた。
「まだ高校は2年残ってる。このまま、高校生活を終えるのか?」
場の空気が変わった。
「どう…でしょう。通信制に変えようかと迷ってます」
「何で通信なんだ?」
「編入試験合格しても、どうせ学校つまらないと思うんで。それなら、通信で単位取って大学に行こうかな、と」
俺の話に、先生は神妙な顔で聞いていた。
「そうか。でも宮島、この学校来るのに苦労したんじゃないか? 簡単に入れる高校じゃない」
「はい」
「一生懸命頑張ったから、今があるんだろ。合格発表嬉しかっただろ」
先程と異なり蛇崩先生は穏やかな口調に戻っていた。
「はい」
「どのくらい嬉しかった?」
受験は辛い記憶だった。中学3年生の9月は、受験が本格化する時期。だが当時の俺は、勉強に行き詰まりを感じていた。そんな時、塾講師に面談で言われた。「宮島はやれば出来る。だけど、お前が志望するのは、偏差値が70近い進学校だ。今のお前はD判定。はっきり言って厳しい」
諦めろ、志望校を変えた方がいい、と暗に勧められた。
俺は悔しかった。
俺の実力はこんなもんじゃない。
誰だって自分を否定したくはない。
それからは、学校が終わると直接塾に行って、閉館の10時まで勉強漬けの日々。平日も土日も1日欠かすことなく勉強した。だが、簡単には偏差値は上がらない。それどころか、下がった時もある。
でも俺は負けないと誓った。
その結果、12月最後の模試。ついにB判定まで持っていった。
そして──合格通知が届いたのが、それから一ヶ月後だった。
「言葉では表せないです。あの時、本当に頑張りましたから」
人生で一番頑張った時期だ。そして、一番輝いていた時期でもあった。
「そうか、俺は忙しい。あとは、自分でゆっくり考えろ」
先生はそう告げると、くるりと椅子を回転させ、デスク作業に戻っていった。
俺が職員室を出て、ドア閉めようとしたその時。遠くで蛇崩先生の声が聞こえてきた。
「あ、そうそう。遅刻した罰に今度の地域ボランティアに参加してもらうから、そのつもりでな」