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トマトかパプリカ

作者: 海森 樹



「私、この映画好き」


「……どういうところが?」


「え〜、やっぱりこれだけ男の人に愛されたら幸せ、みたいな?」


 流れ出る白い液体をティッシュに吸わせながら彼女はそう言った。テレビの画面に映っているのは、名前は忘れてしまったが少し前に話題になった恋愛映画だった。専門家からは酷評されたものの、近年では珍しいほどヒットした。そういえば、うるさいほどに地上波初放映と繰り返すCMをここ何日か目にしていたな、と僕は思い出した。

 

 若手の俳優が駆けずり回っているところを眺めながら、普通だったら嫉妬するところなのかもしれないな、と僕は思った。


 彼女はわざわざ一人で映画館に行くようなタイプでもない。たぶん前の彼氏と行ったのだろう。彼女は悪い人間ではないが、そういうところにまで気が回らない性格だった。


 たぶん普通の彼氏彼女だったら、きっとこういうときに嫉妬の感情が湧いてくるのだろう。でも、彼女の前の男に嫉妬するほど、僕は彼女のことが好きなわけではなかった。


「ねぇ、今日は大丈夫だけど、もしさっきので出来てたらどうする?」


「どうするって?」


「結婚、とか?」


「……結婚したいの?」


「どうだろう……?」


「俺は結婚して家庭を築くってどういう感じなのか、あんまりイメージ沸かないんだよね」


「わかる……ほら、うちは両親が仲悪かったし」


「大変そうなんだよね。友達で結婚して子どもできたやついるけど、やっぱり忙しそうだし」


「子どもとかはどうでもいいんだけどね。ほら、前に私がいれば他に何もいらないって言ってくれたじゃん?」


 そんなことを言った覚えはなかった。たぶん彼女が勝手にそう言われたと思い込んでいるのだろう。彼女はどうにかして自分が愛されていると思いたいようで、時々話が噛み合わないことがあった。こちらの一挙手一投足から、自分が愛されてる証拠を見つけ出そうと躍起になっている姿は、いつも面倒くさいと僕に思わせた。


「私的には、愛し合える人がいるっていうのが1番の幸せだと思う。逆に好きでもないのに無理して結婚生活を送らなきゃいけないっていうのは地獄だから」 


「そうかもね」


「ほんとそう。だから、今は結婚とか形はどうでもいいかな。愛されてるだけで幸せだから……ねぇ、私のことを好き?」


「……好きだよ」


 真っ赤な嘘だ。


 彼女のことは好きでもなんでもない。ただ、彼女が言って欲しい言葉をこちらが言うだけで満足するから、機械のようにいつも同じ言葉を繰り返す。僕の言葉を聞いた彼女はうれしそうな表情を浮かべて、ベッドの横を叩いた。


 横になった僕の上に彼女は覆い被さってくると、上唇を強く吸った。吸い方があまりにも強かったから痛みを覚えたが、僕はなにも言わず彼女の好きにさせた。唇を吸うのをやめた彼女は舌を絡めてくる。唾液で濡れた舌はなめらかで、いつも僕になめくじを連想させた。でも、その気持ち悪さは嫌いじゃなかった。僕は何もせずに横になり続け、彼女がしたいようにさせた。


 早く終わらないかなと思いつつ、僕は横目でテレビを見る。いつの間にか映画が終わったのか、画面は海辺の街の白い家を映していた。僕は手を伸ばしてリモコンを掴むと、テレビの電源を消した。


 




 

「なんか釣れるか?」



 

 いきなり話しかけてきた男の声で僕は我に返った。ゴミ捨て場で拾ってきたようなジャンパーを着た老人が僕を見下ろしていた。老人の問いに対して僕は首を横に振った。別に何かを釣りたいわけでもない。餌を付けずにただ釣り糸を垂らしているだけだったから、当然釣れるはずがなかった。


「貸してみろ」


 老人は僕から釣り竿を受け取ると、糸を巻いて引き上げた。


「ああ、餌が取れちまってんな……これじゃあ釣れねえわなぁ」


 僕は最初から餌など付けていないとは言い出せず、曖昧に笑って頷いた。


「ちょっと待っとけ」


 そう言った老人は竿を置いて地面に手をつくと、下を向いて嘔吐した。僕は慌てて目を逸らす。老人の胃の内容物が吐き散らされる音がした。一度は目を逸らしたものの、好奇心に負けて思わず目をやってしまった。真っ黒な液体と入念に咀嚼されたであろう黄色いペースト状の何か、そしてクリーム色の幼虫が吐瀉物の中で蠢いていた。あたりにはコーヒーと胃液を混ぜ合わせたようなすえた臭いが立ち込める。真っ黒な液体はどうやら老人が飲んだコーヒーのようだった。


 僕は気分が悪くなり、鼻を摘んだ。老人はそんな僕の様子を気にすることなく、自分の吐瀉物の中からクリーム色の幼虫を拾い上げた。


「こいつだこいつ。こいつを餌にすると、ここらの魚はよくかかるんだ」


 老人はそう言って笑った。残り少ない黄ばんだ歯は唾液の糸を引いていた。そして、手入れがほとんどされていない顎ヒゲにはトマトかパプリカのような赤いカスがこびりついていた。


 老人は手早く幼虫を針にかけ、海に向かって投げ込んだ。


 僕は堤防の硬い地面に腰を下ろす。老人に別れを告げて帰ることも考えたが、帰ったところでやることはない。


 波の音と鳥の声だけがあった。


 以前の僕だったら、こんな汚らしい老人と肩を並べてぼんやりするようなことはなかっただろう。


 でも、今はなんだかそれも嫌じゃない。


「……地元の方ですか?」


「ああ、生まれも育ちもこの街よ。昔は都会で働いていたこともあったが、やっぱりここが1番合ってるからよ。兄ちゃんはどうした? 旅行か?」


「久しぶりに休みを取れたので……」


「そうか。人間、働きっぱなしじゃ壊れちまう。休みもときには必要よ」


 老人が釣りに集中し始め黙ると、かもめの鳴き声と波の音しか聞こえなくなった。昔の僕だったら沈黙に耐えきれず、何か話しかけていたかもしれないが、今の僕はそんなことを考えることすら億劫だった。


「昔は活気があったんだがなぁ……今は汚染もひどくて廃れる一方だ」


「漁は難しいですか」


「海岸近くなら問題ないが、沖はもうダメだと聞くね」


「そうですか……苦しいですね」


「ああ、でも苦しいことなんざいくらでもあるからなぁ。いちいちのたうち回っていたら生きていけんよ」


「……そうですか」


 汚らしい老人なのに、一緒にいて不快じゃない理由がわかった。

 

 全てを諦めているこの老人は僕に何も求めていない。それだけこんなにも楽なのか、と僕は驚いた。


 誰もが何かを求めている。


 人が人に何かを求めずにはいられないなら、僕は誰かと一緒にいるのはもう無理なんだと理解をした。


 大きな波が打ち付け、コンクリート製の堤防が揺れたような気がした。波しぶきがかかり、僕は反射的に目を閉じてしまう。


 僕が目を閉じるのと合わせて周囲から音が消えた。


 再び目を開けると、老人はすでにいなくなっていた。竿も一緒に消えており、あの竿は最初から老人の持ち物だったんだなと僕にはわかった。


 靴と靴下を脱いで海に向かって投げ捨てる。足の裏に触れるコンクリートは熱く、ざらざらとして不思議と気持ちよかった。もう何も考えは浮かんでこない。頭の中がクリアになり、心は穏やかさに満ちていた。


 深呼吸をして息を整える。軽く助走をつけると、右足で思い切り堤防を蹴って海にそのまま飛び込んだ。




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