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ワルツ・オン・ザ・マジックフィールド  作者: 水口たつき
4、エピローグ
4/4

着ぐるみとメイドの物語4


  4



 十月に入った。僕は中野の「アクアショップおおはた」に向かうため、中央線に乗っていた。今日は、検見川さんとの約束の日だ。

 僕は、ぼんやりとドアの上の画面に流れるニュースを眺めていた。新たに首相に選出された、前文部科学大臣がインタビューに答えている。しかし、内容は全く頭に入らない。一か月前のあの日以来、何をするにしてもやる気が起きない感じが続いている。

 やらなければならないことは分かっている。氷室を捕まえて高野の身の潔白を証明すること、ミオコとクレハのお母さんを救出すること、特効薬を開発して、氷室に拉致された女性たちを救うこと。もちろん、その中には田中さんや冴木先生、そしてミオコも含まれる。

 しかし、たまに自分が何をやっているのか分からなくなることがある。このままクレハの店でバイトをしながら、毎日を平凡に生きていってもいいのではないのだろうか。僕は、何のためにこんなことをしているのだろう。

 すると、画面に高野の顔写真が映し出された。僕ははっとして画面を注視する。電車内なので音声はない。しかし、そこに表示された字幕を見て、僕は思わず声をあげてしまった。

「そんな……!」

 周りの乗客が、胡散臭そうに僕を見る。画面には、こう表示されていた。

『連続女性失踪事件の容疑者、首相殺害の高野容疑者と断定 警視庁』

「何で、そうなるんだよ……」

 僕は呆然としながら中野駅に降り立ち、ブロードウェイへと向かった。

 アクアショップおおはたのドアは閉められ、「休業日」の札が掛けられている。ドアを叩くと、しばらくしてゆっくりと開いた。隙間から店長が顔を出すと、辺りを窺って、僕を店の中に導く。

「彼女、来てるわよ。私は裏にいるから、どうぞごゆっくり」

 店長はなぜかニヤニヤしながらバックヤードへと消えていった。商談用のソファに座っている検見川さんを見て、その理由が何となくわかった。

「村上さん」

 僕は、彼女に目を奪われた。検見川さんは、メガネをかけていた。しかし、それだけではない。彼女は、恥ずかしそうに目を背ける。

「店長さんに、髪を切ってもらったの」

 後ろで束ねただけだったヘアスタイルが、ふんわりとしたボブになっている。しかも、少し明るめの色まで入っているではないか。無愛想な感じの検見川さんの面影は、全くない。

「て、店長さんが、逃亡中ならこのくらいイメチェンしないと、って……」検見川さんの顔は、ますます赤くなる。

 正直、かなり似合っている。しかも、相変わらずの絶対領域だ。まともに彼女を見ることができない。しかし、電車の中で見たニュースを思い出して、僕はつとめて冷静に話を切り出した。

「検見川さん、ニュース、見た?」

 彼女はハッとして、小さく頷いた。

「ええ。所長が女性失踪事件の犯人ですって? 馬鹿馬鹿しい。どうやら、所長は完全にスケープゴートにされてしまったみたいね。村上さん、不易会を知ってる?」

「うん。氷室に総理大臣を殺害するよう指示したって……」

「恐らく、不易会の革新派は、警察内部にも存在するわ。所長を犯人に仕立て上げることなんて容易いことよ」

 それにしても、一体なぜそんなことをする必要があるのか。高野を失脚させるには、「首相暗殺犯」というレッテルだけで十分だと思うのだが――。

「検見川さん、構造解析は」

 彼女は科学者の顔になって、鞄から書類を取り出す。

「完璧よ。驚かないでね」

 僕はソファに座り、彼女の出した紙を手にとった。それは、何種類かの核磁気共鳴(NMR)スペクトルのチャートと、質量スペクトル、それに赤外吸収スペクトルのデータらしきものだった。

「まずはあなたのお手並み拝見といこうかしら」

 通常、これらのデータは、専門家でもぱっと見せられてすぐに構造が理解できるものではない。そのデータを解析して構造を推定するのだが、結構時間がかかる作業なのだ。

 要は、彼女に僕の腕を試されている、ということだ。

 データを眺めていて、すぐに違和感を感じた。

「……検見川さん、まさかとは思うけど、悪ふざけじゃないよね?」

 彼女は、口元に笑みを浮かべる。

「確かに、学生のトレーニングレベルよね、これ」

 もしNMRのチャートが読めないとしても、電子イオン化質量スペクトルや赤外吸収スペクトルを見れば、すぐに分かる人もいると思う。

「これ……カフェインだよね? IR(赤外吸収)スペクトルからいうと、正確には安息香酸ナトリウムカフェイン、いわゆる『アンナカ』だ」

「ええ、その通りよ」

「その通りって、検見川さん――」

 カフェインは、誰にでも馴染みの深い化学物質だと思う。コーヒーやお茶などに含まれ、覚醒作用や利尿作用がある。無水カフェインとしていわゆる風邪薬に含まれることもあるが、アンナカというのはカフェインを水に溶けやすくしたもので、これもまた頭痛の薬などとして一般的に使用されるものだ。

「でも、ふざけてる訳じゃないの、村上さん。あなたからもらったサンプルは、高純度のアンナカだったのよ」

 検見川さんの話をすぐに信じることはできなかった。氷室は、アンナカを飲ませることで田中さんや冴木先生を洗脳し、マインドコントロールしていたとでもいうのだろうか。もちろん、アンナカにそのような効能はないはずだ。

 納得のいかない様子が伝わったのか、検見川さんは優しく教え諭すように、僕に語りかける。

「前にここで会った時に話したわよね? これは、ただのアンナカじゃない。『術場エネルギー』をもったアンナカなの」

 検見川さんの推測は、こうだ。

 誰かを洗脳するために、何らかの薬物を用いるとする。一度薬物を飲ませることに成功したとしても、その効果が現れている時間は限定的だ。いつかは薬の効果が切れ、洗脳状態も解けるはずである。しかし、薬物そのものの効果でマインドコントロールするのではなく、薬物に術場エネルギーを付与することで、中枢神経が術場的に活性された状態を作り出す。そして、その薬物が術場エネルギーを発現するスイッチ、そして持続剤のような役割を果たしているのではないか。

「だとすると、その薬物はある程度依存性のあるものが望ましい。かといって、覚醒剤や麻薬といった違法薬物は、そもそも簡単に手に入れることができないわよね?」

 僕はハッとした。

「そうか! カフェインなら、意識しなくてもコーヒーやお茶を飲むことで自然と摂取される……!」

「その通り。自ら洗脳状態を持続していることになるわね」

「ということは、ミオコにカフェインを摂取するのをやめさせれば、自然と洗脳状態から解放されるってことか」

 検見川さんは首を横に振った。

「いえ、恐らくそう簡単にはいかないわ。まず、中毒状態から回復するためにどのくらいの期間を必要とするか分からない。一日で十分かもしれないし、一年経っても回復しないかもしれない」検見川さんは俯く。「それに、今の彼女にとって、カフェインは覚醒剤よりはるかに依存性の高い薬物になっているはず。彼女がカフェインを摂取できない状態を保持することは、不可能だと思う」

 検見川さんの言う通りだ。例えミオコをカフェインが摂取できない状態にしたとしても、覚醒剤中毒者と同様の精神症状が現れて、恐らく今よりももっと凶暴な状態になる。僕は思わず身震いしてしまった。

「一体どうすれば……」

 すると、検見川さんが口を開いた。

「ひとつ、手がある」彼女は鞄から別の書類を取り出す。「この文献を見て」

 どうやら、ジャーナル(学術雑誌)のコピーのようだ。しかし、英語でも日本語でもない。構造式や化学式のようなものが載っているのがなんとなく分かる程度だ。

「これは、南米の生物学系のジャーナルよ。ポルトガル語で書かれているわ。厳密に言うと、査読されてない論文ばかりでジャーナルとは呼べないんだけどね」

 査読というのは、簡単にいうと専門家による審査のことである。査読のない学術雑誌は、それだけ論文が掲載されやすいのだが、学術的にはあまり意味のない同人誌のようなものだ。

「こんな雑誌、よく知ってるね」

「まあ、趣味みたいなものかしら。それはともかくとして、この論文のタイトル、分かる?」彼女はそう言って、ポルトガル語と思われる言葉でタイトルを読み上げた。

「検見川さん、ポルトガル語分かるの?」

「分かるわよ。ええとね、日本語でいうと『アマゾン川流域に自生する水生植物が産生する新規生理活性物質に関する研究』ってところかしら」

 この論文を書いたのは、ブラジルのアマチュア研究家で、研究機関に在籍することなく個人で物質の単離研究を進めている人物らしい。かなりの変わり者で、その道では有名な科学者なんだそうだ。

「アマゾン川に生えている水草から、新規の物質を見つけたわけなんだけど、その物質の生理活性が何だと思う?」

 生理活性というのは、化学物質が特定の生理的機能に対して作用する性質のことである。生理活性物質を病気の治療に応用したものがいわゆる薬――医薬品だ。しかし、生理活性も複数になれば副作用が起こりえるし、強すぎれば毒にもなる。

 検見川さんは目を輝かして言った。

「驚いたことに、カフェインの拮抗薬になり得る物質なのよ」

「つまり、カフェイン中毒の治療薬?」

 彼女によると、この物質を使えば、ミオコのマインドコントロールを解くことができるかもしれないというのだ。

「でも……」検見川さんは、口をつぐむ。「実はこの研究、まだ途中なの」

「ひょっとして、物質の構造を確定してないってこと?」

 この手の単離研究ではよくあることなのだが、生理活性物質が存在するという証明のみをしただけで、その物質の構造推定はこれから、という論文発表をすることが多い。

 この論文も、水草からの粗抽出物で動物実験をした結果、生理活性が明らかになったというところでひとまず終了している。

「しかも、この水草を手に入れることができるかどうか……」

 僕は、もう一度論文に目を通した。

「水草の名前、分かる?」

 検見川さんが、指差す。

「ここよ。ええと、エキノドルス・エフィカス――でいいのかしら」

 気がつくと、僕は立ち上がっていた。バックヤードに駆け込み、店長を呼ぶ。

「どうしたのよ、村上くん」店長は慌てて店の奥から出てくる。

「店長、例の、エキノドルスの名前……!」

「え? 突然何なの? あのエキノドルスの名前は、エフィカスちゃんだけど」

 ビンゴだ。

「殖やすのには成功しましたか?」

 店長はニヤリと笑った。「見たい? 見たい?」そして、手招きをしながらバックヤードのさらに奥へと進んでいく。行き止まりにあるドアを開けると、小さな部屋の中に大型の水槽が並んでいる。上部から強いライトが当てられ、様々な種類の水草が育てられている。僕は何度か入ったことがあるが、こういう世界に馴染みのないであろう検見川さんにとっては、凄い部屋に見えるに違いない。

「これは……凄いですね」案の定、検見川さんは目を丸くして驚いているようだ。

「そうでもないわよ。世の中には水草を育てる専門の業者もいるし、私なんかアマチュアレベルなんだから。――でもね」店長は、一つの水槽を指差した。

「エフィカスちゃんを殖やすのに成功したのは、恐らく日本で私が初めてだと思うわ」

 それは、春に一度見たエキノドルスに間違いなかった。小さなビニールの黒い鉢に植えられたエキノドルス・エフィカスが、水槽の中に所狭しと並んでいる。少なくとも百鉢くらいはありそうだ。以前店長に聞いた値段で考えると、この水槽だけで高級外車が何台か買えるくらいの価値があるということになる。それを知ってか知らずか、検見川さんは嬉しそうに微笑んだ。

「すごい。これだけあれば……」という彼女の言葉を僕は遮る。「ちょ、ちょっと待って、検見川さん」

 僕は、彼女の耳元で、目の前にある水草の金銭的な価値について囁く。その瞬間、彼女は目を丸くして後ずさった。

「ええっ!」

 検見川さんによると、この水草から必要量のサンプルを得るには、ここで育てられているうちの大部分を用いて抽出しなければならない。しかし、そんなお金、僕にはない。

「マフリの研究者という立場だったら、そのくらい普通に出せるのに……」検見川さんは悔しそうだ。

 僕は店長にむかって頭を下げる。

「店長! お願いします! ここにあるエフィカス……九割くらい、譲ってください!」

「そんなに!」店長は絶句する。当たり前だ。ここまで育てるのは、相当大変だったに違いない。

「今は代金を支払えませんけど、少しずつ、必ず全額払いますから! お願いします!」

 頭を下げながら横を見ると、検見川さんも深々と頭を下げている。

「お願いします、店長さん」

「そんな、あなたまで……頭を上げてちょうだい」

 店長はしばらく黙っていたが、やがて苦笑いして口を開いた。

「しょうがないわね。他ならぬ村上くんの頼みですものね。この子たちがお役に立つのなら、譲るわ」

 僕はもう一度店長に頭を下げた。そして、検見川さんと視線を合わせる。彼女は嬉しそうにニッコリ笑った。彼女がそんな風に笑うのを見たのは、恐らく初めてだと思う。

 店内に戻ってソファに座ると、検見川さんは腕組みをして唸った。

「でも、どこで抽出実験をやればいいのかしら。さすがの私でも、そこまで頼める知人はいないし」

 僕に、考えがあった。

「僕がいた帝都女子大の研究室で、やろうと思う」

「え、でも、あなたクビになったのよね?」

「まあ聞いて。実は明日から三日間、帝都女子大は大学祭なんだ」

 僕の言葉に、検見川さんは首を傾げる。僕は続けた。

「大学祭の期間中は、全学が休講になる。僕がいた有機化学研究室も、伝統的に全員が大学祭に参加して、休業状態になるんだ。その間、ちょっと実験室を貸してもらおうと思う」

 帝都女子大は、原則的に男性が敷地内に入ることはできないのだが、大学祭の期間中は誰でも自由に出入りできる。そこで、研究室の秘書の西山さんに鍵を借りて、実験室を使わせてもらおうという作戦だ。

「なるほど、考えたわね。でも、あなたのところの教授って、結構厳しい人じゃなかった? それに、氷室に洗脳されたのよね。大丈夫なの?」

「冴木先生のことだね? ラッキーなことに、今年は先生が委員を務める国際学会が同じ期間に開催されるんだ。場所はハワイ。先生が大学に来ることはない」

 僕がいた研究室は、単離屋も合成屋も何不自由なく研究ができる環境が整っている。分析機器や実験装置は一通り揃っているし、心配はいらない。必要なのは、やる気と時間だけだ。

「三日で、やれる?」検見川さんは、まるで僕のやる気を確認するかのように真剣に訊いてきた。僕は躊躇うことなく答える。

「やってみせる」

「私にも手伝わせて」

「もちろんお願いするよ。検見川さんがいれば百人力だ」

 僕は検見川さんに手を差し出す。彼女は頬を赤くして、大きく頷いてがっちりと握手をした。

 その時だった。店長の悲鳴が響く。

「ちょ、ちょっと! 村上くん!」

 バックヤードに戻ると、店長が青い顔で僕に飛びついてきた。

「た、た、大変」

 店長に連れて行かれたのは、彼が普段生活している居住スペースだった。少し狭いが、綺麗に片づけられたダイニングキッチンだ。可愛らしい雑貨や調理器具が置かれている。彼が震える手で指差したのは、壁際に置かれたテレビだった。

 僕は、目を疑った。

 テレビに映し出されているのは、まぎれもなく僕の顔だ。そして、字幕を見てさらに衝撃を受けた。そこには、「村上惣市郎容疑者」と表示されている。

「何だよ、これ……」

 店長がテレビの音量を上げる。

「――警視庁によりますと、指名手配された村上容疑者は、首相殺害及び女性失踪事件の犯人とされる高野容疑者の共犯だということです」

 僕が、指名手配?

「そんな、何で……」

「やられたわ。氷室よ。あなたに手を出させまいと、不易会革新派に指示したんだわ、きっと」

「どうしよう、これじゃ、研究室はおろかどこにも行けない……」

 僕も検見川さんも、黙ってしまった。その沈黙を破ったのは、店長だった。

「あなたたち、どうやらとんでもない陰謀に巻き込まれてるみたいね。いいわ、こういうの、燃える」

 店長は満面の笑みだ。鼻息が荒くなっている。

「店長、楽しんでません?」

「私にも手伝わせて。二人とも、今日はひとまずここに泊まっていきなさい、ね?」


 大学の正門前は、大学祭に向かう人たちで賑わっていた。今日は大学祭の初日。開門して間もないのだが、物凄い人の数だ。

 店長の運転する「アクアショップおおはた」のバンは、正門の前を通り過ぎ、東門の近くにあるコインパーキングに滑り込む。

「村上くん、準備はいいかしら?」

 店長が後ろを振り返る。僕は、ピンク色のウサギの着ぐるみに身を包んでいた。検見川さんが、ゆっくりとウサギの頭を被せる。

「大丈夫?」

 視界は狭いが、問題はなさそうだ。研究室に入るまでの我慢だし、着ぐるみを着るのはこの半年間でかなり慣れてしまった。

「うん、大丈夫」僕はフワフワの手の親指を立て、検見川さんにオーケーサインを出す。

「私は、何だか自信がなくなってきた……」

 検見川さんは、泣きそうな声でそう言った。彼女がそんなことを言うのには理由がある。

「大体、何で私まで変装しなきゃならないの?」

 彼女は、何とメイド服を着ているのだ。ちなみに店長の発案である。

「だから、あなたも逃亡している身なんでしょ? 構内であなたを探す奴らもいるかもしれないし、用心のためよ」

 店長はやけに嬉しそうだ。絶対に楽しんでいるに違いない。

「だーいじょうぶ。あれを見てよ。みんなコスプレしてるじゃない」

 東門の中には、アニメキャラやナースの格好をした女の子がたくさんいる。バニーガールまでいる。今日は、大学祭のイベントとしてコスプレコンテストが開催されることになっている。この状況下では、ウサギの着ぐるみがいてもおかしくないし、コスプレをしているほうが検見川さんの正体はバレないだろう。

 僕は、着ぐるみを被っているのをいいことに、狭い視界から検見川さんの姿をもう一度よく見た。

 彼女が着ているメイド服は、店長が中野のメイドリフレ「ミラベル」から借りてきた物だ。化学繊維のツルツル感に溢れ、ミオコが着ているメイド服に比べると、安っぽさは否めない。しかし、三段フリルの短いスカートからのぞく白いペチコートと、ニーソックスの白が、彼女の脚の美しさを際立たせている。意外と、コンテストで優勝できるんじゃないだろうか。

「でも、私、もう二十八なんですけど……」

「歳なんて関係ない関係ない。さあ、行くわよ!」

 店長は車を降り、荷台から荷物を降ろし始めた。

「ちょっと、村上さん。何をジロジロ見てるんですか」

 僕は驚いてビクッとしてしまった。

「いや、見てない見てない」

「ああ、もう、最悪……」彼女は真っ赤な顔でうなだれる。「早く研究室に行きましょう」

 東門から大学の中に入ると、沢山の人で賑わっていた。普段は基本的に大学の関係者しか入れず、守衛のチェックも厳しいのだが、この日は門が全開され、守衛も立って警備をしているだけで、入構チェックもしていない。女子学生ばかりの大学の構内に老若男女色々な人がいる様子は、普段の学内の様子を知る僕にしてみれば不思議な光景だ。特に、若い男の姿が多い。どこかの学生だろう。間違いなく「出会い」目的だ。もちろん、ここの女子学生の中にもそれを目当てにしている娘がいる。大学祭の後は、俄かにカップルが増えるのだ。

「賑やかでいいわねえ。学生時代を思い出すわ」

 店長は、登山で使うようなリュックサックを背負い、さらに大きなキャリーバッグを引いている。僕と検見川さんが研究室に泊まり込むための道具を、全部運んでくれているのだ。

「凛ちゃん、そんなコソコソしないの。かえって怪しまれるわよ」

 店長がそう呼んだのは、検見川さんだ。彼女は店長のことを信頼し、名前を教えたそうだ。ちなみに下の名前が「凛」であることは、僕も最近知った。

「は、はい……」検見川さんは、俯きながら僕の背後に隠れるようにして歩いている。

 突然、前方から数人の女子学生が僕に走り寄ってきた。

「かわいーい!」

 彼女たちは僕に抱きついて、写真を撮ったり、握手をしたりしてひとしきり盛り上がった後、手を振って笑顔で離れていった。

「やっぱり着ぐるみって凄いわね」

 店長の言う通りだ。中身が三十歳のオジサンでも、女子大生が抱きついてくるのだから、着ぐるみの潜在能力は凄い――なんて馬鹿なことを考えていると、検見川さんが何やら淋しそうな顔をしているのに気がついた。

「あのー、すみません」

 今度は、長いレンズがついたプロっぽいカメラを首から下げた、いかにもオタクっぽいメガネ男子の集団が声をかけてきた。

「写真、撮らせてもらっていいですか?」

 僕は一瞬たじろいだ。女子大生なら嬉しいが、オタクの同志に写真を撮られるのはそれほど嬉しくない。しかし、彼らは僕を邪魔そうに睨んでいる。

「いや、着ぐるみじゃなくて、後ろのメイドさんのほう」

「えっ」検見川さんは目を丸くした。「いや、ムリムリムリ」

 店長は嬉しそうに検見川さんを押し出す。

「いいじゃないのよぉ。どうぞどうぞ」

 慌てふためく検見川さんにレンズが向けられ、シャッター音が響く。彼女は顔を真っ赤にして、俯いている。

「もしかして、コスプレ初心者ですか? その慣れてない感じが、いいですね!」彼らの一人が興奮気味に検見川さんに語りかける。「そのまま、チラッとこっちを見てもらえます?」

 検見川さんは、上目遣いで恐る恐る彼らのほうに視線をやった。その瞬間、彼らから歓声が上がる。夢中でシャッターをきる。確かに、メイド姿の検見川さんは可愛らしい。二十八歳にはあまり見えない。

 ひとしきり写真を撮り終えると、彼らは満足そうに撮影した写真を見せ合った。

「ありがとうございました! ところで、今日のコスプレコンテスト、出場するんですよね?」

 検見川さんは驚いて首を振った。

「いや、私は、そんな」

「僕たち、応援してます。頑張ってください! では」

 彼らは検見川さんに頭を下げると、その場から消えた。次のモデルを探しにいったのだろう。

「よかったわね、凛ちゃん。いっそ、コンテストに参加してみたら? 優勝するかもしれないわよ? ね、村上くん」

 店長にそう言われて、僕はウサギの頭で頷いて同意した。検見川さんは放心気味に僕のことを見つめていたが、間もなくハッとした様子で首をブルブル振った。

「って、こんなことやってる暇ないわ! 早く行くわよ。まったくもう!」


 化学棟の中は、人の気配がなかった。よほど研究に行き詰っている学生でもない限りは、学園祭の日にわざわざ研究室に来ないだろう。学園祭の賑やかな音楽や人の声が聞こえてくるくらい、建物の中は静寂に包まれている。

 五階に到着すると、有機化学研究室の前に西山さんが立っていた。何やら落ち着かない様子だ。僕がゆっくりと近づくと、彼女は怪訝な顔をして後ずさった。不審なウサギの着ぐるみが近づいてくるのだから、当然のリアクションだろう。

「西山さん、僕です。村上です」そう言ってウサギの頭を外す。

「村上さん! 一体、何がどうなってるんですか? 何で村上さんが指名手配されてるんですか?」

 西山さんは混乱した様子で、矢継ぎ早に質問をしてくる。

「落ち着いてください。僕は無実なんです。多分、説明しても分かってもらえないと思いますけど」

「あと……先生が行方不明なんです!」

 僕は耳を疑った。

「冴木先生が? ハワイの学会に行ってるんじゃないんですか?」

「それが、講演会場に姿を見せないらしいんです。空港まではご一緒したのですが……ああ、どこへ行っちゃったんだろう」西山さんは半泣き状態だ。

「夜中に向こうから電話がかかってきて、今日は片っぱしからいろんな所に電話して尋ねまわってるんです。現地で事件とか事故に巻き込まれてなければいいんですが」

 おろおろと歩き回る西山さんに、検見川さんが訊ねた。

「あの、冴木先生に最近変わったことはありませんでしたか?」

 西山さんは、メイド姿の検見川さんの質問に困惑した様子だったが、少し考えた後にぽつりと呟いた。

「コーヒー……」

「コーヒー?」

「先生、そんなにコーヒーを飲まれる方じゃなかったのですが、ある日突然コーヒーが飲みたいとおっしゃいまして。それも、一日に十回近く。作るのが大変で。あ、でもコーヒーだけでなく、紅茶やお茶もよく飲まれるようになりましたね」

 僕は検見川さんと目を合わせた。検見川さんは目を輝かせて頷く。

 その時、事務室の電話が鳴った。

「先生かしら」西山さんは慌てて事務室のドアを開けると、思い出したようにポケットから鍵を取り出し、僕に手渡した。「私、しばらく事務室にいますので、実験室は自由に使って下さい。念のため学生さん達には三日間設備点検があって研究室は使えないと伝えてありますから」

「ありがとうございます、西山さん」

 西山さんが事務室に入ると、僕は実験室の鍵を開け、扉を開いた。扉が重い。これは、実験室内にあるドラフトが空気を引いていて、部屋の中が陰圧になるためだ。しかも、この実験室にはドラフトが六台もある。扉を開けるだけでもかなりの力が必要になる。懐かしい感覚だ。

 およそ半年ぶりの実験室。何だか、ホームグラウンドに帰ってきたような気分になる。

「何だか、理系ってカンジね。独特の匂いがするわ」店長は興味深そうに実験室の中を見回す。

 僕の席はなくなっているが、実験器具の配置などは変わっていないようだ。

「それじゃ私はいったん戻るわね。予定通り、明後日の学園祭最終日に迎えに来るわ」

「店長、本当にありがとうございます」

 僕と検見川さんは店長に頭を下げる。店長には、本当にお世話になりっぱなしだ。

「帰りにクレハちゃんのカフェに寄って、村上くんの無事を伝えるわね」

「お願いします。クレハ、心配してると思うので」

 店長を見送った後、荷物の中から着替えを取り出した。

「一階に更衣室があるから、検見川さんも着替えてきて」

「あ、うん……」

 検見川さんは何だかモジモジしている。

「でも、その、そうだ。食事の買い出しとかで外に出る時、この格好の方がいいんじゃないかな? うん、だから、今日は一日この格好のままにする」

「え、でも」

「大丈夫よ。この上から白衣を着て実験するから。さあ、あなたは早く着ぐるみを脱いで。実験室の外で待ってるわね」

 検見川さんは体全体を使って扉を開け、実験室から出ていった。

「……メイド服、気に入ったのかな」


 まずやらなければならないことは「抽出」だ。コーヒーやお茶を淹れる操作と基本的には変わらないが、方法がだいぶ違う。

 店長から譲ってもらった水草が入ったポリ袋を出す。百株近くあるので、結構な重さだ。高級水草が漬物のように詰まった袋を見ると、何だか切なくなってくる。

「……いつか必ず水槽で育ててみせる」

「え? 何か言った?」

「あ、いや、何でもない」

 水草をミキサーに入れて粉砕すると、まるで青汁のような試料の出来上がりだ。これをビーカーに入れ、ある程度水で薄めたエタノールを加えてしばらく浸漬させる。

「今のうちにエバポレータやカラムクロマトの準備をしておこう」

「カラムクロマトは私が準備するわ。合成でもよく使うし」

 どうやら検見川さんがいるおかげで、スムーズに実験が進みそうだ。白衣の下はメイド服という、何だかマニア受けしそうな格好をしているが、彼女の顔は真剣だ。科学者の目をしている。

 抽出を待つ間に、後々使うことになる実験器具や装置の準備を終えた。時計を見ると、午後一時を過ぎている。

「検見川さん、休憩にしようか」

「そうね。じゃあ私、買い出しに行ってくる」

 検見川さんは白衣を脱ぎ、メイド服を整えると、軽く微笑んで階段を降りていった。

 西山さんが事務室にいるので、実験室内の事務机でお昼を食べることにした。本当は実験室の中での飲食は禁止されているし、そもそもあまり食事向きの環境ではないのだが、わがままは言っていられない。

 僕と検見川さんは、椅子を並べて座る。検見川さんは、何だか嬉しそうに模擬店で買ってきた焼きそばを頬張る。

「何だか、学園祭って感じよね」

「うん、でも研究室にカンヅメだけどね」

「ま、そうだけど。でも、こんな格好してるからか、なんか学園祭に参加してるような気になるわ」

 目の前で焼きそばを頬張るメイドは、ペットボトルのお茶をグイと流し込んだ。

「女子大だし、何となく華やかよね」

 確かに、検見川さんの言う通りかもしれない。しばらく帝都女子大を離れていたからか、女子大生が沢山いる風景が新鮮に感じられるのは確かだ。

「……彼女も、かなりキレイだし?」

「彼女って?」

 僕が訊ねると、検見川さんは眉をひそめた。

「まったく……。井之上ミオコに決まってるでしょうが」

 ミオコか。

「彼女、クオーターなんでしょ? 目鼻立ちはいいし、モデルみたいな体してるし、髪も綺麗だし」

「――そうかな」

「ああいう娘は、メイド服ですら似合っちゃうのよね。私なんか太刀打ちできないわよ。そもそも若いしさ」

 検見川さんは独り言のように呟くと、焼きそばを口に押し込んだ。

「ミオコなんて、別に。……検見川さんのほうがよほど綺麗だよ。メイド服も似合ってるし」

 何だろう。今はミオコのことをあまり考えたくない。そう思って、深く考えずに検見川さんのことを誉めると、彼女は突然むせて、胸の辺りをぽふぽふ叩いた。

「な……何で、そういうことを」

「だ、大丈夫? 顔が真っ赤だよ。お茶、お茶飲んで」

「あうう……」検見川さんは涙目でお茶を飲み干すと、一息ついてからボソッと言った。

「……彼女と何かあったの?」

「何かって、別に何もないよ」

「ケンカでもした?」検見川さんはニヤニヤして、ちらちら僕を見てくる。

「そんなんじゃないよ。さあ、実験の続きをしよう」

 抽出実験の続きは、驚くほど順調に進んだ。しかしそれは当たり前のことだ。今回の実験は、ブラジル人の研究者が書いた論文の中身をそのまま行っているにすぎない。ある意味、実験の追試だ。料理本を見ながら、その通りに料理を作っているようなものだ。技術は必要だが、悩む必要は全く必要ない。

 液体クロマトグラフィによる分取操作が一段落して時計を見ると、午後九時になろうとしていた。

 西山さんは夕方になってひとまず帰宅することになったため、夕飯は事務室で食べることにした。検見川さんがコンビニで買ってきた缶ビールをぷしゅっと開ける。やっぱり、一日中実験をした後のビールは美味い。

「検見川さんもお酒飲むんだね」

「飲むわよ、すぐに酔っちゃうけど。今日の作業は終了だから問題ないわ」

「検見川さんがいてくれて助かったよ。こんなに順調に進むとは思わなかった」

 検見川さんは照れ笑いしてビールをすする。その様子を見て、僕はミオコを思い出してしまう。彼女の残像を振り払うようにビールをぐいっと飲み干した。

 研究棟の一階にあるシャワールームを順番に使い、事務室で寝袋に包まれて横になる。部屋の電気を消した後、化学のネタでしばらく盛り上がる。ふと沈黙が訪れた後、検見川さんは小さく呟いた。

「ねえ、やっぱり彼女と何かあったんでしょ」

 しばらく考えた後、僕はミオコが言ったことを検見川さんに話すことにした。

「怒らないで聞いてほしいんだけど……」

 僕の話を、検見川さんは黙って聞いていた。ミオコの検見川さんに対する中傷。部屋の中は真っ暗なので表情は見えないが、きっと怒っているに違いない。僕が話し終えると、しばらくして検見川さんは口を開いた。

「淫乱……ね」

 不思議と怒っている気配がない。むしろ、小さく笑ったような気がした。

「さあ、明日に備えてもう寝ましょう。おやすみなさい」

「お、おやすみ」彼女の優しい口調に僕は戸惑い、何だか拍子抜けして、気が付くと眠りに落ちていた。


 二日目。窓から外を眺めると、まだ朝早いにもかかわらず、荷物を持った女子が何人も歩いている。恐らく模擬店の準備だろう。

 昨日のうちに候補物質の単離精製に成功しているため、今日はマウスを用いた動物実験と、機器分析による構造解析を行う予定だ。氷室に捕らえられている人達全員分の物質を準備するためには、あの高級水草がいくらあっても足りない。そこで、最終的には「合成」をすることになる。後々、検見川さんに合成経路の検討をしてもらうことになっているが、そのためにも構造決定は必要だ。

「おはよう」洗面所に行った検見川さんが戻ってきた。目を擦って大きく欠伸をする。

「よく眠れなかった?」

「あ、うん、まあね」検見川さんが苦笑いするのを見て、僕はハッとした。

「ひょっとして、僕のいびきがうるさかったとか?」

「そうじゃないわ。心配しないで。さあ、続きを始めるわよ」

 得られた化合物を使って、僕がマウスによる実験を、そして検見川さんが構造解析をそれぞれ進めることになった。

 マウスを用いた評価は、本当ならばカフェイン中毒のマウスを準備して行うのが妥当なのだろうが、今回はそんな余裕はない。そのため、目的の化合物に急性毒性がないかどうかを確認することくらいしかできないのだが、それはそれでとても大事なことだ。いくらカフェイン中毒に効果があったとしても、猛毒だとしたら意味がないからだ。

 数匹のマウスに投与量を変えて化合物の水溶液を与え、午前中いっぱい様子を見てみたが、顕著な変化は見られなかった。少なくとも急性毒性はないようだ。

 一階の機器分析室に行くと、検見川さんはNMR測定をしているところだった。しかし、遠目から彼女を見てみると、何やら浮かない表情でモニターを見つめている。あまり良い結果が得られてないのだろうか。

「調子はどう?」

 検見川さんに近づいて声をかけると、彼女はびくっと体を動かして僕のほうを見た。

「え、あ、うん、順調よ。今、ええと、COZYを測定してるとこ、かな」

 なぜか彼女はしどろもどろだ。きっと疲れているのだろう。

「買い出しに行ってくるね」彼女はそそくさと機器分析室を出ていった。

 昼休みをとった後、機器分析で得られたデータの解析作業に入った。恐らく検見川さんも同じだと思うが、NMR測定の中でも最も基本的なプロトンNMRのデータを見ただけで、これが新規化合物の可能性があることが分かる。

「あははは」「うふふふ」

 僕と検見川さんは目を合わせ、何だかよく分からない笑い声をあげる。この時点で、論文が一報書ける状況だ。ハイになるのも無理はない。追い詰められた博士課程の学生であれば、もっと大変なリアクションをするに違いない。

 その日の夜までに、推定構造が決定した。目的化合物は、新規の骨格を有しているものの、比較的シンプルな構造をしていて、合成研究には格好のテーマだ。「合成屋」の検見川さんは、早くも合成経路を考え始めているようだ。恐らく、早く実験をしたくてたまらないに違いない。しかし、合成研究には時間がかかる。氷室を捕らえ、マフリに復帰してからでないと難しいだろう。

 買い出しの際、検見川さんは昨日より多めにアルコールを買ってきていた。

「実験が無事に終了したお祝いってことで」

 予定よりかなり早く目的化合物の単離と構造決定が終了したため、あとは後片付けを残すのみとなった。明日、店長が来るまでに済ませておけばよいので余裕だ。

 化合物の名前は、水草の学名「エキノドルス・エフィカス」をもとに「エフィカシン」とした。最終的におよそ二人分の薬効量くらいはあると思われる白色粉末が得られ、カプセル二つに分けて、僕と検見川さんで一つずつ持つことにした。

 先にシャワーを済ませ、夕飯を食べながらビールのプルタブを開ける。

「お疲れ様でした。乾杯!」

 昨日以上にビールが体に染み渡る。

「あー……美味い。って、検見川さん?」

 ふと検見川さんを見ると、酎ハイの缶を一気に喉に流し込んでいる。

「ぶはー」

「大丈夫? 昨日、弱いって言ってたよね?」

「だいじょうぶ。心配しないで。ひっく……」彼女は可愛らしくしゃっくりをすると、コンビニで買ってきた弁当を口に運んだ。

 二本目に口をつけた所で、検見川さんは突然立ち上がった。

「ごめん、ちょっと待ってて」

 バッグを持って部屋を飛び出していく。トイレにでも行くのだろう。やはり飲みすぎたんじゃないだろうか。でも、あのバッグって確か……

「お待たせ」

 戻ってきた検見川さんを見て、僕は椅子から落ちそうになった。彼女は、メイド服を着ていたのだ。

「な、何で……」

「だってさ、明日大学から出たら、こんな格好することもう二度とないだろうし? せっかくだからいいじゃない」

 酔っているからか、顔が赤らんでいる。

 彼女は、何やら真剣な面持ちで二本目の酎ハイをぐいっと傾いた。かと思うと「うー」と唸って、テーブルに突っ伏してしまった。僕は慌てて彼女の肩に手をやる。

「検見川さん! だいじょ……」

 次の瞬間、何が起こったのか一瞬分からなかったが、彼女はふわっと体を起こし、僕の体に抱きついてきたのだ。

「ちょ、けみ、検見川さん?」

 石鹸の良い香りの中に、微かにアルコールの匂いが混じる。

「うー……」彼女は僕にしがみついたまま、小さく唸った。飲みすぎて気持ちが悪くなったのではないかと最初は思ったのだが、どうやら違う。彼女は泣いているようだ。一体どうしたんだろうか。

 少しの間泣き続けた後、検見川さんは僕から離れた。目の周りが赤くなっている。

「……ごめん」彼女は俯いた。僕は何だか声をかけることができず、しばらく部屋の中に沈黙が流れた。

 検見川さんが飲みかけの酎ハイに手をかけるのを見て、僕は慌てた。

「もう飲まないほうがいいんじゃないかな」

 しかし彼女は酎ハイを飲み干すと、テーブルにカツンと置いて、ブツブツ呟き始めた。

「別にいいわよ。私は研究が恋人だし。男なんて別に。あの娘と違って顔もスタイルも良くないし、服のセンスも悪いし、そもそも歳が歳だし。こんな格好しても、どうせあの娘には勝てない。ていうか、そんなに脚、綺麗かな……」

 どうやら何らかのスイッチが入ってしまったようだ。ひとまずこれ以上酒を飲ませないようにしないと。

 その時ふと、ミオコのことを思い出してしまった。毎晩のように彼女の部屋で酒盛りをしていたこと、そして、上気した顔で笑う彼女の姿。

「あの、検見川さ……」

「大体さぁ? あなた、あの娘のことどう思ってんのよ! 好きなの? 嫌いなの? はっきりしなさいっていうのよ、このすっとこどっこい!」

 す、すっとこどっこい?

「あーもう、頭痛い。これだからアルコールは嫌いなのよ」検見川さんは、メガネを外して頭を抱え込む。

 僕は、ミオコのことが好きだ。正確に言うと、とても好きだ。でも、検見川さんのことを悪く言うミオコのことは許せなかった。彼女のことを嫌いになったし、思わず叩いてしまったから、彼女も僕のことをどうしようもない男と思っているだろう。氷室に洗脳されてしまったかもしれない彼女を助けなければならないという思いはあるが、彼女のことなんかどうでもいいと思っている自分もいる。

 その時、ドンという大きな音がして我に返った。検見川さんが、両手を握り締めてテーブルを思い切り叩いたようだ。痛そうに手を抑える。

「あああっ! ほんっとにイライラする! 何なのよ、あんたたちは!」

 何なのよと言われて、僕は困ってしまった。検見川さんは、深呼吸ともため息ともつかない息を吐き出して、感情を抑えるような感じで話し始めた。

「あの娘がなぜあなたに私の悪口を言ったのか、分からないの?」

「なぜって……」

「あの娘、氷室の薬を口にしてしまったんでしょ?」

 多分それは間違いない。彼女の目は、冴木先生やユキエと同じように紫色に揺らめいていた。氷室のマインドコントロールが成功したのだろう。

「あなた、もしあの娘の近くに居続けてたら、あの娘に殺されてたかもしれないわよね」

「……うん」

「だから、分からないの? あの娘、わざとあなたに酷いことを言ったのよ。あなたを自分から遠ざけるために!」

 僕はハッとして、ミオコの言葉を思い出した。

『もし私の様子がおかしくなったら、すぐに私から離れるのよ。じゃないと、あんたを殺しかねないから』

 検見川さんは続ける。

「あなたをわざと怒らせて、もう自分の所に戻ってこないようにしたのよ。そうでもしないと、いくら彼女の様子がおかしくなっても、あなたは彼女のそばに居続けたでしょ?」

 検見川さんの言葉に、胸の鼓動が早まっていく。と同時に、激しい後悔が沸き起こってきた。

「あの娘、もう二度とあなたに会えないかもっていう相当の覚悟をしていたでしょうね」

「でも、なぜ僕なんかにそこまでする必要が……」

 すると、検見川さんは頭を抱えてフフフと笑った。

「そこまで私に言わせるわけ?」

 検見川さんはスッと立ち上がると再び僕に近づき、いきなり襟元を掴み、そして叫んだ。

「あんたのことを、どうしようもないほど……愛してるからに決まってるでしょうがっ!」

 検見川さんの言葉は事務室の中に響き渡った。そしてすぐに静寂が戻り、実験室のドラフトの低い音が響き始めた。

 僕は、ただ茫然と検見川さんの目を見つめていた。彼女は顔を真っ赤にして、僕を睨みつけている。間もなくして小さく震えだすと、ついに涙が溢れ出してしまった。

「……ごめん、トイレ行ってくる」彼女は事務室を飛び出していった。僕は、立ち上がることすらできずにいた。

 ミオコが、僕のことを? そんなバカな。彼女が僕を愛してるなんて、あり得ない。

 そもそも、なぜ検見川さんは泣いていたんだろう。僕が何か変なことを言ってしまったのだろうか。


 しばらく経っても、検見川さんは戻ってこなかった。心配になった僕は、探しに行こうと立ち上がる。その時、事務室の扉がゆっくりと開いた。検見川さんだ。

「検見川さん、ごめんなさい。僕、何か傷つけるようなこと言ったのかな……」

 彼女は何も答えない。扉の前に立ったまま、僕のほうを見つめている。

「……検見川さん?」

 突然、事務室の扉が乱暴に開けられ、白衣の男たちが乱入してきた。あの、氷室の親衛隊だ。あっという間に取り囲まれてしまった。最後にゆっくりと事務室に入ってきた男は、紛れもなく氷室だった。

「氷室!」

「やあ、村上くん」氷室は冷たく微笑むと、白衣の男の一人に何か合図をした。男は僕に近付きニヤリと笑ったかと思うと、次の瞬間、腹に劇痛が走った。声が出ない。たまらずその場にうずくまる。

「おいおい、少しは手加減しなよ。彼は着ぐるみを着ていないと、何の取り柄もないただのオタクなんだよ?」

 氷室の言葉に、白衣の男たちは嘲るように笑い声をあげる。

 僕は、茫然と氷室を見上げた。

「ん? なぜここに私がいるのかって顔をしているね」氷室はメイド服の検見川さんに近づくと、背後から彼女の腰のあたりに両手を回し、そのまま妖しく体を撫で回し始めた。僕は「やめろ」と叫んだが、声にならない。

「術場エネルギー密度が高い地点が出現したから来てみたんだが、なかなかの収穫だよ。この娘、マフリの化学ユニットリーダーの、確か……検見川さんだったかな? 高野くんの部下だ」

 氷室は、検見川さんの首もとに顔をうずめる。しかし、彼女は全く表情を変えない。

「お前……検見川さんに、あの薬を……」

「ああ、そうだよ。彼女で最後だ。これで僕の計画の準備が整った」

「計画? お前、一体、何を企んでいるんだ」

 氷室は小さく笑う。

「そのうち分かることだ。それにしても、この娘は素晴らしい。まさに磨けば光るタイプだ。この、いかにも堅そうな女が、私好みに調教されていくのを想像すると、それだけでアドレナリンが溢れ出しそうだよ」

 信じられないことに、氷室は検見川さんの耳に舌を伸ばした。彼女は一瞬体を震わせたように見えたが、特に反応はない。

「この場に高野くんがいないのが残念だよ。部下がこんな目に遭っているのを見たら、どんなリアクションをするだろうねえ?」

「やめろ……この、変態野郎!」

 何とか立ち上がろうとしたが、白衣の男に顔を蹴られ、そのまま後ろに転がって、壁に頭をぶつけてしまった。

「変態とは酷いことを言う。僕は、フェミニストなんだよ」

 氷室の顔がぼやけて見える。意識が途切れそうになった瞬間、事務室の扉が音を立てて大きく開いた。

「全員そこを動くな!」

 拳銃を構えた二人が、周囲を威嚇しながら部屋の中に入ってきた。ぼやけてよく見えないが、どうやら日下部刑事と真木刑事のようだ。

「両手を見えるように高く上げて!」

 真木刑事の迫力ある声に、氷室と白衣の男たちは、ゆっくりと両手を上げる。

「村上くん、大丈夫か!」日下部刑事が、男たちに拳銃を構えたまま視線をそらさずに叫んだ。しかし、答えることができない。

「そこのあなた、その娘から離れなさい!」真木刑事は、氷室に銃口を向ける。氷室はなぜか笑みを浮かべ、両手を上げながらゆっくりと検見川さんから離れた。

「お前らは、一体何者だ。ここで何をしている!」

 日下部刑事の問いに、男たちは失笑する。日下部刑事は顔をしかめて続けた。

「上の命令で村上くんまで指名手配されてしまって、さすがにおかしいと思ったんだ。お前ら、一連の事件に関わっているだろう!」

 突然、氷室が笑い出した。

「非常に残念です。日下部警部補」

「何だ、お前は! なぜ俺の名前を知っている」

「あなたは間違いを犯した。関わらなくていいことに、関わってしまったんです。このまま無事何事もなければ、円満に定年退職できたものを」

 氷室がいかにも残念そうに首を振るのを見て、日下部刑事は眉をひそめる。

「こいつ、何を訳の分からないことを……おい、真木! 応援要請はしただろうな!」

 日下部刑事は、真木刑事のほうを見ずにそう尋ねた。しかし、彼女は何も答えない。それどころか、彼女の取った行動は目を疑うものだった。何と、日下部刑事に銃口を向けたのだ。

 次の瞬間、何かが破裂するような銃声の乾いた音が響いた。と同時に、日下部刑事が前方に倒れ込んだ。彼の体の回りが、みるみる血で染まっていく。全く動かない。恐らく即死だろう。

 真木刑事は、顔色一つ変えずに日下部刑事を見下ろしている。ゆっくりと銃を下ろす。よく見ると、銃を持つ手の二の腕の辺りに、機械のようなものが付けられている。

 氷室は僕の目の前にしゃがんで言った。

「見えるかい? 彼女の右腕は今、『君』の腕なんだよ」

 氷室の言っていることが理解できない。

「腕に付けられた器具には、術場エネルギーが使われている。彼女の右腕だけ、分子レベルで君の腕に変換されているんだ。あの時、僕が高野くんに『変身』したのを見ただろう? あれと同じ技術さ。そうだ、やってみせようか」

 氷室はニヤリと笑った。彼の顔が何かおかしい。よく見ると、彼の顔ではなくなっている。そして、背筋が凍るような感覚を覚えた。僕の目の前にあるのは、まさに僕の顔だった。

「今、僕の体は完全に村上くんになっているんだよ。この髪の毛も、この手も、指紋も、DNAも」

 氷室は立ち上がると、真木刑事から拳銃を受け取った。真木刑事は腕に付けていた機械を外すと、白衣の男の一人に手渡し、少し後ずさりして、氷室に体を向けた。

「いいわよ」

「悪いな。まあ、すぐに応援が来るだろう」氷室は、真木刑事に向けて引き金を引いた。再び乾いた音が響く。

 弾丸は真木刑事の左の太ももに命中した。彼女は顔を歪めながら、その場に倒れ込む。

 僕の顔をした氷室は、拳銃を床に放り投げて笑った。

「村上くん、君は何てことをしたんだ。警察官を一名射殺、一名は重傷……あ、そうそう、ここの守衛も何人か殺したよね?」

「な……何だって?」

「これまでに起こした事件の重大性から鑑みて、極刑は免れないだろうね」

 氷室の奴、大学の構内に侵入するために、守衛まで殺したというのか。

「さて、そろそろ引き揚げるとしようか。さて、検見川さん……確か、名前は『凛』だったかな? 凛、村上くんにお別れをしなさい」

 検見川さんは、ゆっくりと僕に近づいた。

「検見川さん……」僕は、彼女に手を伸ばした。今ここで検見川さんまで氷室に奪われてしまっては、高野に合わせる顔がない。どうか目を覚ましてくれ、検見川さん。

 しかし、彼女の目を見て何かがおかしいことに気付いた。田中さんや冴木先生のように、瞳が紫色を帯びていない。それどころか、何かを訴えかけるような目でしっかりと僕を見つめている。そして、彼女はゆっくりと口を動かした。僕は、その口の動きに全神経を集中させる。氷室は気付いていないようだ。

 どうやら、彼女は「更衣室」と言っているようだ。

 わずかに頷くと、検見川さんは僕に背を向けた。

 氷室が、何かを思い出したように手を叩いた。

「そうそう、大事なことを伝え忘れていたよ。実は、ミオが僕の所に来てくれてね」

「ミオコが……!」心臓が激しく鳴り始める。

「身も心も、私に預けると誓ってくれたよ。これで、あの美しい黒髪の乙女は私のものだ」氷室は目を閉じ、両手を広げて嫌らしい笑みを浮かべる。

「やめろ……ミオコに、手を出すな!」

「では村上くん、これでお別れだ。別に逃げてもらっても構わないよ。真木くんは脚を怪我しているし。まあ、逃げ切れるとは到底思えないけど?」

 氷室は笑いながら事務室を出ていく。その後について、白衣の男たちに囲まれるようにして検見川さんが出ていってしまった。

 室内は静まり返り、実験室のドラフトの音に混じって真木刑事の呼吸の音だけが聞こえてくる。彼女は体を起こし、シャツを脱いでいるところだった。

「ちょっと、見ないでくれる?」

 彼女は脱いだシャツを使って、手際良く脚の止血を済ませた。額に汗が光り、呼吸も荒い。かなりつらそうだ。

「大丈夫ですか……」

 僕の言葉に、真木刑事は苦笑いを浮かべた。

「何を心配してくれちゃってるのよ。バカじゃないの?」

「何でこんなことを。あなたは警察官じゃないんですか」

 真木刑事は腹を抱えて笑う。

「ったく、しょうがないわね、教えてあげる。私は警察官よ。でも、警察官であると同時に、不易会革新派の人間でもあるの」

 僕は、クレハの話を思い出した。

「不易会の目的は、一体何なんですか。なぜ、こんなことを」

「不易会の崇高な使命を一言で表すのは難しいけど、月並みな言葉で言えば、そうね……『世界平和の実現』かしら? なんて、自分で言ってて笑えるわ」

 真木刑事は、身を乗り出して嬉しそうに僕に語りかける。

「氷室はね、天才なのよ。彼、術場を利用して、全人類の同時洗脳をする技術を開発することに成功したの」

 全人類の同時洗脳? 彼女は一体何を言っているんだ?

「現政権において、全世界は『日本国』の支配下に置かれるのよ。一つの抵抗もなく、一滴の血も流れずにね」

 次第に、僕の中に怒りとも虚しさとも何とも言えない感情が沸き起こってきた。

「意味が分からない……そもそも、あなたは日下部刑事を、殺したじゃないか! 何が一滴の血も流れずにだ! ふざけるな!」

「黙りなさい!」真木刑事が叫ぶ。「崇高な理想の実現には、ある程度の犠牲がつきものなのよ!」

 僕は、しばらくの間真木刑事と睨み合った。ふっと、彼女が顔を緩める。

「ねえ、私の男にならない?」

「はあ?」

「あなた、いい男だからさ、病院で初めて会った時から狙ってたのよ。氷室には私から言っておくから。ねえ、いいでしょ? こっち側の人間になりなさい。『あの娘』のことは忘れて、新しい世界で、一緒に楽しみましょうよ」

 狂ってる。単純にそう思った。僕は出しうる全ての力を振り絞って、壁づたいに立ち上がった。

「あんたらの、好きには、させない」

 体中に走る激痛をこらえ、事務室の出口に向かう。

「残念ね。私に魅力を感じないなんて、どうかしてるわ」

 その時、事務室の外に人の気配がした。話し声が聞こえる。

「あら、もう応援が来ちゃったかしら。これでおしまいね、村上くん」真木刑事は嘲るように笑うと、無造作に横たわった。

 しかし、扉が開いて入ってきたのは、警察ではなかった。

「惣市郎さん!」

 クレハだ。彼女は思い切り僕に抱きついてきた。なぜ彼女がここに?

「村上くん! 大丈夫?」店長も駆け寄ってくる。床に倒れた日下部刑事に気付くと、彼は顔色を変えた。「死んでる……」

 クレハは悲鳴を上げて、さらに強く僕を抱きしめてくる。

「邪魔が入ったわね」真木刑事が舌打ちをする。

「あなたは、刑事さん……? じゃあ、そこで亡くなっているのは……」

「村上くん、まさか、あなた」店長は床に転がった拳銃に目をやると、僕に訊いてきた。

「僕じゃ、ありません」

「それはそうよね。大丈夫、分かってるわ」店長は大きく頷く。

「詳しい話は後でします。今はとりあえずここを出ないと。もうすぐ警察が来るんです」

「よし、行きましょう。すぐそこに車を停めてあるわ」

 店長に肩を貸してもらって、ゆっくりと歩き出す。すると、真木刑事が声を荒げた。

「やめなさい。あなたたち、凶悪犯の逃亡を手助けするつもり? 重罪よ」

 店長は無視して僕を部屋から連れ出す。クレハが、扉を閉める前に真木刑事に向かって言った。

「惣市郎さんは無実です。……高野さんも」

 エレベータで一階に降りると、僕は店長に言った。

「外に出る前に、更衣室に、寄ってもらえますか。すぐそこなので」

「え、何で? 警察、来ちゃうわよ!」

「検見川さんが、連れ去られる前に言ったんです。確かに『更衣室』って」

 店長が立ち止まる。

「凛ちゃんが、連れ去られたですって?」

「説明してる暇はないです。早く、更衣室に行かないと」

 僕は、ハッとした。さっき検見川さんがメイド服に着替えて戻ってきた時、持っていったはずのバッグを手にしていなかった。ひょっとして。

「店長、ここに来る時に検見川さんが持っていたバッグが、更衣室のどこかにあるはずです! 探してください!」

「わ、分かった! ちょっと待ってて」

「私も行きます!」クレハが店長についていく。

 ほどなくして、二人が戻ってきた。店長がボストンバッグを高く掲げる。

「あったわ! 検見川さんの服が入ってる」

「それです! 間違いない。その中に何かあるんだ」

「しっ! 静かに」クレハが耳に手を当てる。微かに、サイレンのような音が聞こえる。

「来た! 車に急いで! 早く!」

 店長とクレハに支えられて化学棟を出ると、アクアショップおおはたのバンに乗り込んだ。

 正面から、赤色灯を載せた捜査車両らしい車やパトカーが迫ってくる。

「しっかり掴まってなさいよぉっ!」

 店長は思い切りアクセルを踏み込み、急発進して、警察の車に向かって突っ込んでいく。かと思うと、鮮やかなハンドル捌きで脇をすり抜け、正門に向かってスピードを上げた。

 正門にある守衛室の近くに、もう一台パトカーが停まっている。恐らく、氷室は本当に守衛を殺害して侵入したのだろう。

 制服姿の警官が僕たちの車に気付いて、大きく手を振りながら出口の前に立ちふさがった。しかし、店長はスピードを落とさない。

 警官はぎりぎりのところで脇に転がって車を避ける。門を出ると、店長は大きくハンドルをきって吉祥寺方向へ車を走らせた。

「ひとまず多摩方面へ逃げるわよ。都心は警察がうじゃうじゃいるからね」

 僕は大きく息を吐いて、座席にもたれかかる。

「惣市郎さん、大丈夫ですか?」

 隣に座るクレハが、ハンカチで僕の顔をそっと拭う。目蓋のあたりに痛みが走る。顔を蹴られた時に切れたようだ。

「ありがとう。でも、なぜ大学に?」

「実は……ミオコが昨日家を出たまま、帰ってこなくて。惣市郎さんに伝えなければと思って、店長さんにお願いして、連れてきてもらったんです」

「ミオコは……氷室のもとに行ってしまったんだ。奴がさっき言っていた」

「そんな……」クレハは口に手を当てる。

 僕は、研究室の中で起こったことを話した。

「警察の内部にも、不易会が入り込んでいるんですね。高野さんや惣市郎さんを犯人に仕立て上げることなんて、容易いことだわ」

 店長が、ハンドルを叩く。

「凛ちゃんは、その氷室って男に連れ去られたのね。ミオコちゃんも。まったく、ろくでもないオトコだわ!」

 僕はハッとして、検見川さんのバッグを開けた。この中に、彼女は何かを入れていたはずだ。服のポケットをクレハに調べてもらい、僕はバッグの中を隅々まで調べる。

「これ、何かしら」検見川さんが履いていたショートパンツのポケットから、クレハが紙切れを見つけた。何桁かの数字の羅列が殴り書きしてあり、少し間隔を空けて末尾に「B1」と書かれている。

「暗号かな……」だとしたら、解読は不可能だろう。

「ちょっと見せてもらっていい?」

 店長は車を路肩に停めた。紙切れを受け取ると、店長はブツブツ呟きながら数字を睨みつけた。

「これ、経緯度じゃないかしら」

「経緯度?」

「ええ、数字しか書いてないけど、『139』が東経、『35』が北緯だと考えると、恐らく日本のどこかの経緯度を表してると思う。最後の『B1』は、地下一階ってことじゃない?」

 僕は感心した。クレハも目を丸くしている。

「何で分かるんですか?」

「言ったでしょ? こういうの、大好きなのよ」店長は自慢気だ。「ネットでその数値を入力すれば、場所が検索できるわ。私のスマホ、使って」

 店長に借りたスマートフォンに数値を入力すると、住所が表示された。店長の言った通りだ。

「東京ですね……新宿二丁目?」

 店長が即座に反応する。

「何でまたそんなトコなのよ。まあいいわ、行くっきゃないわよね。二丁目なら任せなさい!」

 店長は車をUターンさせると、新宿方面に向かってスピードを上げた。


 大ガードをくぐり、靖国通りを少し行った所で店長は車を停めた。

「ここから歩いていきましょう。じきにこの車は見つかるわ。すぐそこは歌舞伎町だし、警察もそっちを捜索するだろうから、少しは時間稼ぎできるでしょう」

 午後十一時を過ぎたところだが、歌舞伎町はまだまだ賑わっている。いくら警官や防犯カメラが多くても、この人混みの中に紛れて移動すれば、簡単には見つからないだろう。

「村上さん、これを持ってきたんですけど……」クレハが後ろの座席から大きな紙袋を引っ張り出した。中には、オレンジ色のもふもふした物が入っている。

「着ぐるみか。ありがとう、助かるよ」

「もうフィユ・ルジーには戻れないだろうし、持ってきて良かったです」

 新宿三丁目を抜けて、小道に入っていく。人通りは少し減ったが、それでも賑やかだ。ここが、ゲイタウンとして有名な新宿二丁目か。初めて来た。

 スマートフォンに表示された地図と、実際の建物を見比べる。

「この辺ですね……多分、このビルです。ここの地下ってことですかね」

 店長は、驚いたように口を抑えた。

「まさか、ここ? 何で?」

 ずんずんとビルの中に入っていく店長に、僕とクレハは恐る恐るついていく。奥の階段を降りていくと、薄暗い通路の奥に人の気配がした。僕たちに気付いたのか、ゆっくりと近づいてくる。かなり大柄の男性だ。低い声が響く。

「ここは観光バーじゃないぞ。冷やかしならさっさと帰れ」

「ワタシよ、シノブ」

 店長がシノブと呼んだその男は、途端に笑顔になった。

「なんだぁ、ヨッシーじゃない! 飲みに来るなら言ってよ、もう」シノブさんは僕とクレハを一瞥する。「……そちらは?」

「友人よ。ワタシの紹介ってことでいいでしょ? ちょっとママに話があるの」

 重厚な扉には「BAR monkshood」と書かれた小さな木札が掛けられている。モンクスフードというのは、確かトリカブトの英名だったような気がするのだが。

「ママ、ヨッシーが来たわよ」

 薄暗い店内にはバーカウンターがあり、マスターらしい女性がグラスを磨いている。客の姿はない。彼の後ろにある棚には、ずらりと酒のボトルが並んでいる。普通のバーと変わりない。

「あら、いらっしゃい」

 その低い声を聞いて、僕は驚いた。どこからどう見ても女性のそのママは、どうやら男性のようだ。彼は表情を変えずにグラスを磨き続ける。

「初めての人を連れてくる時は、事前に連絡してくれないかしら」

 店長は真剣な顔でママに言った。

「違うの。飲みに来たんじゃないのよ。ママ、検見川凛って娘、知ってる?」

 ママの手が一瞬止まる。

「さあ、知らないわね」

「その娘が持っていた紙切れに、ここの住所が暗号化されて書かれてたわ」

「何を言ってるのか分からない」

 店長は思い切りカウンターを叩く。こんな店長、見たことがない。

「彼女が危ないのよっ!」

「……危ない? どういうこと?」

 僕は割って入って言った。

「検見川さん、ある男に連れ去られてしまったんです」

 ママは、僕の顔をじっと睨みつけた。すると、すぐに目を丸くして驚いたように口を抑えた。

「あなた、もしかして、指名手配されてる村上惣市郎じゃないの?」

 しまった、と一瞬思った。通報されるかもしれない。

「ちょ、ちょっと待ってなさい!」ママは慌ててカウンターの奥にある扉の中に入っていった。

 僕は店長に目をやった。彼は首を振る。

「大丈夫。ここのママは、冷たく感じるかもしれないけど信頼できる人よ」

 しばらくして、扉が開いた。出てきたのは、ママではなかった。

「村上! 無事だったか!」

 それは、高野だった。無精髭が生えているが、間違いなく高野だ。

「高野さんっ!」僕より先にクレハが叫び、カウンターの中に入って高野に飛びついた。

「く、紅葉さん」

 彼女は何も言わず、ただ高野に抱きついていた。どうやら、泣いているようだ。

「あら、まあ」店長はニヤニヤしながら僕の腕を引っ張る。「ちょっとだけ、外に出てましょう」

 ママとシノブさんも、店の外に出てくる。二人とも、何やら嬉しそうだ。

「何だかいいもの見せてもらっちゃったわ」

「ていうことは、あの娘がクレハちゃんかしら」ママが興味深々で訊いてくる。

「そうです。ところで、なぜ高野がここに?」

 ママは、煙草を取り出して火を付けた。

「総理大臣が暗殺された夜だったわね。彼――ジュンって呼んでるんだけど、突然店に転がり込んできたの。匿ってほしい、ってね。いいオトコだし、何だか面白そうだったから、オッケーしたのよ。そしたら、総理殺害の指名手配犯だっていうじゃない? びっくりしたわよもう」

 その後、間もなくして検見川さんも店に逃げ込んできたらしい。

 気が付くと、ママは僕を品定めするようにジロジロ見ている。

「あなたも、よく見るといいオトコじゃない」

「あら、ホント。でも、ノンケよね?」シノブさんが至近距離で訊いてくる。

「は、はい?」

 店長が慌てて割って入る。

「やめなさいよ。大事なお得意さんなんだから!」

「まあ、いいわ。そんなことより、凛ちゃんが連れ去られたって?」

 僕たちは店の中に戻り、高野に検見川さんのことを伝えた。

「そうか……彼女を巻き込んでしまったな」高野は俯く。

「でも、彼女、マインドコントロールはされてないみたいだった。むしろ、マインドコントロールされているふりをして、この場所のことを教えてくれたんだ」

 でも、氷室は検見川さんに薬を飲ませたと言っていた。なぜ彼女は正気を保っていたのだろう。

「ところで村上。検見川さんは、氷室の洗脳を解く特効薬ができるかもしれないと言っていたが、どうなった?」

「ああ、候補物質の単離に成功して、構造決定もした。化合物名は『エフィカシン』。でも、マウスに対する簡易的な試験しかしていないんだ。ヒトに対して本当に効果があるか……」

 そこまで言って、はっとした。

「もしかして、検見川さん、エフィカシンを飲んだのか?」

 だとすれば、検見川さんは身を持って薬の効果を証明したことになる。

「ところで、ミオコちゃんは無事か?」

 高野に訊かれて、僕は首を振った。

「……ミオコは、氷室の所に行ってしまった」

「遂に奴の手に落ちたか。ミオコちゃんがいないとなると、俺たちに勝ち目はほとんどないな」

 店の中が重い沈黙に包まれる。店長が恐る恐るといった感じで口を開いた。

「よく分からないけど、そんなに深刻な状態なの? 大体、その氷室っていう奴は一体何者なのよ?」

 僕は、真木刑事が話していたことを思い出した。

「氷室は、不易会革新派とともに術場を利用して全人類の洗脳を企んでるらしい」

「お前、それをどこで?」

「連続失踪事件担当の刑事が、不易会革新派の人間だったんだ。彼女が言っていた」

 高野は唸った。

「確かに、ミオコちゃんの力が加わったなら、その程度のことは技術的に可能だ」

 その程度のこと? 全人類を洗脳することが、そんなに簡単なことなのか。僕は思わず身震いしてしまった。

「しかし、どうも納得がいかない。本当にそれが、氷室の目的なのか?」高野は首を傾げる。なぜ高野がそんなことを考えるのかよく分からないが、そんなことはさておいて、僕の頭の中はミオコで一杯だった。

「ミオコを、助けなきゃ」

 無意識に、僕はそう呟いていた。

「村上くん、あなたやっぱり、ミオコちゃんのことを愛してるのね」

 店長の言葉に、僕は素直に頷く。

「検見川さんも心配だ。マインドコントロールが効かないことに氷室が気付いたら、何をされるか分からない」

 僕は高野と目を合わせた。

「よし、マフリに向かうぞ。術場を使用する武器もいくつかあるし、ミオコちゃんにその薬を飲ませることができれば、勝機はある」

 店長が困ったように言った。

「でも、車を停めてある場所にはもう戻れないわ。もう警察が発見した頃だと思う」

「アタシの車、使いなさい」ママがキーを高野に渡す。「裏のパーキングに停めてあるわ」

 クレハが高野に近寄る。

「高野さん、私も連れていってくださいませんか?」

「駄目です。クレハさんまで危険な目に遭わせる訳にはいかない。ここに隠れていてください」

「ミオコが心配なんです! それに、何かお役に立てることがあるかもしれない」

 その時だった。突然、店のドアが大きく開けられた。外で見張りをしていたシノブさんが、青い顔で叫ぶ。

「逃げて! 警察よ!」

 スーツ姿の男が、拳銃のグリップでシノブさんの頭を殴る。しかし、シノブさんは微動だにしない。

「……ってぇな。なにすんじゃオンドルァ!」ドスの効いた声で、シノブさんはスーツの男の襟元を鷲掴みにすると、そのまま頭突きを喰らわせた。鈍い音が響いて、男はその場に崩れ落ちる。シノブさんは急いでドアを閉め、体で押さえつけた。ドアを激しく叩かれる。

「どんどん来るわよ! 早く!」

 ママが、カウンターの奥にある扉を開ける。

「ここから裏口を抜ければ、パーキングまで行けるわ!」

「仕方がない。クレハさん、私から離れないで! 村上、行くぞ!」高野はクレハの肩を抱くようにして、扉の中に入っていく。

 入口のドアが開けられ、シノブさんがはね飛ばされた。目にも留まらぬ速さで、武装した集団が銃を構える。これがSATというやつだろうか。

 その時、ママが手に何かを持って彼らに対峙していることに気がついた。酒のボトルだ。口に火が付いている。まるで火炎瓶のようだ。次の瞬間、ママの口から炎が吹き出た。こんな大道芸、見たことがある。恐らく、度数の高い酒を口に含んで、ボトルの火に吹きかけたのだろう。

 SATの隊員たちが一瞬のけぞったかと思うと、スプリンクラーから水が吹き出た。

 ママは、持っていたボトルを床に叩きつけた。炎が床一面に広がる。

「村上くん、行くわよ!」

「は、はいっ!」僕はママの後について奥の扉に逃げ込む。振り返ると、店長とシノブさんが隊員たちともみ合っている。

 裏の階段を上がり外に出た。ビルの隙間を抜けると、小さな駐車場があった。そこに停められている赤いコンパクトカーに向かってキーを向け、ドアの鍵を開けると、そのまま高野にキーを投げ渡した。

「ジュン、車は好きに使って! アタシは戻ってひと暴れするわ!」

「ママ、ありがとう!」

 僕たちは急いで車に乗り込むと、高野は素早くエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。

 背後から銃声が聞こえる。

「頭を低くするんだ!」高野が叫ぶ。僕はクレハをかばうようにシートに体を隠す。

「このままマフリまで向かう!」


 高速道路はもちろん、国道二十号線も検問を実施している可能性があったため、細めの道を選んで高野は車を走らせた。そのため、立川に着いた時には、二時近くになっていた。

 車は、以前マフリに来た時の入口だったダミー会社の前をゆっくりと通過した。

「高野、ここから入るんじゃないのか?」

 すると高野は、ダミー会社の様子を窺いながら言った。

「いや、ここは危険だ。恐らく警備が厳しくなっているだろう」

 もう少し進んだ所で、彼は車を停めた。工事現場だろうか、仮囲い塀が歩道脇に連なっている。中の様子は見えない。高野は車を降りて、車両出入り口の鍵をいじり、アコーディオンカーテンのような塀をゆっくり開け始めた。

「ここは?」僕は、車に戻ってきた高野に訊いた。

「もう一つのマフリへの入口だ」

 敷地の中には二階建てのプレハブ小屋があり、その脇に廃車が積まれている。高野は、廃車の陰に車を停めてエンジンを切った。

「こういう事態を想定して、マフリ創設時に私の在籍する不易会穏健派に依頼して準備させておいた場所だ。今話題になっている『ヤード』に近いかな」

 ヤードというのは、確か中古車や廃車を解体する作業場のことだ。盗難車の解体や輸出など、不法行為の温床になっているとニュースで聞いたことがある。

「ここもあのダミー会社と同じく、ちゃんと経営実態がある。もちろん、合法的な仕事をしているはずだが」高野は笑う。「あのプレハブの裏は土手になっていて、倉庫に見せかけたトンネルが掘ってある。かなり狭いが、マフリの通気口につながっているんだ」

「検見川さんは、そこを通ってマフリから脱出したのか」

 高野は頷く。そして、人差し指に指輪のような物をはめた。ユキエとの戦いの時に使っていた、術場を使った武器だ。

「今夜はもう遅い。あのプレハブ小屋の中にシャワーや仮眠室がある。少し仮眠をとって、明け方に潜入しよう」


 僕は目を覚ますと、静かに外に出た。少しずつ空が白んでいく。少し肌寒い。

「少しは休めたか?」

 高野が、缶コーヒーを飲みながら小屋の前のベンチに座っていた。もう一本の缶コーヒーを僕に差し出す。

「……巻き込んでしまって、すまない」

 僕は、彼の隣に腰を下ろしてプルタブを開ける。

「いや、いいんだ。高野のせいじゃないだろ」

「氷室は、俺の周囲の人間を巻き込んでいる。ターゲットは俺だ。俺に責任がある。田中さんも、ミオコちゃんも、俺のせいで拉致されてしまったんだ」

 僕は、何も言わなかった。確かにそうかもしれない。氷室は、高野の友人が帝都女子大に勤務しているのを知って、女子大の学生を中心に狙い始めたとも考えられる。

「でも、田中さんを守れなかったのは僕の責任だ。彼女はどうしても助けたい。それに……」

 僕は、ミオコの凛とした表情を思い浮かべた。

「ミオコに出会えたのは、ある意味お前のおかげだろ? 感謝してるよ」

「散々痛い目に遭ったのに?」高野が冗談めいて言う。

「ああ、何度殴られたことか」僕は苦笑した。「でも」

「でも?」

「僕には、彼女にちゃんと伝えなければならないことがある。だから、絶対に助け出してみせる!」

 高野は「おぉ」とわざとらしく歓声を上げる。

「ついに『熱帯魚が恋人』から卒業か?」

「うるさい、ほっとけ」

 二人で笑いあっていると、クレハが姿を見せた。

「おはようございます。お待たせしてすみません。……何だか楽しそうですね」

「いえいえ、男同士のくだらない馬鹿話ですよ。さて」

 僕たちはお互いに目を合わせ、頷きあった。

「マフリに行くぞ!」


 トンネルの中は思ったより広かったが、すぐに行き止まりになってしまった。奥にはドラム缶が二段に積まれている。

「あそこに通気口がある。少し狭いが、その格好で大丈夫か?」

 高野が指差した方向に、寝転がれば何とか通れそうな大きさの四角い穴がある。結構高い位置にあるが、ドラム缶に登れば届くだろう。ちなみに僕は着ぐるみを着ているので、余裕で登れると思う。

「クレハさん、あそこまで登れそうですか?」

 クレハは困った表情で見上げる。

「無理そうです……何だか足を引っ張ってばかりで、ごめんなさい」

「クレハ、ちょっとごめんね」僕はクレハをひょいと抱えた。地面を軽く蹴る。

「ひゃう」

 一番上のドラム缶にふわりと着地する。僕にしがみつくクレハは、何が起こったのかよく分からないといった顔だ。

 通気口の中を匍匐前進して進む。三十分ほど経った頃、先頭を行く高野がストップした。

「ここだ」

 何かを外す音が響く。どこかの部屋の真上にいるのだろうか、天井の換気口のようだ。通気口から高野の体がゆっくりと抜け出ていく。

 そこは、薄暗い倉庫のような部屋だった。広さはそれほどない。段ボールがうず高く積まれ、古びた事務機器が埃を被っている。

「この部屋は、俺が準備しておいたものだ。倉庫のようだが、実際は全く使用されていない」

 高野は体についた埃を払いながら言った。

「恐らく、ミオコちゃんと検見川さんは他の娘たちと一緒に例の部屋にいると思う。村上、覚えているか」

「ああ、覚えてる。まるで病室みたいだった」

「ここからあの部屋まで、監視カメラがないルートがある。俺についてきてくれ。検索をしている自衛隊員がいるかもしれないから、気をつけるんだ」

 高野の後について、静かに廊下に出る。何だか見覚えがある。間違いなくマフリの内部だ。人の気配は全くない。

「全員、メインフロアに軟禁されたままなのかもしれない」

 しばらく進むと、高野は角から様子を窺った。

「この先に例の部屋がある。見張りはいないようだが、部屋の前方上部に監視カメラがあるんだ。何とかならないか、村上」

 僕は少し考えた。

「入口が写らないように、方向を少しずらしてくる。あまり時間稼ぎにはならないと思うけど」

「よし、それでいこう。ミオコちゃんに薬を飲ませるには十分だ」

 僕は一度深呼吸して、通路を走り出した。そのままスピードを上げ、地面から壁へと足を踏み出し、そのままの勢いでカメラに向かって壁を走り抜ける。

 カメラに手が届く所まで来ると、足を踏ん張り、素早く丁寧にカメラの方向をずらした。そのまま地面にストンと着地する。

 高野とクレハが走り寄ってくる。

「すごいです、惣市郎さん!」クレハは興奮気味に言った。

 高野はドアの操作盤にカードキーをかざして素早く暗証番号のようなものを入力する。ガチャッと音がしてドアが開く。

「行くぞ!」

 警戒しながら中に入る。ガラスの仕切り板の向こうに、ベッドが並んでいる。以前ここに来た時と同様に、拉致されたと思われる女性がそれぞれのベッドに横になっていた。この中のどこかにミオコがいるはずだ。

 突然、高野はガラスにへばりついて呟いた。

「……何だ、あれは」

 部屋に飛び込んでいく高野に、僕とクレハもついていく。

 部屋のほぼ中央に、銀色の大きな金属タンクのような物が置いてある。NMRのようにも見えるが、かなり複雑な配線がしてある。さらに、そこから放射状にケーブルが延びていて、ベッドに横たわる女性の頭部につけられたヘッドホンのような物に繋がっている。

 僕は、ベッドに横たわる人の顔を一人一人確認した。その中の一人、その可愛らしい寝顔に、見覚えがあった。

「田中さん!」

 僕は彼女の肩を揺すって呼び掛けたが、全く反応がない。

「お母さん! 目を覚まして!」クレハが叫ぶ。どうやら彼女のお母さんのようだ。しかし、田中さんと同様に反応はなさそうだ。

「二人とも、彼女たちに触れるな。これは、何かおかしい」

 高野は、金属タンクの様子を調べているようだ。僕はさらに女性の顔を確認していく。

「……先生? 冴木先生!」

 驚いたことに、冴木先生の姿もあった。学会に行ったのではなく、ここにいたのか。

 最後の一人の顔を確認した時、不安の波が襲ってきた。

「ミオコが、いない」

 その時、入口から武装した集団がなだれ込んできた。自衛隊員のようだ。僕たちに銃を向ける。

「ここだよ」

 姿を現したのは、氷室だった。隣にいる女性は、柴原という副所長だ。初めて会った時に感じた温かさは微塵も感じられず、冷たい笑みを浮かべている。

 その後ろに、メイド姿の女性が二人立っている。紛れもなく、ミオコと検見川さんだ。

「ミオコ!」

 呼びかけても反応がない。瞳が紫色に輝いている。マインドコントロールされているのだろう。僕がミオコに駆け寄ろうとすると、自衛隊員が検見川さんに銃を突き付けた。

「動くな。ミオは殺す訳にいかないが、凛には死んでもらっても構わないんだよ?」

 検見川さんは、どうやら暴れているようだ。隊員に両腕を掴まれている。

「村上さん! あの薬、エフィカシンはちゃんと効果があるわ!」

 検見川さんは力の限り叫んだ。隊員の一人が、彼女の腹を強く殴る。彼女は呻き声を上げ、その場に崩れ落ちた。

「貴様らあああっ!」高野は氷室に向かって「銃」を構えたが、隊員の一人が銃口を検見川さんの頭に押し当てた。彼女は腹を押さえ、小さく震えている。

「この女、あろうことか私にマインドコントロールされている『振り』をしていたんだよ。そういう小賢しい真似をする女は、好きじゃないな」氷室は、彼女の顎を持って無理やり顔を上げた。

「まあでも、この女も術場エネルギーの塊のようだし、『スペア』としてとっておこう。但し、再び洗脳する前に、お仕置きだ」

 氷室の親衛隊、白衣の男たちが現れる。

「彼女を連れていけ。好きにしていいぞ」

 氷室に命令された男たちは、嫌らしく笑い声をあげると、検見川さんを強引に起こして、部屋から出そうとした。

「やめろぉぉぉっ!」高野が叫ぶ。

 氷室はニヤリと笑って、再び男たちに言った。

「待て。せっかくだから、高野くんの最期に彼女を立ち会わせてあげよう。凛、ここで見ていなさい」

 そこに、自衛隊員にガードされながら二人の男が入ってきた。そのうちの一人は、何だか見覚えがある。

「大臣……!」高野が、信じられないといった表情でその男を見つめる。

「なんだ、高野君。まだ生きていたのか」男は、汚い物を見るような目で高野を睨む。

 思い出した。確か、新しい総理大臣だ。なぜ、総理大臣がこんな所に?

 総理の隣に立つ男が訊ねる。

「総理、こいつが高野ですか」

 高野は警戒しながら僕に言う。

「井之上商事の社長だ。奴も不易会だったか」

「氷室君、こいつらは危険じゃないのか? さっさと始末してしまいなさい」

 総理が吐き捨てるように言うと、氷室は苦笑した。

「ええ、でも、その前に……」

 氷室は、クレハに視線を向ける。

「クレハ、そこは危ない。こっちに来なさい」

 すると、クレハは何も言わずに氷室のもとへ歩き出した。

 一体、どういうことだ? 僕は高野と目を合わせる。彼にも状況が理解できていないようだ。

「紅葉さん、どういうことですか」

 彼女は高野の問いに何も答えず、無表情で氷室に向かい合う。

「これで、私を革新派に入れてくれるわね?」

「ああ、もちろん。ご苦労様」

 クレハが、不易会に? どういうことだ?

「おや? 村上くんは知らないようだね。井之上家も代々、不易会の会員なんだよ。日本を代表する商社だ。当然のことだろう」

 氷室の言葉に、高野が反論する。

「しかし、井之上家も保守派のはずだ! エミリ社長と総理の会談は、術場の存在を世の中に公表するという、不易会保守派の最終方針を確認するための場だった」

 高野は、青ざめた顔でクレハを見つめる。

「それなのに、なぜ革新派に……」

 クレハは俯いて何も言わない。氷室は、彼女の肩を抱いてニヤリと笑った。

「彼女も、僕が創る新世界を見てみたいそうだ。村上くんにわざと高野くんと合流させ、状況を逐一報告してもらっていたんだよ。おかげで、君たち二人まとめて始末できる」

 高野はその場に膝をついた。

「紅葉さん……嘘ですよね? 嘘だと言って下さい」

 しかし、クレハは冷たい眼で答えた。

「いいえ、彼の言っていることは本当です。高野さん、今まで騙していてごめんなさい」

 考えてみると、「時縁」での極秘会談の予定を漏らしたのは、クレハだったのかもしれない。そして、新宿二丁目の高野の潜伏先があれほど早く発見されてしまったのも、クレハが密かに氷室に連絡したからなのだろう。

 氷室はクスクス笑い、クレハの首もとを舌でなぞる。彼女は、嫌がる素振りを見せなかった。

「ユウマ、いい加減にしなさい。そろそろ始めるわよ」副所長の柴原が、イライラした様子で氷室に行った。ユウマとは、氷室の名前だろう。

「そうだよ、氷室君。早く『世界同時洗脳』のテストをやってみせてくれ。私はこの後国会に行かなくてはならないんだ」総理は腕時計に目をやる。

 氷室は、やれやれといった風に首を振ると、腕をゆっくりと挙げ、手のひらを総理に向けた。

「死に急がなくてもいいものを、総理」

「何だと?」

 何かがおかしい。総理の体が、次第に「薄まって」いくように見える。総理は震える自分の手のひらを見つめて、叫び声を上げた。

「何だっ……何をしたっ!」

「何って、テストですよ」氷室は笑いを堪えて言った。

「た、助けてくれっ!」

 総理は、後ずさりする井之上商事の社長にしがみついた。社長は悲鳴を上げ、そのまま倒れ込んだ。彼の体もまた「薄まって」いく。ほどなくして、二人の姿が完全に消えてしまった。

 一部始終を、その場にいた全員がじっと見つめていた。自衛隊員も、白衣の男たちも、何が起こったのか理解できていないようだ。部屋の中が、静寂に包まれる。

 その静寂を、柴原の甲高い笑い声が破った。

「やったわ! 成功ね、ユウマ!」

「ええ、柴原先生」氷室は、手をゆっくりと下ろした。クレハは、氷室に抱かれたまま目を大きく見開いて震えている。

「いけない、オーガズムが来ちゃいそう……」柴原は、自分の体をぎゅっと抱きしめ、荒い呼吸で顔を上気させている。

 高野は、ゆっくりと立ち上がった。

「氷室……お前、一体何をした。二人は、どこへ行ったんだ」

 氷室は口元に笑みを浮かべる。

「『消滅』したんだ」

「消滅、だと?」

 柴原がゆっくりと金属タンクの横に体を添える。

「私が説明します、高野『所長』。ユウマの最終目的は、『世界同時洗脳』なんていうレベルの低いものじゃないのよ」

「何だって?」

 彼女は、タンクに口づけをする。

「この中には、そこに眠っている『愛の力に溢れた』女性たちから吸収した超高エネルギーの術場が充填されているの」

 僕は、術場エネルギーが愛の力だということを思い出した。

「超高エネルギーの術場を獲得するためには、最大級の愛の力が必要になる。だから、ユウマは『愛』や『憎しみ』、『嫉妬』に溢れた女性を拉致し、洗脳して術場エネルギーを獲得させ、あなたたちとの戦闘経験を得させることによって極限まで潜在エネルギーを高め、『わざと』負けさせたの」

「わざと?」

「そう。このマフリに全員が保護されているんだから、ここを襲撃すれば、簡単に超高エネルギー術場の集合体が得られるわけ」

 そういうことだったのか。それにしても。

「その、超高エネルギーの術場の力を、一体何に使おうとしていたんだ」

「……そうね、せっかくだから、術場理論の誕生からお話しようかしら」

 柴原はフンと鼻を鳴らす。

「七年前、理論物理学者だった仲村雄一郎が、ふとしたきっかけで新しい『場』の存在を発見したの。それが『術場』よ」

 彼は当時四十七歳。これといった業績を挙げていなかった無名の助教授は、その全く新しい理論の危険性にすぐに気付いたそうだ。

「彼は、すぐに学会で報告することにしたの。術場理論が他の人間に漏れて悪用される前に、存在を公にしようとしたのね」

 高野が話を遮る。

「待て。仲村助教授は、日本のために術場理論を政府に秘密裏に報告したはずだ。彼が亡くなった後は、共同研究者である氷室が引き継いだと……」

「違うわ。術場の存在を唯一教えられたのは、この私なの。私は、当時彼の研究室で助手をしていたのよ」

 高野は驚きを隠せない様子で彼女を見つめた。

「仲村はね、人付き合いが苦手で、常に自室に籠って研究をしていたの。彼、かなり迷っていたみたい。術場理論を世の中に公表すべきか、それとも、研究ノートを燃やしてしまおうか、って。私には心を許してくれてたみたいで、何度も相談を持ちかけられたわ。……私が不易会の人間だとも知らずにね」

 その年に大学院に進学し、素粒子研究室に配属されたのが、氷室だった。

「ユウマは頭脳明晰だったけど、暗くて目立たない学生だった。その時、私は閃いたの。彼の能力で術場理論を高度化させ、不易会のために、我が『日本国』のために有効利用できないか、と」

 柴原は不易会に全てを話し、氷室を協力者にすることにした。

「驚いたわ。ユウマは、目立たない学生なんかじゃなかった。むしろ、恐るべきカリスマ性を備えていたのよ」

 ある時、氷室の発案で、仲村助教授は陥れられることになる。それは、悪魔の所業だった。

「仲村が、いつものように相談を持ちかけて来た時だった。私は、彼を飲みに誘ったの。そこで私は彼に相当な量の酒を飲ませた。彼は気を失い、目を覚ました時に、私と彼は、ホテルで同じベッドの中にいたわ」

「仲村助教授を、誘惑したのか?」

 高野の言葉に、柴原は卑猥な笑みを浮かべる。

「いえ、彼の酒に睡眠薬を盛ったのよ。実際、残念だけどそのような『行為』はなされなかった。でも、私は彼に無理矢理『された』ふりをしたの。あの時の彼の顔といったら。今でも覚えてるわ。何てったって、彼は妻子持ちだったから」

「何ていうことを……」

 こんなに美しい人が、そんな恐ろしいことをするなんて。とても信じられない。

「その『事件』をネタに、ユウマは仲村を脅迫した。術場研究に関する全てを、自分に渡すようにと。そして、ユウマはそれを手に入れた」

 柴原の眼が冷たく光る。

「その中に、術場の『究極理論』があった。ユウマと私は、不易会にその存在を知らせなかった。二人だけの秘密にしたの」

「究極理論?」

 柴原は高野に微笑みかける。

「所長ならすぐに理解していただけるかもしれないけど、超高エネルギー術場は、ヒッグス場と相互作用するの」

「何だと?」

 高野の顔が青ざめている。ヒッグスというのは、何となく聞いたことがある。確か、素粒子が質量をもつための理論に関係していたはずだ。

「物理学者じゃない皆さんにも分かるように言うと、超高エネルギー術場によって、宇宙を含むあらゆる物質が素粒子の段階まで戻ってしまうの。つまり、宇宙の『消滅』よ」

 信じられない。いや、信じろというほうが無理だ。宇宙が、消える?

「総理も、井之上商事の社長さんも、めでたく素粒子の段階までバラバラになってしまったのよ」

「何を、馬鹿なことを! 宇宙が消滅したら、お前らも消えて無くなるんだぞ?」

 高野はそう叫んだが、柴原はフフフと笑った。

「だーいじょうぶよ。私とユウマは実体を保てるの。私たちは、新世界の『神』になるのよ。おっと、いけない。これ以上は言えないわ。というか、これ以上話しても、消滅してしまうあなたたちには関係のないことですものね」

 柴原は、高野に投げキッスの仕草をした。

「話を戻そうかしら。究極理論を含めた術場の全てを手に入れてしまったら、もう仲村に用はない。私とユウマは、研究棟の屋上に彼を呼び出したの」

 僕は、心臓が激しく波打つのを感じた。その続きは、聞きたくない。

「そして、言ったのよ。『そこから飛び降りろ』と」

 高野は小刻みに震えている。

「仲村助教授は、自殺したんじゃない。お前らが……お前らが殺したのかっ!」

「あーら、失礼ね。彼は『勝手に』飛び降りたのよ」

 その時だった。大きな悲鳴が部屋の中に響いた。

 クレハだ。

 一瞬の出来事だった。彼女は、胸から細身の物を抜いた。それを胸の前に構えると、柴原に向かって突進していった。

「あぐっ」

 柴原は振り返ろうとしたが、銀色に光るナイフが、彼女の脇腹に突き刺さった。

「お……まえ……」

 ナイフから、血が滴り落ちる。クレハは、今まで見たことのないような恐ろしい形相で柴原を睨んでいる。ナイフを握ったまま、肩で息をしている。

「許さない……。よくも、お父さんをっ!」

「おまえ……もしかして、仲村の、娘、か……?」

 クレハがナイフを引き抜くと、柴原の脇腹から血が噴き出した。クレハは氷室のほうを振り返り、狂ったような声を上げて彼に飛びかかっていく。氷室は微塵も慌てることなく嘲笑を浮かべると、腕をクレハに突きだした。

「あうっ!」

 クレハは、大きく弾き飛ばされた。

「紅葉さんっ!」高野がクレハに走り寄る。「大丈夫ですか、紅葉さんっ!」

 氷室はゆっくりと二人に近づいていく。

「まさか、君が仲村先生の娘さんだったとはね」

 僕は混乱した。クレハが、その仲村助教授の娘? 彼女は、井之上家の長女じゃないのか? ミオコのお姉ちゃんだろ?

 高野は氷室に「銃」を向ける。しかし、氷室がまるで虫を追い払うかのように手を振る仕草をすると、高野はその場から吹き飛ばされてしまった。

「高野さんっ!」

 氷室はクレハの前にしゃがみこみ、彼女の顎を掴み上げて、じっくりと彼女の顔を眺めた。

「なるほど。確かに、よく見るとミオには全く似ていないな」

「お父さんを……お父さんを、返して」クレハは涙を流しながら氷室を睨んでいる。

「安心したまえ。すぐに、お父さんの所に連れて行ってあげるよ」

 その時、柴原の呻き声がした。

「ユウマ、約束よ……。ちょうどいいわ。早く、私に、不老不死の力を与えて。私に、衰えることのない、美貌と、肉体を、与えて……あなたの、新しい世界の、女神に……」

 氷室はゆっくりと立ち上がると、クスッと笑った。

「ああ、そうでしたね、柴原先生。でも、ごめんなさい」

 氷室は彼女に手のひらを向けた。彼女の顔が固まる。

「新世界の女神は、ミオだ。実は僕、年増の女には、全く興味がないんです」

「な、何を……」柴原の体が透けていく。彼女は、涙を流しながらすがるように氷室に向かって微笑んだ。「嘘でしょ、ユウマ……私を、私を置いていかないでぇぇぇぇっ!」

 悲痛な叫び声を残して、柴原は消えてしまった。跡形もなく。

 突然、自衛隊員の一人が悲鳴を上げ、慌てて部屋を出ていこうとした。

「ば、化け物っ!」

 つられて、他の隊員も出口に殺到する。氷室の親衛隊である白衣の男たちまでもが、必死の形相で逃げ出そうとしている。それを見て、氷室は苦笑した。

「虫けらどもが」

 氷室は、叫びながら逃げ惑う彼らに向かって手を振りかざすと、一人、また一人と、次第に身体が薄くなり、やがて消えていった。

 再び静寂が訪れる。

「村上さんっ!」男たちから解放された検見川さんが、僕に飛び付いてきた。「こわかったよう……」

 しゃくり上げる彼女を、僕は優しく抱き締めた。いつも強気なだけに、検見川さんのその姿は意外だった。

 氷室がクククと笑う。

「おやおや、村上くん。君の愛するミオの目の前で、そんなことをしていいのかい? なあ、ミオ」

 ミオコは無表情のままだ。しかし、瞳は濃い紫色に染まっている。

「村上くんも『消滅』させてあげるつもりだったけど、気が変わったよ。ミオ、君が村上くんを殺してあげなさい」

 ミオコがゆっくりと迫ってくる。

「検見川さん、僕から離れて。高野を頼む」

「村上さん……」

「ミオコと、話があるんだ」

 検見川さんは淋しそうな顔をして、もう一度僕に抱き付いてきた。

「……死なないで」

 彼女はゆっくりと僕から離れる。

 目の前に、無表情のミオコが立ちはだかった。紫色に揺らめく眼を大きく見開いている。果たして、僕の姿は彼女の眼にどう映っているのだろうか。

 僕は、彼女に頭を下げた。

「ミオコ、ごめん。僕、君の気持ちを理解せずに、叩いてしまった。最悪の男だよな」

 彼女は返事をしない。ただひたすら無表情だ。僕は、思い切り深く頭を下げる。

「許してくれ!」

 高野が検見川さんに肩を借りて立ち上がろうとしている。

「村上……やめろ! その娘は、お前の知っているミオコちゃんじゃない! 殺されるぞっ」

 僕は、ゆっくりと着ぐるみの頭を脱いだ。高野が叫ぶ。

「何をしてるんだ、村上っ!」

 目の前に、ミオコがいる。気のせいだろうか、微かに良い香りが漂っているようだ。何だかとても懐かしく感じる。心臓がドキドキする。

「君に殺されるなら、それでも構わない」

 すると、ミオコは僕の首に手をかざした。そのまま、拳を握り締める。その瞬間、首に強烈な痛みが走った。物凄い力で首を捻り潰されているかのようだ。

「か……は……」

 息ができない。意識が朦朧とする。

 氷室が腹を抱えて笑っている。そして、爪を噛みながらブツブツと何かを何かを呟き始めた。

「ざまあみろ。どいつもこいつも僕を馬鹿にしやがって。僕は、術場の力で全てを手に入れた。比類なき美貌と、不老不死の強靭な肉体。僕はこの世界の神だ。腐った世の中を消滅させて、僕が正しくて美しいと感じる新世界を創るんだ。ムカツク野郎どもは全て消し去って、今まで僕に見向きもしなかったような美しい女たちを術場の力で永遠の乙女にして、メイド服を着せて、美味い酒を飲みながら、セックスドールのように永遠に弄んでやる! 僕は神だ! 僕は、新世界の創造主なんだっ!」

 狂ってる。そんな下らない欲望に、この娘を、ミオコを巻き込むわけにはいかない。ミオコを、助けたい。

 僕は、朦朧とする意識の中で彼女の顔を見つめる。

「キミのことが、好きだ」

 一瞬、首にかかる力が緩み、僕は地面に崩れ落ちた。

 急にミオコが頭を抱えて呻きだした。

「あああ……」

 苦しそうに二、三歩ふらつく。遂には、床に膝をついてしまった。白く透き通る顔は苦痛に歪み、大きな汗が滴り落ちる。そして、まるで僕に助けを求めるかのように、確かに彼女はこう呟いた。

「ソウイチロウ……」

 僕は、わずかに残る力を振り絞って立ち上がる。検見川さんの叫び声が響いた。

「村上さん! 薬! エフィカシンを、彼女に飲ませてっ!」

 僕は胸ポケットに入れておいたカプセルを取り出し、考えた。果たして、彼女は大人しくこれを飲んでくれるだろうか。

 僕は、ほとんど無意識にそのカプセルを自分の口に入れ、歯で挟んだ。

「村上さんっ? 何をやってるのっ!」

 よろめくミオコに近づき、彼女を抱き締めた。ふわりと優しい香りが漂う。抵抗されるかと思っていたが、不思議と彼女は全身の力を抜いている。

 彼女の顔は、気のせいか赤らんでいるように見える。紫色の瞳を僕に向け、ゆっくりと呼吸をしている。

 僕は、何の迷いもなくミオコと唇を重ねた。冷たく柔らかな感触。彼女の家に初めて行った夜を思い出す。

 驚いたことに、ミオコは自分から僕を求めてきた。その細い腕を優しく僕の肩に絡める。目蓋を閉じた彼女の目に、涙が溢れた。その涙は、紫色に美しく光りながら、頬を流れていく。

「おいっ! 貴様ら、何をやってるんだ!」

 氷室が体を震わせながら僕たちに歩み寄ってくるのが見えた。

 僕は、歯で挟んでいたカプセルを、口移しでミオコの口の中に滑り込ませた。彼女の唇が、ゆっくりと離れていく。と同時に、彼女の喉が小さく動くのが見えた。

 氷室が彼女の髪を掴み、僕から引き離そうする。

「ミオ、そいつから離れろ! お仕置きされたいのかっ!」

 その時、僕は気付いた。恐らく、氷室も気付いただろう。

 ミオコの瞳が、紫色を帯びていないことに。

 彼女は不敵な笑みを浮かべると、流れるような動作で懐から何かを取り出した。それは、銀色に光る「ハサミ」だった。

「残念だったわね、ド変態野郎」

 久々に聞くミオコ節だ。しかし、懐かしさに浸る間もなく、彼女は氷室が引っ張る黒髪に、豪快にハサミを入れていく。僕は、声を出すことすらできなかった。それは、その場にいる全員が同じだった。

 氷室の手に、その艶のある美しい黒髪が残る。彼は手を震わせた。

「何てことをしてくれたんだ……!」

 すっかりショートヘアになってしまったミオコが、ドヤ顔で腕を組む。

「あんたみたいな変態に誉められるくらいなら、髪なんていらないのよ!」

 ミオコは、僕を振り返る。短い髪の彼女に、僕はドキッとした。彼女は頬を膨らませ、僕を睨む。しかしその顔は優しさに溢れていた。

「大体、ソウイチロウなんて一度も誉めてくれたことないし」

 あれ、そうだったかな? 僕は慌てる。

「ご、ごめん……」

「あははっ、いいわよ別に。謝んないでよ」ミオコは少し笑って、すぐに凛とした表情に戻って言った。「ソウイチロウ、ありがとね。おかげで目が覚めたわ」

 彼女は、着ぐるみの襟元を掴み上げて囁いた。

「好きよ、私も」

 途端に、僕の目に涙が溢れる。ミオコの顔が、よく見えない。

「ああもうっ! ほんと情けない! 何で泣くかな」

 彼女は僕にクマの着ぐるみの頭をガポッと被せた。

 その時、氷室がブツブツ呟いているのに気付いた。

「ミオ、お前、『能力』は、どうした……」

「は?」

 彼女は手のひらを見つめた後、身体のあちこちを触ったりした。

「そういえば、何か変ね。メイド服を着てるのに、何かおかしい」

 検見川さんが口を開く。

「もしかしたら、エフィカシンの副作用かもしれない。あなたの能力は、失われてしまったのかもしれないわ」

「『魔女』じゃなくなったってこと? 私が普通の人間に?」

 氷室は頭をかきむしる。

「髪の毛だけでなく、術場エネルギーまでも失うとは……! ミオ、もうお前に用はない!」

「望むところだわ! ばーか!」

 氷室はクレハに歩み寄り、彼女を引っ張り上げる。

「一緒に来い! 代わりにお前を女神にしてやる!」

「いやっ、離して!」

 僕は、クレハを助けようと猛ダッシュした。しかし、あと一歩の所で目に見えない壁のようなものに思い切りぶち当たってしまった。体に激痛が走る。

 よく見ると、氷室とクレハの周囲を薄く紫色がかった霧のようなものが覆っている。

「やめておけ。僕は全てを超越したんだ。君の術場エネルギーのレベルでは、もはや太刀打ちできないんだよ」

 氷室は嘲笑した。

「この場で君たちをまとめて素粒子の藻屑にするつもりだったが、気が変わった。君たちに、この世界の終わりを見せてあげよう」

 彼とクレハの姿が、次第に紫色の霧に包まれていく。

「待て!」僕は霧の中に手を突っ込むが、前に進めない。

「僕は三分間なんて酷なことは言わない。三日間だ。三日間待ってやる。世界が恐怖と混乱に満ちて崩壊していく様を、その目に焼きつけて消滅するがいい!」

 ミオコが霧の中に向かって叫ぶ。

「おねえちゃんっ!」

 もはやクレハの姿は確認できない。しかし、微かに彼女の声が聞こえた。

「ミオコ……ごめん。ごめんねっ!」

「お姉ちゃん、絶対、絶対助けるからっ!」

 霧は次第に薄れ、やがて消えていった。しかし、そこに氷室とクレハの姿はない。

 僕は、俯くミオコの傍に寄り添った。

「……分かってた。本当のお姉ちゃんじゃないってこと」

「ミオコ……」

「でも、紅葉お姉ちゃんは、今までもこれからも、私のお姉ちゃんよ。氷室の好きにはさせない!」

 その時、警報のようなものが鳴り響いた。

「何だ?」

『プログラム、レベルZ、始動。十五分後に、施設内を術場処理します。施設内の関係者は、直ちに屋外へ退避してください。繰り返します……』

 検見川さんに支えられた高野が、顔を青くして叫ぶ。

「氷室の奴、非常システムを作動させやがった! 早く逃げないと、術場エネルギーで焼き殺されるぞ!」

「そんな……でも、彼女たちはどうするんだよ!」

 ベッドに横たわる女性たちは、ぴくりとも動かない。

「メインフロアに軟禁されている研究員たちを呼んできてくれ! 彼らに運ばせる! 大丈夫だ、緊急脱出口を使えば、きっと助かる!」

 僕は、ミオコと目を合わせて頷き合った。

「行くわよ」

「うん!」


 メインフロアでは、白衣を着た二、三十人くらいの研究員たちが騒ぎ出していた。その近くで、二人の自衛隊員が自動小銃を構え、静かにするように警告している。

 僕はスピードを緩めず、そのまま一人の隊員に突っ込んでいく。銃をはねのけ、素早く腹部に突きを入れる。彼が崩れ落ちるのを待たず、僕は思い切り床を蹴って飛び上がった。ざわめく研究員たちの頭上を飛び越える。反対側にいた隊員が悲鳴を上げて銃を向けてきたが、僕はそのままの勢いで蹴りを喰らわせた。彼は床に倒れ込んで動かない。

 研究員たちは、静まり返っている。クマの着ぐるみが、ものの数秒で屈強な自衛隊員を倒したのだから、驚いて当然だ。

 すかさずミオコが彼らに呼び掛けた。

「高野さんは生きているわ! みんな、拉致された女性たちを運ぶのを手伝って!」

 研究員たちから拍手と歓声が上がった。


『術場処理まで、あと五分です。施設内の関係者は、直ちに屋外に待避してください』

「急いで!」先頭でキャスター付のベッドを運ぶ検見川さんが、後方に続く研究員たちに叫んだ。 

「所長! あと二分でゲートが閉鎖します!」

「くそっ、間に合わないか?」

 高野の顔が歪む。僕は疑問に思った。

「高野、放送ではあと五分あると言ってるぞ?」

「違う。術場処理開始の三分前に、術場エネルギーを遮断する緊急脱出口のゲートが閉まるんだ。そうすると、もう脱出はできない」

「何だって? 脱出口まであとどの位だ?」

「道なりに行って、あと五百メートルはある」

 駄目だ。ベッドを押しながらの移動では、間に合いそうもない。僕は閃いた。

「先に行って、ゲートが閉まらないように抑える!」

「何だって?」

 僕はスピードを上げた。あっという間に脱出口らしきものが見えてくる。大型トラックが通れるくらいの大きさだ。

 上から、シャッターのようなものがゆっくりと降りてくるのが分かった。僕はその真下で急ブレーキをかけると、両手を高く掲げた。やがて手が届くくらいシャッターが降りてくると、僕は思い切り踏ん張って、シャッターを受け止めた。

 着ぐるみの力をもってしても、物凄い力でシャッターが動き続ける。僕は歯を食いしばった。やがて、高野たちが見えてきた。

「村上! もう少し耐えてくれ!」

 研究員たちは息を切らせながら、ベッドを一台また一台と通過させていく。

「最後の一台よ!」ミオコが傍らで叫ぶ。僕は残る力を振り絞った。

 最後のベッドが通過したのを確認して、僕はシャッターから手を離し、転がり避けた。それから程なくして、シャッターは大きな音を立てて完全に閉じてしまった。

「やった……」僕は、その場に大の字になって寝転んだ。身体中が痺れている。

 突然、ミオコが覆い被さってきた。満面の笑みだ。

「よくやったわ、ソウイチロウ!」

「み、ミオコさん、いたい、いたいです」

 痛いけど、何だかやけに嬉しい。そして、着ぐるみ越しに伝わるミオコの温もり。検見川さんが咳払いをすると、ミオコは僕から離れ、ちろっと舌を出して悪戯っぽく微笑んだ。

 しばらくトンネルを進むと、巨大なゲートの前に辿りついた。脇の壁にあるナンバーロックを高野が操作すると、ゲートは大きな音を立ててスライドし始めた。中央部分から、光が差し込む。どこからともなく歓声が上がった。

 ゲートの向こうには、雑木林が広がっていた。砂利道が横切るようにまっすぐ伸びている。

「昭和記念公園の西側だ。ゲートの開閉は、立川駐屯地で感知される仕組みになっている。じき、自衛隊員が来るだろう。投降して、事情を話すことにしよう」

 その時、研究員たちがどよめきだした。

「しょ、所長! あれを見てください!」検見川さんが、上空を見て叫ぶ。僕と高野は後ろを振り返った。

「何だ、あれは……」

 そこには、信じられないような光景が広がっていた。

「……城?」ミオコも口をぽかんと開けて見上げている。

 たった今脱出したマフリの研究所があると思われる場所の上方に、ミオコの言う通り「城」があった。日本の城のようにも見えるし、ヨーロッパの古城のようにも見える。しかし全体的に何か丸みを帯びていて、ファンタジーに出てくるような感じの「城」だ。

「あれが『王国』か。術場エネルギーで造られた張りぼてだろう。どこまでもふざけた野郎だ」

 氷室は、あの城の上から、世界が壊れていく様を見下ろすつもりなんだろう。残された時間は、三日。

 誰もが呆然とその城を見上げていたその時、ミオコがハッと笑って言った。

「……ださっ!」


 その日の夜、僕はミオコの部屋でメイド姿の彼女と酒を酌み交わしていた。

 彼女はベッドに腰をかけて、グラスに注いだワインをまるで水のように飲み干すと、「くぁ~」とオヤジくさい声をあげて体をくねらせた。

「沁みるぅー! 私ってば、何ヶ月ぶりのお酒なわけ? あまりに飲まない期間が長かったせいで、何だか体調悪いわ」

「いや、むしろ体にいいと思うけど……」

 ミオコは僕の意見を無視して、グラスに並々とワインを注ぐ。

 テレビのニュースは、立川に突然姿を現した「城」の話題で持ちきりだ。「立川城」と呼んで、面白おかしく報道するメディアも出てきた。どうやらこの城はマフリの上にある昭和記念公園と、その隣の立川駐屯地全てを覆うほどの大きさらしい。防衛省によると、立川駐屯地と全く連絡が取れない状況だそうだ。

 城の話題とともに、総理大臣が行方不明になったというニュースも流れている。官房長官が会見を開き、ひたすら「現在調査中」と繰り返す。

 高野によると、官房長官は不易会の保守派の人間らしく、マフリからの脱出後に連絡をとり、僕たちは政府に救助された。

 氷室に拉致された女性たちは全員、政府が管理する病院に入院したそうだ。そんな病院があること自体知らなかったが、とにかくこれでミオコのお母さんや田中さんは安全だろう。

 検見川さんは、他の研究員たちとともに国の研究所へ向かい、すぐさまエフィカシンの合成研究に着手することになった。検見川さんの能力をもってすれば、大量合成に成功するまでそれほど時間はかからないだろう。

 高野は官房長官に呼ばれて首相官邸へと向かった。今回の件で不易会の保守派と革新派は一時的に協定を結び、官房長官をトップにして氷室への対抗策を考えることになったらしい。高野は官房長官付の身分で対氷室の作戦本部長になったそうだ。

 三日後、氷室との全面対決が待っている。僕とミオコは、その時に備えて休養をとることになったのだ。

「それにしても、一昨日あたりからの記憶が全くないわ。それまでは、かろうじて自分を保っていたんだけど」

 検見川さんの言った通り、ミオコは僕を遠ざけるためにわざとああいうことを言ったそうだ。

「あのビンタは、かなり効いたわあ」

「ご、ごめんなさい! 僕、全然気付かなくて」

 ミオコは淋しそうな顔をして、グラスの縁を指でなぞる。

「あれは、『あの娘』への愛の力なのかしら」

 検見川さんのことか。またそういうことを。僕は言葉に詰まる。

「勘弁してよ……」

「あはは、ごめんごめん。いじめちゃ可哀想よね」

 ミオコは、ベッドに転がっていたあのもじゃもじゃのぬいぐるみの「長老」を手に取った。彼女はメイド服を着ているのに、長老をはじめ、ぬいぐるみたちは全く動く気配がない。

 ミオコは、少し寂しそうに笑った。

「長老、あなたの言っていた通り、ソウイチロウはどうやら私の『運命の人』だったみたいね」

 氷室のマインドコントロールが解けたことで、ぬいぐるみも元のように動き出すかもしれないと思っていたのだが、どうやら検見川さんの言うとおり、今度はエフィカシンの副作用で、ミオコは本当に「能力」を失ってしまったのだろう。

「この子、お父さんに買ってもらったの。今でこそ『長老』なんて呼んでるけど、昔はもっと真っ白でフワフワしてたのよ」

 今では薄汚れたモップにしか見えないが、初めはもっと可愛いぬいぐるみだったのだろう。

「……この子たちなしで、氷室とやり合えるとは思えない。足手まといは、むしろ私のほうね」

 確かに、ミオコの能力が失われたとなると、あの氷室に勝てるとは到底思えない。

「ねえ、宇宙が消滅するなんて、そんなことが起こり得るの?」

「……僕の専門は、有機化学だから」

 ミオコはため息をつく。

「科学者なんて、そんなもんよね」

「いや、でも、話には聞いたことがある。術場エネルギーなんていうものが存在しなくても、宇宙はいつかは収縮して消滅してしまうという仮説がいくつもあるんだ。それとはまた違う話だけど、ヒッグス粒子と術場エネルギーが相互作用するっていうのが本当だとしたら、僕たちの体は質量を失って、素粒子の段階までバラバラになってしまう。あの総理大臣たちのように。それは、宇宙も同じことだと思う」

 ミオコはしばらく黙って、シーツを指でいじっていた。

「……よく分かんないけど、もう、おしまいってこと?」

 今まで付き合ってきた中で、見たことがないくらい彼女は気弱になっている。何だか、たまらなく愛おしい。守ってあげたくなる。しかし、僕が好きなミオコは、そんな弱気なミオコではない。

「ミオコ、長老が言っていたもう一つのこと、忘れてないよね?」

「え?」ミオコは顔を上げる。

「僕たちは、『宇宙を救う』存在なんだよ。いいかい? 僕『たち』だ。ミオコ、キミも、宇宙を救うんだよ」

 彼女は少しの間茫然と僕を見つめていたが、やがて大きく頷いた。

「ありがとね、ソウイチロウ」

 ミオコの凛とした表情に、僕の鼓動が早まっていく。

「それで、その……ミオコさん?」

 何だか彼女と目を合わせられない。ミオコのほうも、組んだ指をクルクル回しながら、目をキョロキョロさせている。

「あ……うん、分かってる。私、その、もう『魔女』ではない、わけよね?」

「そ、そういうことだよね、多分」

「そういうこと、よね」

「うん」

「……うん」

 部屋の中が、しんと静まり返る。僕は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「ミオコさん、あの、僕……もう我慢、できないかも」

 ミオコの顔を見て、僕は息が止まりそうになった。

「実は、私も……」

 彼女はうっとりと目を潤ませ、頬を赤く染めて、熱い吐息を僕にかけてくる。

 僕たちはゆっくりと両手の指を絡め合った。

「じゃあ……試してみる?」


 どこからか、子供が笑う声が聞こえる。何やらひそひそ話をしているようだ。僕はゆっくりと目を開ける。

 高い天井から吊り下げられた天蓋の中で、僕はフワフワの布団に包まれていた。カーテンの隙間から光が差し込んでいる。今、何時だろうか?

 傍らに温もりを感じる。そこには、まるで天使のようなミオコの寝顔があった。何て幸せそうな顔をしてるんだろう。まあでも、僕も恐らく幸せそうな顔をしているに違いない。ミオコに聞かれたら全力で馬鹿にされると思うが、「する」ことがこんなに素晴らしいことだったなんて。

 ミオコは僕の胸の辺りに手を添えて、体を密着させている。この期に及んで何だ、と言われそうだが、彼女と肌と肌を合わせていると、何だかドキドキしてくる。一晩中、お互いの気が済むまで何度も「した」っていうのに、僕の下半身はまたもや自己主張をし始めた。

 これはいけない。自制しなくては。僕は少し体を動かして、ミオコに背を向けた。すると目の前に、黄色くてもふもふしたものが飛び込んできた。あまりに近すぎてすぐにそれが何なのか分からなかったが、どうやらジュゴンのぬいぐるみのステラのようだ。

「……いつの間に? ミオコが置いたのかな」

 退かそうとしてステラを掴もうとした、その時だ。

 ステラが、ニヤッと笑みを浮かべた。

「あんた、意外とタフなのね」

 ……へっ?

「ひょっとして、まだまだ『元気』なんじゃないの?」ステラは僕の股間のほうをヒレで指差した。

「いや、これは、違うんだ!」

 いつの間にか、ベッドの上が賑やかになっている。驚いたことに、ぬいぐるみ達がポコポコと跳ね回っているではないか。

「え、えええっ?」

「ん……ソウイチロウ、どうかしたの?」

 ミオコが眠そうに目が擦って僕にそっと抱きついてくる。しかしすぐにベッドの上の状況に気がつくと、目を見開いた。

「みんなっ!」

「ミオコちゃーん!」

 ぬいぐるみ達が、裸のミオコに次々と飛びついていく。サメのガブリエルが飛びつこうとして、ステラが尾ビレで彼を叩き落とした。

「あんたは駄目っ!」

「な、なんでだよう……」

 ミオコはぬいぐるみたちをぎゅっと抱き締めた。どうやら泣いているようだ。

「よかった……もう二度とあなたたちに会えないかと思ってた」

 ぬいぐるみたちも泣いている。

「でも、なぜ? ひょっとして、『能力』が戻ったのかしら」

 ミオコが呟く。僕も確かにそう思った。しかし、何かがおかしい。何がおかしいのかに気付くのに、それほど時間はかからなかった。

「ミオコ、キミ……裸、だよね」

「な、何よ、今更」

 ミオコはハッとして僕を見つめた。どうやら彼女も気付いたようだ。

「そうだわ! 私、メイド服を着てない!」

 メイド服を着ていないと、ミオコの能力は発現しないはずだ。

「あなたたち、一体どうしちゃったの?」

「それが、分からないのよ。さっき急に動けるようになったの。しかも、何だかお肌がツヤツヤになった気がするわ!」

「気のせいじゃねーの?」と呟いたガブリエルに、ステラが光速でヒレパンチを喰らわせる。

「ぐぐっ……で、でも確かに、俺様も何だか調子がいいぜえ」

「長老なら何か知ってるかも」ステラが長老を探す。

「わしならここじゃ」

 ベッドの上に、真っ白なフクロウのぬいぐるみが座っている。皆が一斉に注目する。

「長老っ!」

 ミオコは満面の笑みで、そのフクロウのぬいぐるみを抱き締めた。

「久しぶりだね、ミオコ」

「あ、あなたが長老っ?」ステラは目を丸くしている。他のぬいぐるみたちもそうだ。「何だか喋り方まで違うし」

「私は元々こんな姿だったんだよ。これまでのもじゃもじゃな姿は、ミオコが長い間可愛がってくれた証だったんだ」

 恐らく、お祖父さんに買ってもらってから、ずっと手放さなかったのだろう。ミオコは恥ずかしそうに笑う。

「でも、クリーニングに出した訳でもないのに、なぜ元の姿に戻ったの?」

「うん、確かなことは言えないけど、恐らく『おすそわけ』だね」

 僕とミオコは顔を見合わせる。

「おすそわけ?」

「そう。今、ミオコとソウイチロウには、計り知れない愛のエネルギーが満ち溢れている。それこそ、宇宙が消滅しかねないほどのエネルギーが」

 僕は、自分の手を見つめる。大きな変化は感じられないが、言われてみれば何だか調子がいいような気もする。

「その影響が、私たちにも現れたんだよ」

「やっぱり! 私のお肌の調子がいいのも、その影響ね?」ステラがヒレをぽふぽふして微笑む。

「みーおーこーさんっ!」

「ばるばるー!」

 ヒツジのアリエスとバルが、ワインのボトルを持ってベッドサイドのテーブルの上で飛び跳ねている。

「何だかよく分かりませんが、ミオコさんの力が戻ったことを祝して乾杯といきませんか?」

「飲むべ飲むべー!」

 ステラがため息をつく。

「黙りなさい、この飲んだくれツートップ! もう朝なのよ?」

「まあまあ」ミオコはステラをなだめる。「いいわよ、飲みましょう」

 アリエスとバルは嬉しそうに跳ね回っている。

「でも、その前に……」

 ミオコが潤んだ瞳で僕を見つめてくる。

「ソウイチロウ、もう一回、ね?」

 正直、僕も同じ気持ちだった。僕はミオコとともに、マシュマロみたいに柔らかいベッドの中へとゆっくり沈み込んでいった。


 二日後、僕とミオコは、高野が運転する車で「立川城」に向かっていた。緊急輸送路となった中央自動車道を、白バイや自衛隊の装甲車などに先導されて進んでいく。僕たちの乗る車の前を、同じ型式の黒塗りの車が走っている。官房長官が乗る車だ。

 僕は、田中さんの作ってくれたクマの着ぐるみに身を包み、ミオコはお気に入りのメイド服を着て、イヤホンを耳に付け、満足げに窓ガラスの縁を指で叩いてリズムをとっている。傍らには、ぬいぐるみの入ったトランクケースが置かれている。

 ミオコのメイド姿は、完璧だった。髪こそ短くなってしまったものの、その艶めきに変わりはない。吸い込まれるかのような漆黒に、真っ白なホワイトブリムが映える。膝が隠れるくらいの黒いワンピースに白いエプロン。白のソックスに黒いエナメルシューズ。透き通るように美しい顔。薄桃色の唇が、モノクロの世界に色彩を与えている。

「? 何よ」

 ミオコがイヤホンを外して僕を睨む。僕は慌てて視線を逸らした。

「いや、何でもないです」

 前方に「城」が見えてくる。まだ調布インターを過ぎた辺りだというのに、どれだけデカい城なんだろう。

「ところで二人とも、昨日はよく眠れたか?」

 高野の問いに、僕はミオコの顔を見た。彼女は顔を赤くして何度も頷く。

「も、もちろん! ね、ソウイチロウ」

「あ、ああ。ぐっすり眠れたよ」

 本当は、あまり寝ていない。この三日間、遅くまでミオコと杯を交わし、そして身体を重ね続けた。それでも不思議と疲れは全くない。恐らくミオコも同じだろう。

 高野は軽く笑った。

「まあいい。いよいよ最後の大勝負だ。事ここに至って、俺から言うことは何もない。ただ……」

 彼は、少し間を置いて続けた。

「二人とも、巻き込んでしまって本当にすまなかった。そして、協力してくれて……ありがとう」

 親友のその言葉に、思わず涙が溢れそうになる。言葉を返すことができない。

「今更どうでもいいことよ。ね、ソウイチロウ」

 ミオコが微笑む。そうだ、彼女と出会うことができたのだから、むしろこちらが感謝したいくらいだ。

「この一件が片付いたら、日本政府から君たちに相応の報酬が与えられるはずだ。ある程度の願いも叶えることができると思う」

 僕は考えた。お金とか名誉とかはどうでもいい。ただ、研究室に戻ることができれば。

 ミオコが苦笑する。

「別にどうでもいいわよ。報酬なんて受け取ったら、このまま飼い殺しにされそうだし。正直、これ以上政府なんかと関わりたくないわ――あ、でも」彼女は何かを思い出したようにニヤッと笑った。

「『虎ノ門』、準備しておいてもらえます?」

 この、飲んだくれ女子大生め。

「お安い御用だ」高野は笑う。

「帰ったら祝勝会よ、ソウイチロウ?」

「はいはい、お手柔らかに」

 ミオコのおかげで、何だか肩の力が抜けたみたいだ。

 彼女と出会えて、本当に良かった。


 車は、立川駅の辺りを通過していく。しかし、人の姿があまりない。まるでゴーストタウンだ。交差点で警備をする警察官と、銃を抱えた自衛隊員だけが僕たちの乗る車に敬礼をしてくる。現代日本に戒厳令は存在しないのだが、災害時に準じた外出自粛令が出されているためだ。数日前から暴徒による暴動が起き始めていて、治安が急速に悪化している。日本の状況はネットを通して世界中に広まり、混乱は地球規模で広がっているらしい。どうやら、氷室の思惑通りになってしまっているようだ。

 車は、交差点の角の所からちょっとした広場のような場所に入っていく。何やら騒々しくて外を見てみると、沢山の報道陣が警官と揉み合っている。カメラのフラッシュが眩しい。

 高野はゆっくりとブレーキをかける。突然、前方を走っていた輸送車から自動小銃を構えた自衛隊員が次々と降りてきて、あっという間に僕たちの車の周りに展開した。

「ここは、昭和記念公園の南東側の入口だ。ここから先は、君たちだけで行ってもらう」

 前の車から、官房長官が降りてくる。SPに周りを固められた彼は、僕たちの乗る車に近付いてきた。SPの一人が、僕の乗る座席のドアをゆっくりと開ける。

 高野が後ろを向いて、僕に手を差し出してきた。

「幸運を、祈る」

 僕は、彼と固く握手を交わした。

 車の外に出ると、報道陣も自衛隊員も、全員が僕に注目しているのが分かった。まさかクマの着ぐるみが現れるとは、誰も思っていなかっただろう。次第に報道陣がざわめき始め、カメラのフラッシュが瞬きだす。

 ミオコからトランクケースを受け取り、車の外に出す。そして、僕は車の中のミオコに手を差し伸べた。

「どうぞ、ミオコ様」

「あら、気が利くじゃない」

 オレンジ色のもふもふした手に、白く細い指が重ねられる。

 やはり、そこにいる誰もがミオコに注目していた。あまりの美しさに、見惚れてしまっても無理はないと思う。

 待ち構えていた官房長官が、僕の手を強く握り締める。

「頼んだよ、君たちしかいないんだ。日本、いや、世界を救ってくれ。頼む!」

 僕は何度も頷いた。ミオコは興味なさそうにそっぽを向いている。官房長官の前だというのに、彼女はイヤホンをしたままで、まるで話を聞いていないようだ。

「行くわよ、ソウイチロウ」

 ミオコは城に向かってさっさと歩き出した。

「ちょ、ちょっと待ってよ」僕は官房長官に一礼し、慌ててミオコの後を追う。

 彼女はぽつりと呟いた。

「私たちが救うのは、日本とか世界とか、そんなレベルの話じゃないわ。ね、ソウイチロウ」

「あ、ああ。僕たちが救うのは、『宇宙』だ」

 ミオコは不敵な笑みを浮かべる。

「そして、私たちの『未来』よ」

 僕たちの未来。確かにその通りだ。

 もっと、ミオコと一緒にいたい。

 そんなことを考えていると、ミオコは突然何かの歌を口ずさみ始めた。

 ーーこれは、山本リンダの「どうにも止まらない」ではないか。ミオコは山本リンダの大ファンだ。カラオケで何度聴かされたか分からないくらい、ミオコの十八番の曲である。

 道なりにしばらく進む。次第に、氷室の城が近付いてくる。銀杏並木が美しい公園の入口までくると、改めてその城の大きさに驚かされた。

「デカい……」

 東京スカイツリーほどではないにしても、東京タワーよりは高いのではないだろうか。そして、入場ゲートに沿ってそびえ立つ城壁が、どこまでも続いている。

「入場ゲートの所から中に入れるみたいだ」

 ミオコは城の上部を見上げると、ふふんと笑った。

「何で正攻法で行かなくちゃならないのよ。時間の無駄。学生は忙しいの」

 城の最上部には、大きい天守閣のような部分が少しはみ出してくっついている。

「あのバカは、恐らくあそこよ。さあ、ソウイチロウ。私を抱えなさい」

「あの、ミオコさん。もしかして……」

「そうよ、跳ぶのよ」

 アクションゲームでいきなりラスボスのいるステージまで行ける裏ワザみたいだが、ミオコの言うとおり時間の節約にもなるし、城の中では何が待ち構えているか分からない。

「ミオコが大丈夫って言うなら、喜んで」

 僕はミオコをお姫様抱っこする。とても軽い。片手でも余裕だ。ミオコは僕の片腕に腰を下ろし、僕の首に腕をしっかりと巻きつけた。僕は、空いている方の手でトランクケースを持ち上げる。

「準備はいいかい?」

 ミオコは目を閉じてゆっくり深呼吸する。

「いいわ」

「じゃあ行くよ。しっかり掴まってて」

 僕はその場に踏ん張り、せーので思い切り地面を蹴った。空気抵抗を感じながら、みるみる上昇していく。

 ミオコは何も言わずーーというより、何も言うことができないのだろうがーー僕の胸に顔をうずめて、必死にしがみついている。

 あっという間に城の最上部が近付いてきた。この勢いなら、余裕で辿り着くことができるだろう。そう思った瞬間、体が重くなったような感じがして、急に速度が低下してきた。

「ちょっと! まさか、あそこに届かないなんてことないわよねっ?」

「ごめん、ちょっと無理っぽい」

 そうこうしているうちに、僕たちは完全に静止してしまった。ふと下を見ると、地上が遥か遠くに見える。

「うわっ、高い! 高い! 怖いよぅっ!」

 涙目のミオコをよそに、僕は冷静に着陸地点を探す。すると、すぐ下に石造りのバルコニーのでもような空間を見つけた。しょうがない、あそこに降りよう。

 僕は、石でできた手すり部分に着地した。しかし、少しバランスを崩してしまい、危うく下に落ちそうになった。

「ひえぇぇぇっ!」

 ミオコの絶叫が空に響く。僕は踏ん張って体を逆方向に倒した。そのまま、ミオコをかばうようにして、バルコニーに倒れ込む。着ぐるみを着ているので、全く痛くない。

 目の前に、ミオコの顔があった。涙でぐしゃぐしゃになり、情けない顔をしている。でも、なんか可愛い。

「なんか、空飛ぶ城の映画で、こういうシーンがあったよね」僕は慌ててフォローしたが、時すでに遅し。

「……ばかばかっ、ばかぁっ!」

「ふぐっ!」

 ミオコの鉄拳がクマの顔にめり込むと同時に、僕の顔に激痛が走る。彼女も超高エネルギー術場の集合体なのを忘れていた。怒らせたら、怖い。

「それにしても、なぜ急に速度が落ちたんだろう」

「氷室の仕業でしょ? すぐに自分の所に辿り着かれたら、こんな城を造った甲斐がないじゃない」

「いや、ミオコが跳ぶって言ったんじゃないか」

「うっさい、さっさと行くわよ!」

 ミオコは立ち上がってお尻をぺんぺん叩くと、城の中へと歩き出す。

 僕は、ふと思いついたことをミオコに訊いてみた。

「ミオコってさ、ホウキで空を飛べたりしないの? 魔女ってそういうイメージなんだけど」

 ミオコがピタッと立ち止まる。目を丸くして僕を振り返った。

「……飛べるかも。試したことないけど」

「なんだ。じゃあそうすればよかったんじゃないか」

「もっと早く言いなさいよ、ばか」

 赤い絨毯が敷かれた薄暗い廊下を、彼女はずんずん進んでいく。やがて、吹き抜けになった大きな広間のような場所に出た。

「うわ、凄い。これ、最上部まで吹き抜けになってるのかな」僕は真上を見上げて驚いた。こんな構造、現実的にあり得ない。まさに、術場エネルギーで出来た「何でもあり」の城だ。

「感心してんじゃないわよ」

 広間の中央の床に、直径十メートルほどの円形の模様がある。大理石だろうか、黒い光沢のある石をベースに、美しく輝く大小様々な宝石のようなものが埋め込まれている。

「……綺麗ね」

「キミこそ感心してるじゃないか」

「うっさい。ところで、どっちに行けばいいのかしら」

 その広間を中心に、廊下が何本か伸びている。僕は、再び上を見上げた。

「また、跳んでみる?」

「却下。また氷室にやられるに決まってるじゃない」

 その時、ヒールの足音が聞こえてきた。僕とミオコは、音のする方向に身構える。

 薄暗い廊下から現れたのは、メイド服を着た女性だった。

「お姉ちゃんっ!」

 それは、クレハだった。ミオコは彼女に走り寄る。しかし、すぐに立ち止まった。

「……お姉ちゃん?」

 クレハは無表情のまま、何も答えない。彼女は、広間の中央まで来て立ち止まった。

 彼女の瞳が、紫色に揺らめいている。氷室に、洗脳されてしまったのだろう。ミオコもすぐに気付いたようだ。

「お姉ちゃん、ミオコよ。分かるでしょ?」

 すると、クレハは顔を歪めて笑った。

「私は、お前の姉などではない。新世界の女神だ」

「お姉ちゃん、目を覚ましてよ……」クレハに近付こうとするミオコを、僕は止めた。

「駄目だ、ミオコ。危険だ」

「お姉ちゃん、聞いて。私、あなたが本当のお姉ちゃんじゃないって分かってた」

 クレハは表情を戻す。ミオコは続ける。

「でも、そんなこと、どうでもいいことじゃない。あなたは、紛れもなく、正真正銘の、私のお姉ちゃんなの」

 ミオコの目から、涙が溢れる。

「私から、お姉ちゃんを奪わないで」

 その時、地面が微かに揺れるのを感じた。

「氷室様の所に案内してやろう」

 どうやら、黒い円形の床の部分だけが上昇しているようだ。全く音を立てずに、その黒い床はみるみるスピードを上げていく。広間が遠ざかっていく。

「ソウイチロウ、危ない!」

 目を逸らした隙に、クレハが僕に掴みかかってきた。

「氷室様がお呼びなのは、この女だけだ。お前は、ここで死ね」

 僕はそのまま床の端から足を踏み外し、トランクケースごと黒い床から落下してしまった。

「ソウイチロウッ!」

 クレハに押さえつけられたミオコが、上昇を続ける黒い石の上から叫ぶ。その姿も、みるみる小さくなっていく。まずい。このままだと、地面に叩きつけられる。いくら着ぐるみを着ていても、この高さだと危ないかもしれない。

 一緒に落ちていくトランクケースが、パカッと開いた。中からクラゲのぬいぐるみのクララが飛び出し、トランクケースを触手で掴み、さらに僕に向かって触手を伸ばす。僕が触手を掴むと、クララは急ブレーキをかけた。広間の床まであと少しという所で落下のスピードがだいぶ落ちると、僕は触手を手放して広間の床に転げ落ちた。

「いてて……」

 クララが心配そうに僕の周りをふよふよ飛び回る。

「ありがとう、クララ。助かったよ」

 トランクケースから、ぬいぐるみたちが飛び出してくる。長老が僕に駆け寄ってきた。

「ソウイチロウ、大丈夫か?」

「うん。それより、ミオコが危ない」

「急ごう。他にも、奴の所へ通じる道はあるはずだ」

 その時、僕たちの周りに、何かの気配を感じた。ぬいぐるみたちが悲鳴を上げる。

 僕たちを、何体もの恐竜のようなものが取り囲んでいた。よく見ると、翼が生えている。これはいわゆる、ドラゴンってやつだろう。これもまた、氷室の妄想の世界を具現化したものか。

「術場ってのは、何でもありだな」僕は思わず笑ってしまう。

「なに余裕ぶっこいてんのよ! さあみんな、いくわよっ!」ジュゴンのステラに続いて、ぬいぐるみたちが鬨の声を上げる。サメのガブリエルは巨大化して、ドラゴンに対抗するように歯を剥き出しにしてニヤリと笑った。

「可愛くねぇ奴らだな、おい」


 僕とぬいぐるみ達は、時折現れる「モンスター」を鮮やかに倒しながら、廊下を進み、階段を駆け上がっていった。

 急がなければ。

 ミオコを失いたくない。

 僕は、螺旋状に続く石段の壁を全力で駆け上がっていく。我ながら、人間業とは思えない。

「ちょっと! 速すぎっ!」ステラが、マナティのリナを背中に乗せて追いかけてくる。他のぬいぐるみ達も、必死に後をついてくる。

 螺旋階段の終わりが見えた。そのままの勢いで飛び出し、地面に着地する。

 顔を上げると、メイド服を着た女の子が二人、目の前に立っていた。ミオコとクレハではない。中学生くらいの女の子だ。彼女たちは、無表情で僕を見下ろしている。

「その娘たちは、術場エネルギーで創られた『生命体』だよ」

 その声の主は、氷室だった。

「氷室!」

 広い空間の向こうに、大きな窓がある。その手前に置いてあるソファに、ワイングラスを手にした氷室が脚を組んで座っている。

「言っただろ? 僕は、新世界の創造主なんだよ」

 こいつは、危険だ。絶対に止めないと。

「さすがに、今の君にはまやかしの術場エネルギーは通じないようだな。でも、面白かっただろ? ロールプレイング・ゲームみたいで。かなり『レベルアップ』したんじゃないかい? 新しい『呪文』は覚えたかな?」氷室は腹を抱えて笑う。

 彼の隣に座っているのは、ミオコだ。気を失っているのか、ソファにもたれかかっている。

「ミオコッ!」

 ソファの隣に、クレハが無表情で立っている。彼女は、ミオコの首にナイフを突き付けている。

「ところで、聞いてくれよ。村上くん。この混沌とした世界のおかげで、『新しい知見』が得られたんだよ!」

 氷室は立ち上がり、嬉々として語りかけてきた。「新しい知見」とは、科学者が論文を書く際に好んで使う言葉だ。ふざけやがって。

「君も、世界中で暴動が起こっているのは知っているだろう? 未来のない世界で人々が得る、怒り、悲しみ、苦しみといった感情。こういった感情も、実は術場エネルギーに変換されるようなんだよ。『愛』のエネルギーには到底及ばないものだけどね」

 氷室は、両手をじっと見つめる。

「この『城』は、世界中のそういったエネルギーを回収する仕組みになっているんだ。おかげでどうだ、僕は今、自分でも恐ろしくなるくらいの力をこの体に蓄積しているんだよ」

「黙れっ! ミオコと、クレハを返せっ!」

 氷室は失笑すると、僕にゆっくりと近付いてきた。

「せっかく得たこの理想の肉体を持て余していたところだったんだ。丁度良い。僕を楽しませてくれ。でも、その前に」

 氷室は、ぬいぐるみたちに向かって手をかざした。その瞬間、ぬいぐるみたちはボタボタと地面に落ち、そのまま動かなくなった。

「みんな!」

「邪魔はしてほしくないんでね。『ラスボス』との闘いの時間だ。さあ、いくぞっ!」

 氷室が物凄い速さで間合いを詰めてくる。構える暇もなく、僕は氷室の突きを腹に喰らってしまった。激痛に声が出ない。そのまま、背後の石造りの壁に叩きつけられた。体中に激痛が走る。

 目を開けると、氷室が目の前で微笑んでいた。

「お願いだから、本気を出してくれよ」

 彼は、着ぐるみの頭を強引に剥ぎ取った。まずい。

「死ね、死ね、死ね、死ねっ!」

 露わになった僕の顔を、彼は容赦なく殴り続ける。

「弱いっ、弱すぎるっ! そんなレベルで、正義の味方を気取らないでくれたまえ!」

 気を失いかけたその時、氷室は着ぐるみの襟元を掴んで、ミオコとクレハの前まで僕を引き摺っていった。

「なあ、ミオ。見ろよ。こいつの情けない顔」

 氷室は、ミオコの頬を叩いた。彼女は微かに目蓋を開け、僕を見つめた。僕の視界に、ミオコの茫然とした顔が飛び込んでくる。見ないでくれ、と言いたいのだが、声が出ない。恥ずかしい。こんなはずじゃ、なかったのに。

 氷室は、ミオコをソファに押し倒した。

「村上くん、君の目の前で、彼女を汚してあげよう。死ぬのはそれからでもいいだろ?」

 声が出ない。頬を涙が伝わるのが分かる。

「やめ……て……」どうやら、ミオコも抵抗する力が残っていないようだ。

「ひひひ。その『絶望』が、僕をさらに強大にさせるんだよっ!」

 もう駄目だ。

 僕は、ミオコを守ることができなかった。僕は、結局、ただのオタクのオッサンなんだ。女の子一人守ることができないのに、宇宙を救うなんていう大それたこと、できるはずがないんだ。

 僕は、何でこんなことをしてるんだろう。研究者として、魚を愛しながら平凡な人生を送るはずだったのに。僕には、熱帯魚さえいれば後はどうでも良かったんだ。

 ……

 …………いや、待てよ。

 クレハは?

 田中さんは?

 冴木先生は?

 ミオコのお母さんは?

 検見川さんは?

 高野は?

 僕は、ミオコどころか、僕を大切に思ってくれる人たちを、誰一人守ることができないのか。

 そんな。

 そんな、馬鹿な話があるか。

 僕は、氷室みたいなどうしようもない人間の、自分勝手な欲望のために、自分の愛する人々を、彼らが住むこの星を、宇宙を、失うわけにはいかないんだ。

 そう思った瞬間、体がわずかに動いた。

「やめろ……この、ド変態野郎……」

 氷室は舌打ちをして、ミオコから離れ、僕の胸ぐらを掴んだ。

「いいから黙って見てろよ、このやろ――」

 その瞬間、氷室の目が大きく開いた。体がわずかに震える。

「なっ……」

 彼は背中に手を当て、すぐに戻した。震える手が、真っ赤に濡れている。

 彼の背後に、クレハの姿があった。

「うううっ」彼女は目を閉じて歯を食いしばり、体を震わせている。彼女の手に握られたナイフから、氷室の血が滴り落ちていた。

「おねえ……ちゃん」ミオコが体を起こそうとしている。

「クレハ……おまえ、マインドコントロールしてるのに……このやろうっ!」

 氷室は、クレハの首を絞める。

「もうお前に用はない! 死ねっ!」

 クレハの紫色の瞳から、涙が流れ落ちる。その涙は、微かに紫色を帯びていた。

「……ミオコ、ありがとう」

「おねえちゃん……」

 クレハはナイフを手放した。カツンと音を立ててナイフが床に落ちる。

 その瞬間、僕の意識は澄んだ水のようにクリアになった。

 体の痛みがない。なぜだ? 着ぐるみの頭も脱げてしまったというのに。

「うおおおおおおおおっ」

 僕は素早く体を起こし、氷室に飛びかかった。

「き、貴様っ! なぜっ!」

 クレハから彼を引き離すと、そのままの勢いで床に叩きつけた。

「ぐはっ」

 そのまま、ゴロゴロと床を転がる。僕は氷室に押さえつけられると、再び顔を何度も殴られた。

「何なんだ! 何なんだよっ! 貴様ら全員、僕の邪魔をして! なぜ僕を認めようとしないんだっ!」

 彼は、僕を殴る手を止めた。そして、横に顔を向ける。僕も彼につられて顔を横に向けた。

「何で……」

 そこには、腕組みをしたミオコが仁王立ちしていた。彼女だけではない。彼女の周りに、ぬいぐるみたちがふよふよと浮かんでいる。

「さあ、何でかしらね。『愛の力』ってやつじゃない?」

 彼女は、不敵な笑みを浮かべた。

「かかれえええっ!」ガブリエルの号令に従って、ぬいぐるみが氷室に飛びかかる。

「うああああっ?」

 ぬいぐるみたちは氷室を持ち上げると、僕から引き離し、「せーの」でバルコニーに向かって思いきり放り投げた。

 バルコニーに続く窓ガラスが音を立てて割れる。外に放り出された氷室は、すぐに体を起こした。

「ふざけやがってえええええっ!」

 しかし、氷室はすぐに動きを止めた。彼の意図に反して。

「なにっ!」

 氷室の周りをぬいぐるみ達が囲んでいる。そして、地面には魔法陣が浮き上がっている。

「くっそおおおおおおおおおっ!」

 長老の呪文が、辺りに響き渡る。氷室は体を動かそうとしているようだが、見動きは取れないようだ。

 僕は、ゆっくりと魔法陣に近付く。ミオコも、クレハに肩を貸して近付いてきた。

 氷室は、観念したかのように呟いた。

「そうか。村上くんとミオの愛の力に加えて、『姉妹』の愛の力か」

 僕には、どうしても彼に言いたいことがあった。

「それだけじゃない。ここまで混沌とした世界でも、そこにあるのは怒りとか悲しみとか、絶望だけじゃない。たとえ一つ一つは小さいものでも、この星には『愛』の力が溢れているんだ! お前は、その小さな『愛』の力に負けたんだよっ!」

 氷室は、クククと笑って何も言わない。

「氷室、お前にも、『愛』の力はあったはずだ」

「うるさいうるさいうるさいっ! 黙れっ! 黙れえええっ!」

 ミオコはため息をついて、彼に手を向けた。

「あっそ。じゃあ、元気でね」

 氷室は目を剥いて、歯をむき出しにして笑った。

「こんな世の中、放っておいてもいずれ滅ぶんだ。こんな間違った世界、いつかきっと消えてなくなる時が来る! ざまあみやがれ! ざまあみやがれっ!」

 ミオコは、フッと吹き出す。

「こんなくだらない世界でも、『愛』の力があれば、意外と何とかなりそうなもんよ?」

 氷室の体が、薄くなっていく。総理が消えた時と同じだ。

「くっそおおおおおおおおおおおおっ!」

 しばらくして、彼の体は完全に「消えて」しまった。素粒子がバラバラになってしまったのだろう。

 長老が、呪文を唱えるのを止めた。静寂が戻り、風の音だけが鳴り響く。

「……終わった」僕は、その場にしゃがみ込んだ。

 ぬいぐるみたちから、歓声が上がる。

「お姉ちゃん」

「ミオコ……」

 クレハは、ミオコを抱き締める。その瞳は、もう紫色ではない。

「こんな私でも、『お姉ちゃん』って呼んでくれるの?」

 ミオコは優しく微笑む。

「当たり前でしょ? お姉ちゃんを『お姉ちゃん』って呼んで何が悪いの?」

 クレハの目から、透き通った涙が流れ落ちる。その涙の雫がバルコニーの石畳に落ちて、ゆっくりと染み込み、そして消えていった。

 その瞬間、城が音を立てて激しく揺れ始めた。

「なに、地震?」

 揺れは一向に収まらない。むしろ、次第に激しくなっていく。何と、バルコニーの石が、ボコボコと音を立てて抜け始めた。

 長老が叫ぶ。

「いけない! 城が崩れる! この城自体が消滅するぞ! 逃げろ!」

 ぬいぐるみたちがあたふたと飛び回る。僕は、ミオコとクレハをかばいながら立ち上がろうとした。しかし、揺れが激しくて身動きがとれない。

「無理だ! この状態で脱出なんかできない!」

「じゃあ、どうするのよっ! このままじゃ、この高さから地上に真っ逆さまだわ!」

 ミオコの足元の床が、ボコッと抜ける。

「ひえええっ!」悲鳴を上げて、ミオコが抱き付いてくる。

「ねえ、ミオコ。薄々感じてはいたんだけど、キミ、もしかして高所恐怖症?」

「何よ、こんな時に! 何か文句あるのっ? ていうか、こんなの誰でも怖いに決まってるでしょっ!」

 それもそうか。クレハも足がすくんで動けないみたいだし。

 僕は、さっき会ったメイド姿の女の子達を探した。氷室は、術場エネルギーで造られた生命体だと言っていたが、見た目は紛れもなく人間だった。彼女達も助けなければならない。

 広間を見渡すと、暖炉の前に二人が座っているのに気付いた。何だか楽しそうに笑っている。トランプか何かで遊んでいるようだ。

「おーいっ! 君たち! こっちに来るんだ!」僕が呼び掛けると、二人は僕を見てクスクス笑った。

 次第に、彼女達の姿が透明になって消えていく。何かを悟ったかのような淋しげな笑顔を残して、彼女達の姿は完全に見えなくなってしまった。

 突然、僕たちがいたフロアの石畳が、バラバラになって崩れ落ちた。僕たちは石のブロックとともに落下を始める。

 ミオコとクレハの悲鳴が、空に吸い込まれていく。

 一緒に落下するブロックが、一つまた一つと目の前で消滅していく。術場エネルギーで造られた、僕たち以外の全てのものが、眩い光を放ちながら素粒子へと還っていく。

 そしてついに、落下していくのは僕とミオコとクレハ、そしてぬいぐるみたちだけになってしまった。

 地上がどんどん近付いてくる。

「皆で手分けして、三人を掴むんだっ!」

 長老の号令に従い、ぬいぐるみたちが僕たち三人を掴み、声を合わせて急ブレーキをかける。

 次第に落下スピードが緩んで、ついには完全に止まった。しかし、まだかなりの高さがある。

「よし、いいぞ! そのままゆっくり降下するんだ!」

「そ、そんなこと言っても、長老、これ、けっこう、キツイわよ……」僕の腕を掴むステラが、顔を真っ赤にしてぷるぷる震えている。他のぬいぐるみたちも同様だ。長くは持たない。

「もう……限界……」

 そして、ミオコが叫び声を上げながら再び落下を始めてしまった。ほぼ同時に、僕とクレハも落ち始める。

「おらの出番だべえっ!」

 サグラダファミリアの形をしたぬいぐるみ、バルが、猛スピードで急降下し、僕たちを追い抜いた。

「見てけれ! エスパーニャの心意気をっ! ふんっっっっ!」

 バルが突然眩く輝きだした。かと思ったら、みるみる巨大化していく。

「これぞ世界遺産の実力! 完成は二〇二六年の予定だべえええええっ!」

 僕とミオコとクレハは、巨大化したバルの肩(肩なのだろうか?)の部分にぼふっと着陸した。

「助かった……?」

 どうやら、ミオコとクレハも無事のようだ。ミオコは、呆然とした様子で座りこんでいる。風圧で、髪がぼさぼさだ。同じくぼさぼさの髪のクレハが、ゆっくりとミオコに近付いていく。

「ミオコ……ミオコッ!」クレハはミオコを強く抱き締めた。

「おねえちゃん……」

 やがて、ゆっくりと高度が下がり始めた。バルが縮み始めたのだろう。まるで、遊園地のアトラクションに乗った後の気分だ。地面が目の前に近付いた頃に、僕たちはバルから飛び降りた。

 そこは、見渡す限りの原っぱだった。恐らく、昭和記念公園の中だろう。

 ミオコは満面の笑みで、元の大きさに戻ったバルを抱き締めた。

「グラシアス(ありがとう)! バル! よくやったわっ!」

「礼なら、ガウディおじさんに言ってけれー」バルは満更でもない様子だ。

 他のぬいぐるみ達がバルに駆け寄り、胴上げが始まった。

「わーしょい、わーしょい」

「やりましたね、バルさん! 今日は、ハモンセラーノを肴に、シェリー酒で乾杯ですねっ!」アリエスが目を輝かせて叫ぶ。「ね、ミオコさん?」

 ミオコは苦笑する。

「あんたが飲みたいだけじゃないのよ……」

 ぬいぐるみたちから笑いが起こる。僕とクレハも、つられて笑ってしまった。ミオコの笑顔を見ていて、僕はふと、城の中で出会ったメイド姿の女の子を思い出した。

「ねえ、クレハ」

「何ですか、惣市郎さん」

「術場エネルギーって、人を幸せにする技術なのかな」

 クレハはしばらく何も言わなかった。

「……私にも、分からなくなりました」

 遠くから、誰かの声が聞こえる。声のする方向を見ると、高野が手を振りながら僕たちのほうに走って向かってくるのが分かった。

「高野さんっ!」クレハが、ふらふらと彼に向かっていく。しかし、すぐに立ち止まって僕を振り返った。

 彼女の目から、涙が溢れていた。それでも、優しい笑顔で彼女は言う。

「でも、私は今、本当に幸せです」

 彼女は、高野に向かって走り出した。

 クレハと高野は、原っぱの中で長い間抱き合っていた。

 いつの間にか、ミオコが僕の傍らにちょこんと立っている。

「何よ、見せつけてくれるじゃない」

 僕は、たまらずミオコのことを抱き締めた。

「ひゃうっ」

 ひんやりとした秋の風が、原っぱを吹きぬけていく。

「私の相手は、着ぐるみを着たオタクのオッサンですか」ミオコが苦笑する。

「ご、ごめん」そういえば、着ぐるみの頭はいつの間にか脱げてしまったが、胴体はずっと着たままだ。バカみたいな姿だろう。

 しかし、ミオコは妖しく微笑んで、言った。

「上等じゃないの」

 彼女は、僕に唇を重ねてきた。



  エピローグ



「村上くん。……村上っ!」

 僕はハッと我に返った。

 声のするほうに顔を向けると、冴木先生が腕組みをして、細い目で僕を睨んでいる。

「あなたが日がな一日水槽を眺めていられるように、この施設を造ったわけじゃないのよ? 何度言えば分かるの!」

 先生の雷が落ちる。

「も、申し訳ありません……」

 その様子を見て、飼育実験棟の学生達から失笑が漏れる。

「それで? 何か新しいモノは見つかった訳?」

「い、いえ、その、まだ……」

 先生はわざとらしくため息をつく。

「四月から助教にしてあげる話、考え直そうかしら」

「せ、先生! 許してくださいっ!」

 冴木先生の口元が、微かに緩む。超サディスティックだ。

 氷室との闘いの後、検見川さんを中心としてエフィカシンの合成プロジェクトが立ち上がった。検見川さんの高度な合成能力のおかげで、一カ月もかからずにエフィカシンの大量合成に成功した。そして、ある程度の安全性が確認された後に、氷室の洗脳による被害者へ投与された。被害者達はすぐに我を取り戻し、無事に全員退院することができたのだ。

 冴木先生は、すぐに大学に復帰した。被害者全員がそうなのだが、マインドコントロールされていた時の記憶が一切ない。先生は、そんなことには全く興味がない様子で再び「氷の女王」として研究活動を始めた。

 そして三月も終わろうとしている。

 水槽の間から、一人の女性が近付いてきた。

「冴木先生、ここにいらしたんですね」

「どうしたの? 検見川さん」

 白衣姿の検見川さんだ。マフリで初めて会った時とは違い、少しだけおしゃれになっている。大畠店長と出会った時以来、自分の身なりに関心をもつようになったのだろう。ただし、白衣は「合成屋」らしくかなり汚れている。

「新規の合成経路について、ちょっとご相談があって」

 マフリは、あの時の「術場処理」とかいうシステムの影響で研究データが全て失われてしまい、政府は術場研究を半永久的に中止することになったそうだ。検見川さんは、高野の紹介で帝都女子大学理学部化学科有機化学研究室、通称冴木研、つまりはこの研究室にポスドクとして配属されることになった。

「さすが検見川さん。『誰か』と違って、いい仕事をするわね」

 冴木先生は、明らかに僕を見てそう言った。

「村上さん、まさか、また魚を眺めてサボってたんじゃないでしょうね?」

 検見川さんに睨まれ、心臓が止まりそうになる。

「先生、こんな使えないポスドク、早くクビにしたほうがいいですよ」

「そうね、そうしましょう。検見川さんに助教をお願いするわ」 

 何てこった。何だこの超サディスティックなツートップは。こんな研究室で、これから先やっていけるのだろうか。僕は、その場にへたり込んだ。

「ごめんなさい。僕が悪かったです……」

 先生と検見川さんは、顔を見合わせてクスクスと笑う。

「もうお昼ね。村上くん、お説教の時間よ。検見川さんも一緒にどう?」

「ご一緒させていただきます。彼にはきつ~くお説教しないといけませんね」

 説教の時間ではなくて、楽しい食事の時間なはずなんだけど。ああ、胃が痛い……


「ははははっ!」

 クレハのカフェ「フィユ・ルジー」に、高野の笑い声が響く。

「笑い事じゃないよ。学食での説教が『ステレオ』なんだぞ?」

 高野は腹を抱えて笑う。カウンターの向こうのクレハも、くすくす笑っている。

「ひどい、クレハまで。そもそも、何で僕の研究室なんだよ。検見川さんくらいの人材なら、引く手あまただろう?」

「だから、『たまたま』だって」

 絶対に高野の仕業だ。そうとしか考えられない。

 高野は、あの事件の後も政府に残り、官邸付で仕事をしているそうだ。どんな仕事をしているのかは教えてくれないのだが。

「いいだろ? 魚を眺めていれば、ストレスなんかたまらないって」

 こいつ、いっぺん殴ってやろうか。

「そういえば惣市郎さん、例の旅行の件、大丈夫そうですか?」

 クレハが割って入るようにして聞いてきた。

「あ、ああ。お母さんが招待してくれるっていう。先生に頼みこんで、何とか長期休暇をとらせてもらったよ。おかげで小一時間グチグチ言われたけどね」


 二か月ほど前に遡る。

 ミオコとクレハのお母さん――エミリは、意識を取り戻した後、しばらくして井之上商事の欧州現地法人があるロンドンに戻っていった。空港まで見送りに行った時、ミオコとクレハが売店に買い物に行って、彼女と二人きりになる時間があった。そこで、僕は思い切ってクレハの話をすることにした。

 エミリは、少し淋しそうに笑った。

「そう……。クレハは全て知っていたのね。そして、ミオコも」

 彼女の話によると、仲村助教授が亡くなった後、しばらくして彼の奥さんも病気で帰らぬ人となったそうだ。その話は、不易会の保守派であった井之上商事の前社長、つまりミオコのお父さんの知るところとなった。彼は、孤児となったクレハを引き取ることにした。その時彼女は四歳。そして、ミオコは産まれたばかりだった。

「あの子たちには、その話は一切していなかった。いつかは話さなければならないと思っていたものの、あっという間に二十年経ってしまったわ。でも、あの子たちは全てを理解し、受け入れてくれていたのね。私は、何て恵まれた母親なのかしら」

 エミリの目が潤んでいる。

「二人とも、私の自慢の娘よ」

「……そうですね」

「あ、そういえば、ジュンから聞いてない?」

 僕は、一瞬戸惑った。

「ジュンって、高野のことですか?」

「そうそう、高野君。彼ね、私が病院にいた時に一人で見舞いに来たの。その時に言ったのよ。『紅葉さんと結婚させてください』って」

「ええっ!」

 そうだったのか。何も聞いていなかった。親友だというのに、ちょっとひどい。

「それで、お母さん、許したんですか?」

「当たり前よ。結婚なんて、当事者だけが決められること。母親の私がどうこう言うことじゃないわ」

 それを聞いて、僕はなぜだか安心してしまった。……なぜだ?

「それに、丁度よかったの。実は、会社をクレハに任せようと思って。ジュンに本社の社長をやってもらえたら、かなり助かるわ」

 高野が、井之上商事の社長に? 僕はかなり驚いたが、高野なら確かに大丈夫だと思う。

「それで?」エミリが僕に訊いてきた。

「それで、って、何がですか?」

「あなたたちは、どうするの?」

 心臓が止まりそうになる。僕とミオコのことか。まさか、いきなりこういうシチュエーションになるとは。僕は大きく息を吸い、心を落ち着かせた。

「み、ミオコさんと、け、け、けっこん」

 その時、遠くからミオコとクレハの笑い声が聞こえてきた。買い物から帰ってきたようだ。

 エミリお母さんは、僕の手を優しく握った。

「あなたたちなら、きっと上手くいくわ。良い知らせを待ってるからね」

 僕は、大きく頷いた。


「それにしても、そろそろ行き先を教えてくれてもいいんじゃないかい?」

 旅行は一週間後に迫っているのに、クレハもミオコもなかなか行き先を教えてくれない。

「まあまあ、村上。どこに行くか分からないほうが、楽しいだろ?」

「いやまあ、そうだけどさ――って、高野、お前は知ってるのかよ!」

「まあな」

「まあな、じゃない! 何で僕だけ!」

 旅行に行くのは、僕とミオコとクレハと高野の四人。僕だけ、行き先を知らない。

「ミオコちゃんに訊いてみろよ」

「あいつも教えてくれないんだ。今日だって、たまの休日だからどこかに行こうって誘ったのに、無視して朝からどこかに行っちゃうし……」

「何だよ、フラれたのか?」

 僕は、相変わらず井之上家の屋敷に居候している。ミオコが引っ越しを許してくれないからだ。要は、飲み仲間を失いたくないのだろう。でもまあ、新しいお手伝いさんが雇われたので使用人の仕事はしなくていいし、エントランスホールに巨大なアクアリウムが完成したので、僕としても屋敷を出たくはないのだけれど。

 クレハが、意味深な笑みを浮かべて言った。

「ミオコね、今、大切な買い物中なんですって。『ずーっと悩んでる』って、さっきメールが来ました」

「大切な買い物?」

「楽しみですね、惣市郎さん」

 クレハは、一体何を言っているのだろうか。

「ところで話は変わるんだが……村上」

 高野の顔から、笑みが消えていた。

「田中さんには、会ったのか?」

 僕は、目を逸らして答えた。

「……いや、会ってない」

 田中さんは、所属していた植物生理学研究室に復帰することができたそうだ。彼女の先輩の今井さんが教えてくれた。精神的にもだいぶ落ち着きを取り戻したようで、以前とほとんど変わりない生活を送っているそうだ。

 ただ……

「まさか、お前の記憶だけが消失するなんてな」

 今井さんの話では、田中さんは僕のことを全く「知らない」と話しているのだそうだ。検見川さんによれば、残念ながらエフィカシンの副作用が原因である可能性が高いらしい。

 クレハが控えめに言う。

「でも、一度会いに行ったほうがいいのではないでしょうか」

「そうだ。ミオコちゃんからも『会いに行け』と言われてるんだろう?」

 僕は首を振る。

「だから、別にいいんだよ。僕は、これ以上彼女の人生に関わらないほうがいいんだ。僕のことを忘れてしまったなら、なおさら都合がいい」

「村上……」

 僕は、心の中で何度も繰り返していた。

 これでよかったんだ、と。


「村上くん、水槽の調子はどう?」

 中野のアクアリウムショップおおはたで、僕はアベニーパファーをぼんやりと眺めていた。店長の声に、我に返る。

「あ、はい。研究室の水槽も、井之上邸の水槽も、今のところ順調です」

「そう、良かったわ。言ってくれればいつでもメンテナンスに行くわよ。特に研究室のほう」

 店長が、目を輝かせている。最近の店長は、やたらと研究室に来たがる。

「ほら、その、たまには凛ちゃんの顔を見たいじゃない?」

 店長はそう言うが、本当の目的は検見川さんではない、と僕は分かっている。

「それで、その……冴木教授はお元気かしら」

 そう、どうやら店長は、あの超サディスティックな冴木先生に惚れ込んでしまったらしいのだ。

「相変わらずの女王っぷりですよ。あ、そういえば、今度是非とも店長と食事をご一緒したいと、言っていたような……」

「ほっ、ほんとに?」

 店長が僕に詰め寄る。

「ごめんなさい、嘘です」

「何よ、もうっ!」

 その時、店の扉に付いた鈴が鳴り響いた。お客さんだろうか。

 たくさんの水槽に囲まれた狭い通路を、白いワンピースを着た女の子が歩いてくる。彼女は、色鮮やかな熱帯魚たちを見て小さく歓声を上げた。

「いらっしゃい。どうぞゆっくり見ていって」

「はい、ありがとうございます」

 微笑む彼女の顔を見て、僕は思わず駆け寄った。

「……田中さんっ!」

 その娘は、紛れもなく田中さんだった。可愛らしい目鼻立ちにアンダーリムのメガネ。見事なまでの森ガールファッション。氷室にマインドコントロールされていた時の面影は、まるでない。それは、僕のよく知っている田中さんだった。

「えっ、じゃあ、この娘が?」

 店長も驚いているようだ。彼には田中さんのことを話してある。

 田中さんは怪訝そうな顔をしている。

「あの、私のこと、知っているんですか?」

 その言葉を聞いて、強烈な寂しさに襲われた。分かっていたことなのに、無性に切なくなる。やはり心のどこかで、彼女の記憶が戻っていることを期待していたのだろう。

「……ごめん、僕の知ってる『田中さん』に、よく似てるんだ。でも、人違いだね」

「へえ、そうなんですか。会ってみたいな」田中さんは目を輝かせて笑う。

 いつの間にか店長の姿が消えていた。

「あの、熱帯魚が好きなの?」

 田中さんは可愛らしい仕草でうーんと唸る。

「そういう訳でもないんです。用事があってこのショッピングモールに来たんですけど、なぜかこのお店が気になってしまって」

 彼女は、水槽を指でなぞりながら続ける。

「そういえば、お魚が大好きな知り合いがいたような気がするんだけど、誰だったかな……」

 僕のことだろうか。胸が締め付けられるような思いだ。

「思い出せません。とても大事な人だったような気がするんですが……」

 目頭が熱くなる。彼女の姿が、涙で滲んでよく見えない。もっと、よく見たいのに。

 僕はさり気なく涙を拭うと、出来る限りの笑顔でアベニーパファーを指差した。

「この小さいフグ、可愛いでしょ。これは、アベニーパファーっていうんだよ」

「わあっ、かわいい!」

 僕は、ただひたすら魚の話をした。田中さんは、興味深そうに水槽を見つめている。

「詳しいんですね。お店の人ですか?」

「いや、そうじゃないんだけどね。でも、アクアリウムが大好きで、このお店を行きつけにしてるんだ」

 田中さんは、僕のことをしばらく見つめていた。

「……どうかした?」

「あ、いえ。その……こんなこと言ったら変だと思われるかもしれないんですが」ほんの少し間を置いて、彼女は言った。「あなたとずっと前から知り合いだったような気がするんです。こういうのをデジャヴっていうんですかね」

 田中さん、僕はここにいるよ。心の中で、そう叫ぶ。

「あの、お名前は?」

「あ……村上です」

 田中さんは、少し恥ずかしそうに上目遣いで僕を見る。

「村上さん、また今度、お魚のお話をしていただいてもいいですか?」

 僕は、二年前の花見コンパで彼女と出会った時のことを思い出した。あの時も、彼女にアクアリウムの話をしたような気がする。

 止まっていた時計の針が、再び動き出したみたいだ。

「喜んで」僕は、精一杯の笑顔でそう答えた。


 見渡す限り、海の青。空の青。そして、白い砂浜。波の音。

 スノーケルを付けた僕は、海の中を覗きこむ。クイーンエンゼルに、ロイヤルグラマ。色鮮やかな熱帯魚が、真っ青な海の中を悠々と泳いでいる。

 さすがカリブ海。他の海域に比べて美しい魚が多いとは聞いていたが、全くその通りだ。

 海面に顔を出すと、高野の声が聞こえる。彼は、海面に顔を出してプカプカ浮いていた。

「どうだ、村上。カワイイ魚たちに囲まれて、幸せか」

「何というか、もう、死んでもいいかも」

 高野の隣でプカプカ浮かんでいるクレハが嬉しそうに笑う。

「気にいってもらえて、良かったです」

 僕は再びスノーケルを付けて顔を沈めると、クレハの美しい水着姿をじっくり眺めた。

 突然、スノーケルの中に水が入ってくる。慌ててもう一度海面に顔を出した。

「ぷはっ」

「むーらーかーみー。この変態め。あまりジロジロと紅葉を見るんじゃない」

 どうやら、高野がスノーケルに水を流し込んだようだ。

「見てません見てません」

「ミオコちゃんに言いつけるぞ」

「ああっ、ご、ご勘弁をっ!」

 高野とクレハが笑い声を上げる。

「あの子も、一緒に泳げばいいのに」

 クレハは、ビーチに目をやる。白い砂浜の上に、藁のようなもので作られたビーチパラソルが何本か立っている。その下で、ミオコはビーチチェアに横たわっている。信じられないことに、メイド姿で。

 海面で、何かが跳ねた。ジュゴンのステラだ。

「海ってサイコーっ!」

 後を追うようにして、ガブリエルも飛び跳ねる。

「最高だぜいっ!」

 波間にマナティのリナが顔を出して、気持ち良さそうにプカプカ浮いている。

 僕は、ミオコを誘おうと思って一度ビーチに戻ることにした。

 このビーチには、僕たちの他に誰もいない。それもそのはず、この島は今、僕たちの貸し切り状態だ。

 エミリお母さんが招待してくれたのは、カリブ海の西インド諸島にある、イギリス領ヴァージン諸島の中の、小さな無人島だった。かつて観光地として開発が進められ、港やホテルが建設されていたのだが、数年前に起こった世界的な金融危機によって、開発は中止された。最近になって井之上商事欧州現地法人によって再開発が始まり、小さなホテルが完成したばかりなのだそうだ。僕たちは、そのホテルの記念すべき最初の客となった。

 波打ち際に他のぬいぐるみが集まって、楽しそうに笑っている。泳げない子たちが、砂遊びをしているようだ。

「ちょっと、ばるちゃん、うごかないで!」

 バルをモデルにして、砂でサグラダファミリアを作っているらしい。

「立派なものを作らないと、ガウディおじさんに怒られるべさー」

 バルは何だかそわそわしている。その様子を、長老が眺めて微笑んでいる。

 ビーチパラソルの所まで来ると、僕はミオコに近付いた。

「ミオコ、起きてる?」

 ビーチチェアに横になるミオコは、いつものメイド服を着て、サングラスをかけ、耳にイヤホンを付けている。

「ん? 何?」彼女はイヤホンを外すと、ゆっくり起き上がった。

「せっかくだし、一緒に泳ごうよ。ていうか、その格好、暑くないの?」

 彼女は、サイドテーブルに置かれたグラスを手に取り、ストローを咥えた。

「大丈夫よ。このメイド服、オールシーズン対応だから」

 彼女はごくごくと喉を鳴らしながらグラスの中の液体を飲み干すと、ぶはーっとオヤジくさく息を吐いた。かと思うと、けふっ、と可愛らしいしゃっくりをした。

「それ、お酒?」

「そうよ、モヒート。カリブといえばやっぱりラムよね。アリエス! おかわりもらってきて!」

 ミオコは辺りを見回したが、ひつじのアリエスの姿は見えない。

「どこに行っちゃったのかしら」

「あ、いた」僕は、サイドテーブルの下に転がっているアリエスを見つけた。傍らに、ミオコと同じようなグラスが置かれている。

「大丈夫かい、アリエスくん」

「う、うーい。ちょいと、飲みすぎました」アリエスは、ふらふらと立ち上がった。「おかわり、いただいてきます」

 彼は空のグラスを持つと、ホテルの方に向かってふわふわと飛んで行った。

「結構飲んだの?」

「まあね、次で十杯目くらいかしら」

 この、飲んだくれメイドめ。

「という訳だから、しばらく海には入れないわ。酔って泳ぐのはキケンでしょ?」

「まあ、それは、そうだけど……」

 ちょっと残念だった。ちょっとというか、かなり残念だ。ミオコの水着姿、この島に着いた時から、いや、もっと前から、ずっと見たいと思っていたから。

 気が付くと、ミオコが不敵な笑みを浮かべていた。

「ったく、分かりやすい男なんだから」

 突然、彼女は僕の肩に腕をかけ、僕の体をぐいっと近付けた。彼女の美しい顔が、至近距離で目に入ってくる。

 彼女はもう一方の手で、メイド服の襟元をぐっと引っ張った。

「着てるのよ、実は」

 僕は、ごくりと唾を飲み込んだ。襟元から、刺激的な水着と、胸の谷間が見え隠れする。

「これを選ぶの、すっごい大変だったんだから。だって、あんたを喜ばせてあげたいじゃない? もう少し陽が低くなったら、あんただけに見せてあげる」

 僕は、何も考えることができなかった。ただ、こくりと頷いた。

 ミオコは両腕をゆっくりと僕の肩に回して、耳元で囁くように口ずさむ。いつもの昭和歌謡かと思ったら、何か違う。日本語じゃない。フランス語?

 これは……シルヴィ・バルタンの「あなたのとりこ」だ。六十年代から七十年代にかけて、日本でも大ヒットしたフレンチポップの歌手。これもまた懐メロに違いないが、それにしても、なんて流暢なフランス語なんだ。なんていう感想を言うほど、僕はフランス語に詳しくないのだが。

 守備範囲、広すぎる。この娘。 

 僕は、ミオコと唇を重ねた。

 ラムの香りが、僕の口にも広がっていく。悪く言えば、酒臭い。

 僕とミオコは、そのままゆっくりとビーチチェアに沈み込んでいった。




  おわり

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